第二夜 祇園、消えない足音
夜の底には、昼のあいだ隠れていた音が浮かび上がる。人の足が止まったあとも、道だけが覚えていることがある。
「お連れ様は、意識はまだ戻っていませんが、生命レベルが正常に戻りましたので今日から一般病棟に移りましたよ」
物語を聞かせようと見舞いに来たら、看護師さんにこう言われた。そうか、生命レベルが戻ったのか……
夜の病院は、時折、建物の軋む音が誰かの啜り泣きのように聞こえることがあり、あまり気持ちのいい場所ではない。病室で、膝の上にノートを広げる。綴られた文字は、あいつの筆跡にも似ていて、行間の余白から、あいつの声が漏れ出してくるような錯覚に陥る。
「聞かせてあげるよ、今夜から」
暗闇が鏡となった窓ガラスに映る自分に向かって喋りかけた。その顔が、本当に自分のものなのか、一瞬だけわからなくなり、苦悶に歪んだ気がした。
「……ほな、最初の話や」
静かな部屋に、声が響いた。京言葉の柔らかな輪郭が、夜の闇に溶けていく。
窓の外は漆黒。風が途切れ途切れに鳴っている。この部屋は、いつ来ても、外の音が一切聞こえない。まるで、深い水の底に沈んでいるみたいだ。
ベッドの上には、一人の女が眠っている。目は閉じられたまま、ぴくりとも動かない。
俺は椅子に座り、その横顔を見つめながら、ゆっくりと心を落ち着けた。首を動かすことさえ、今の俺には億劫だ。ただ、視線だけを、彼女の白い横顔に固定している。
「祇園の夜はな、足音がやけに響くんや」
俺の中から、言葉が溢れ出していく。
*****
四条通から一歩、北へ折れる。そこには、昼間の喧騒を脱ぎ捨てた、濡れた石畳が広がっている。街灯の淡い光が、格子の隙間から漏れる闇を際立たせていた。
白川の流れが、深夜の静寂の中で、まるで誰かの囁き声のように絶え間なく響いている。どこからか漂うお香の残り香が、冷えた夜気に混じり、鼻腔の奥に重く沈殿していく。
そんな石畳の道を、舞妓は一人で歩いていた。
白く塗られた顔に、かすかな緊張が浮かんでいる。遅くなった帰り道。灯りはあるが、人通りは少ない。
カラン、コロン。自分の下駄の音だけが、静かな夜に広がっていく――はずだった。
だが、
カラン。一歩踏み出したその直後、
コロン。ほんのわずかに遅れて、もうひとつ音が重なった。
舞妓は足を止めて、振り返るが、誰もいない。
――細い路地、格子戸、閉まった店。人の気配はない。
けれど、歩き出せばまた、カラン、コロン。ぴたりと重なるように、足音が増える。
「祇園にはこんな話もあるんよ」
と姉さん舞妓からその話を聞いたとき、舞妓は笑った。
「祇園らしい怪談やね」
と。
けれど、それを語った姉さんは、少しも笑っていなかった。
「逃げたらあかんのやて」
ぽつり、姉さんは言った。
「逃げたら、追いつかれる」
意味がわからなかった。だが、この夜の帰り道、舞妓はその話を思い出すことになる。
カラン、コロン。
――音が、増えたのは、二つ前の角を曲がったあたりからだった。舞妓は一人で歩いていたはずだった。それなのに、背後から同じ足音がついてくる。
カラン、コロン。
振り返るが、やはり誰もいない。喉の奥が乾く。歩幅を速める。
カラン、コロン、カラン、コロン。
音も、それに合わせて速くなる。
逃げるように曲がり角をひとつ。そして、もうひとつ。やがて、石段の前に出る。下へと続く、暗い階段。昼間なら何でもない道。だが今は、底が見えない。舞妓はためらう。
そのときだった。
――コロン。
真後ろで、音が止まった。息がかかるほどの距離。
はっとして振り返るが、誰もいない。
「……いやや」
震える声で呟いたその瞬間、足首に冷たいものが触れた。
掴まれた、と理解するまでに、時間はかからなかった。ほの暗い石段の底から伸びてきた見えない手が、足首を掴んでいる。息が詰まる。声が出ない。振りほどこうとするが、びくともしない。
カラン、コロン。
今度は、舞妓の足音だけが響いた。いや、違う。引きずられている。見えない何かに、下へ、下へと。
舞妓は転んだ。石畳に膝を打ちつけ、手をついた瞬間、掴んでいたものが離れた。そして音も消えた。
しばらく、動けなかった。
恐る恐る足首を見ると、そこにははっきりとした痣が残っていた。五本の指の形をした、黒い痕。まるで――下から、必死に掴まれていたみたいに。
――という話を、その女は最後にこう締めくくった。
俺はそのときの光景を思い出す。あの夜、橋の上で――彼女は、確かに俺を見て、こう言った。
「なあ」
「ほんまに、あのとき誰もおらんかったと思う?」
*****
「……っていう話や」
俺は、静かに言葉を閉じた。
部屋に、再び静寂が戻る。時計の音だけが、規則正しく刻まれている。カチ、カチ、カチ……。この部屋の時計は、いつも正確や。俺の心臓の音よりも、ずっと。
俺は、ベッドの上の女を見る。
「なあ」
小さく呼びかける。返事はない。
「……まだ目は覚めんのか。明日の夜も話しよか」
その声は、どこか優しかった。
「せやから――まだ、終わらんといてくれや」




