表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/8

第一夜 始まりの夜

 水は、すべてを飲み込んで流れる。けれど、流しきれなかった後悔だけが、澱みとなって夜に残る――


 ゆっくりと目を開けると白い天井が見えた。


 意識の底から這い上がってくるような、重い倦怠感。自分の体がどこにあるのか、右腕が布団の上にあるのか下にあるのかさえ、判然としない。

 指先を動かそうとしてみる。けれど、脳からの命令が途中のどこかで断線しているかのように、末端まで届かない。神経の一本一本が、水に濡れて重くなっているみたいだった。まぶたの裏に、まだ夜の暗さが残っている気もする。


 こ、ここは、どこや……そう思った時、

「お気づきになりましたか」

 と上からナースキャップを被った、白い服の女性の顔が覗いた。


 まだ頭はぼんやりとするが、だんだんと目の焦点があってくる。

「か、看護師さん? ……病院?」

「そうですよ。お身体いかがですか?」

「なんで……」

「昨日の夜、川に落ちて、ここに救急搬送されて来たんです。覚えていますか?」

 そう言いながらてきぱきと点滴を交換する。


 そうだ。そうだった――夕べ、渡月橋から桂川に落ちたんだ。

「あぁ、そうや、思い出した」

 看護師さんは、慌ただしそうにベッドの回りを歩きながら、体に繋がれた装置の数値をカルテに記録している。

「いろいろ検査をしましたが、少し水を飲んでいたのと、低体温症になりかけていた以外は、骨折など、大きなお怪我はありませんでしたのでご安心ください」

「ありがとうございます。よかった」

 そう呟いて、やっと動くようになった両の手のひらを顔の前で拡げてみる。……よかったのか? 本当に? 


「ちょっと体の打撲もありますので、今夜いっぱい入院して、明日、先生の診断で何もなければ退院できますよ」

 と言ってから、看護師さんはちょっとかがんで小声で耳打ちした。

「お連れ様は……残念ながら、まだ意識が戻っていません」


 え? 意識? 戻ってないって、どういうことや。落ちたのはたかが数メートルやのに……

 ほろ酔いのまま、欄干に寄りかかりすぎて、バランスを崩して川に落ちて……それだけなのに、意識がないって……


 困惑した表情が、目にとまったのか、

「落ち方と打ちどころが悪かったようで、頭と脊髄を損傷されています。生命レベルも低くICUで治療を続けています。でも頑張っていますから、きっと大丈夫ですよ」

 と看護師さんは言って、お大事に、と部屋を出て行った。

「あいつが意識不明……」


 その夜。

 確かに体に痛いところは、まだある。でも普通に歩けるし、食事もできる。明日は予定通り退院できるだろう。部屋の窓の向こうに視線を向けると、渡月橋の灯りが見える。

「昨日、あそこから落ちた……」


 静まり返った病室に、規則正しい電子音だけが響いている。視線を落とすと、サイドテーブルの上に一冊のノートが置かれていた。安っぽい表紙には『千夜一夜物語』と題名が躍っている。

 そのノートの硬い感触を、指先の感覚だけで確かめ、そして声に出してみた。


「千夜一夜物語……」

 あぁ、思い出してきた。聞かせなければならない、この話を。この夜が、終わってしまう前に。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ