第三夜 渡月橋、渡れない橋
橋というものは、不思議な場所だ。渡りきったつもりでも、心だけが取り残されることがある。
今夜も話をするために、俺はこの部屋に来て椅子に座った。
「……ほな、二つ目や」
窓の外では、風が途切れ途切れに鳴っている。
ベッドの上の女は、相変わらず目を閉じたまま動かない。俺は、その横顔をしばらく見つめてから、ゆっくりと話し始めた。視界の端で、銀色のポールが冷たく光っている。点滴の袋が、静かに、静かに中身を減らしていく。
「嵐山の橋はな、渡りきれへん橋になることがあるんや」
*****
夜の嵐山は、昼間の華やかさが嘘のように、底冷えのする闇に包まれる。昼間は優雅に見えた桂川のせせらぎは、夜の闇の中では、獲物を待ち構える巨大な獣の低い唸り声へと姿を変え、川面から立ち上る白い霧は、渡月橋の欄干を音もなく濡らしていた。
対岸の亀山の深い緑は、空と溶け合って巨大な怪物の影のようにうずくまり、時折、風が竹林を揺らす乾いた音だけが、この世のものとは思えぬほど鋭く響き渡る。木製の欄干に手を置けば、古びた木の感触が、まるで死者の肌のように冷たく指先に吸い付いてくる。
その渡月橋を、一人の男が歩いていた。
橋の中ほどまで来ると、風の質が変わった。川面から這い上がってきた湿り気が、ねっとりと頬にまとわりつく。それはただの水の匂いではない。堆積した泥と、生ぬるい川草が混じり合った、どこか腐敗を予感させる重たい匂いだ。
男は思わず襟元を合わせた。指先に触れるコートの生地は、霧を含んでじっとりと重い。吐き出す息は白く濁り、肺の奥まで冷え切った湿気が入り込んでくる。まるで、自分自身がこの深い水の底に引きずり込まれ、溶けていくような錯覚に陥る。
冷えた空気の中で、街灯の光がやけに白く浮かび上がっている。橋の上には、誰もいない――はずだった。
男が足を止める。
何かがおかしい。そんな感覚だけが、胸の奥に引っかかっていた。振り返ってみるが、まっすぐに伸びた橋の上には、やはり誰の姿もない。
「……気のせいか」
そう呟いて、再び歩き出す。だが、しばらく進んだところで、ふと違和感に気づいた。
同じ街灯、同じ影、同じ欄干、――さっきも、ここを通った気がする。足裏の感触まで、さっきと同じ位置で止まる。まるで橋の方が、こちらを覚えているみたいだ。
足を速める。それでも景色は変わらない。歩いても、歩いても、橋の中央から抜け出せない。やがて男は立ち止まる。息が荒くなり、胸の奥がざわつく。
「どういうことだ」
そう呟いたときだった。コツ、と乾いた音が、背後で鳴った。
足音がゆっくりと、確かにこちらへ近づいてくる。男はもう一度振り返った。そこには女が立っていた。見覚えがあるようで、思い出せない顔。濡れた髪が頬に張りつき、暗がりの中でわずかに光っている。
その様子を見て、ハッとした。
「……お前」
かすれた声が、勝手に漏れる。
女は答えない。ただ、じっと男を見つめ、そして、一歩だけ近づいた。橋の中央。動けないはずの場所で、確かに距離が縮まる。
「なんでや……」
男の耳に声が届いた。
「なんで、戻ってきたん?」
女は、ゆっくりと口を開いた。
その言葉に、男の思考が止まる。
戻る? 何のことだ。自分はただ、橋を渡ろうとしていただけだ。それだけのはずなのに――胸の奥に、重たい感覚が沈んでいく。
夜の空気、冷たい風、欄干の感触。
断片的な記憶が、ぼんやりと浮かび上がる。何かを掴んでいた気がする。必死に、離さないようにしていた気がする。けれど――その先が、思い出せない。
「なあ」
女が、さらに一歩近づく。
「ここ、覚えてるやろ」
男は後ずさろうとするが、足が動かない。橋の中央から、一歩も離れられない。女の視線が、まっすぐ突き刺さる。
「何回来ても、同じやで」
低く、静かな声。
その瞬間、足元の感覚が揺らぐ。視界が歪み、欄干の向こうの黒い水面が近づく。ありえない距離で、すぐそこにある。まるで――最初から、そこにあったみたいに。
「渡られへんのや」
女が言う。
「ここから先は、あのときのままやから」
その言葉の意味を理解する前に、視界が、暗く落ちた。身体が沈むような感覚。音のない落下。何かを掴もうとした気がする。
けれど、それが何だったのかは――思い出せないままだった。
――気がづけば、男は、また橋の中央に立っていた。
同じ場所、同じ夜、同じ静けさの中で。
*****
「……っていう話や」
俺は、重たい瞼をゆっくりと閉じた。
時計の音が、部屋に戻ってくる。しばらく沈黙が続いたあと、俺は小さく息を吐いた。
「橋いうのはな」
ぽつりと呟く。
「渡る場所やなくて、決める場所なんかもしれんな」
視線が、ベッドの女へ向く。
「行くか、戻るか」
わずかに間を置いて。
「……それとも」
その先は、言わなかった。ただ、静寂だけが残った。




