第一夜 始まりの夜
水は、すべてを飲み込んで流れる。けれど、流しきれなかった後悔だけが、澱みとなって夜に残る――
ゆっくりと目を開けると白い天井が見えた。
意識の底から這い上がってくるような、重い倦怠感。自分の体がどこにあるのか、右腕が布団の上にあるのか下にあるのかさえ、判然としない。
指先を動かそうとしてみる。けれど、脳からの命令が途中のどこかで断線しているかのように、末端まで届かない。神経の一本一本が、水に濡れて重くなっているみたいだった。まぶたの裏に、まだ夜の暗さが残っている気もする。
こ、ここは、どこや……そう思った時、
「お気づきになりましたか」
と上からナースキャップを被った、白い服の女性の顔が覗いた。
まだ頭はぼんやりとするが、だんだんと目の焦点があってくる。
「か、看護師さん? ……病院?」
「そうですよ。お身体いかがですか?」
「なんで……」
「昨日の夜、川に落ちて、ここに救急搬送されて来たんです。覚えていますか?」
そう言いながらてきぱきと点滴を交換する。
そうだ。そうだった――夕べ、渡月橋から桂川に落ちたんだ。
「あぁ、そうや、思い出した」
看護師さんは、慌ただしそうにベッドの回りを歩きながら、体に繋がれた装置の数値をカルテに記録している。
「いろいろ検査をしましたが、少し水を飲んでいたのと、低体温症になりかけていた以外は、骨折など、大きなお怪我はありませんでしたのでご安心ください」
「ありがとうございます。よかった」
そう呟いて、やっと動くようになった両の手のひらを顔の前で拡げてみる。……よかったのか? 本当に?
「ちょっと体の打撲もありますので、今夜いっぱい入院して、明日、先生の診断で何もなければ退院できますよ」
と言ってから、看護師さんはちょっとかがんで小声で耳打ちした。
「お連れ様は……残念ながら、まだ意識が戻っていません」
え? 意識? 戻ってないって、どういうことや。落ちたのはたかが数メートルやのに……
ほろ酔いのまま、欄干に寄りかかりすぎて、バランスを崩して川に落ちて……それだけなのに、意識がないって……
困惑した表情が、目にとまったのか、
「落ち方と打ちどころが悪かったようで、頭と脊髄を損傷されています。生命レベルも低くICUで治療を続けています。でも頑張っていますから、きっと大丈夫ですよ」
と看護師さんは言って、お大事に、と部屋を出て行った。
「あいつが意識不明……」
その夜。
確かに体に痛いところは、まだある。でも普通に歩けるし、食事もできる。明日は予定通り退院できるだろう。部屋の窓の向こうに視線を向けると、渡月橋の灯りが見える。
「昨日、あそこから落ちた……」
静まり返った病室に、規則正しい電子音だけが響いている。視線を落とすと、サイドテーブルの上に一冊のノートが置かれていた。安っぽい表紙には『千夜一夜物語』と題名が躍っている。
そのノートの硬い感触を、指先の感覚だけで確かめ、そして声に出してみた。
「千夜一夜物語……」
あぁ、思い出してきた。聞かせなければならない、この話を。この夜が、終わってしまう前に。




