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第9話 クリエイターの敗北と執着

 渋谷駅からセンター街の喧騒を抜け、神山町方面へ向かう緩やかな坂道。

 すれ違う若者たちはスマートフォンに目を落とし、あるいはイヤホンで音楽を聴きながら足早に歩き去っていく。昨夜、15万人という途方もない数の人間を熱狂の渦に巻き込んだはずの男は、この現実の渋谷の街ではただのヨレヨレの服を着た、図体の大きな男にすぎない。誰も彼が「天ノ川シリウス」の魂であることなど気づかず、むしろ無精髭のむさ苦しさを避けるようにして横を通り過ぎていく。

 顔が売れないことの気楽さと、役者としての微かな虚しさを同時に感じながら、任三郎はその店を探した。


 通りに面した派手な看板はなく、重厚なオーク材の扉の横に小さな真鍮のプレートが掲げられているだけの、隠れ家的なビストロ風の居酒屋。

 任三郎が指定された時間に扉を開けると、店内には客の姿はなかった。間接照明が薄暗く灯るカウンターの奥で、店主らしき白髪混じりの男性がグラスを静かに磨いている。エレナが貸し切りで手配したのだとすぐに分かった。


「こっちよ、平野さん」


 フロアの奥、一番大きなテーブル席から声が掛かる。

 エレナはタイトな黒いニットに身を包み、既に脚の長いグラスに入った赤ワインを傾けていた。テーブルの上には、オリーブとドライトマトのマリネや、バゲットに添えられたレバーパテなど、色鮮やかなつまみがいくつか並べられている。

 任三郎はミリタリージャケットを脱いで背もたれに掛け、エレナの向かいに腰を下ろした。

 店主が無言で任三郎の前におしぼりと、空のワイングラスを置く。


「ビールか焼酎が良かったかしら。ここのマスター、ワインに合うおつまみしか出さないのよ」

「構わない。出されたものを食うだけだ」


 任三郎はおしぼりで手を拭き、不格好な手つきでワイングラスのステムを摘んだ。エレナが手元のボトルから、濃いルビー色の液体を注ぐ。

 一口含むと、重い渋みとブラックベリーのような果実の香りが舌に広がった。普段アパートで飲んでいる紙パックの安酒とは全く違う、喉の奥に長く残る複雑な味だった。


「昨日の詳細なアナリティクスデータ、見る? スーパーチャットの総額だけじゃなく、視聴者の滞在維持率も過去最高を叩き出したわ」


 エレナが手元のタブレットに触れようとするのを、任三郎は手で制した。


「で、用件はなんだ。昨日の今日で、わざわざこんな店を貸し切ってまで」


 任三郎がレバーパテをたっぷりと塗ったバゲットをかじりながら本題を急がせようとした時、店の重いオーク扉が再び開いた。


「ごめんなさい、遅れたわ」


 現れたのは、上野真だった。

 地下スタジオに乗り込んできた時と同じオーバーサイズのパーカー姿だが、あの時のスポットライトを浴びているような攻撃的なオーラは鳴りを潜めていた。丁寧にブリーチされていたはずの金髪は無造作にクリップでまとめられ、足元は歩きやすさだけを重視したスニーカー。そして何より、彼女の目の下には、コンシーラーでも隠しきれない色濃い隈が張り付いていた。

 真はエレナの隣、任三郎の斜め向かいの席に乱暴に座り込んだ。


「お疲れ様、真。飲む?」

「ジンジャーエール。カフェインはもう一生分摂ったから」


 真はテーブルの上の空のグラスを指先で弾くように押しやり、深く息を吐いた。

 店主が運んできた大きな木製のボードには、薄くスライスされたハモンセラーノと、表面を香ばしく焼かれた丸ごとのカマンベールチーズが乗っていた。熱でトロトロに溶け出したチーズの断面からは濃厚な香りが立ち上り、その上にはたっぷりの蜂蜜がかけられている。添えられた粗挽きの黒胡椒が、甘い匂いの中にピリッとした刺激を加えていた。

 任三郎は無言のままフォークを手に取り、生ハムを巻いたチーズを口に運んだ。塩気と脂の甘み、そして蜂蜜の強烈な甘さが混ざり合い、赤ワインの重さと完璧に調和する。


 三人の間に、数分間の気まずい沈黙が流れた。

 グラスが傾く音と、食器がぶつかる微かな音だけが店内に響く。真は出されたジンジャーエールをストローでかき混ぜるだけで、食事には一切手をつけていない。ストローの先で氷がカラカラと音を立てる。

 やがて、氷がグラスの中で崩れるカランという音を合図にするように、真が口を開いた。


「見たわよ。昨日の配信」


 伏し目がちのまま、ストローから手を離す。


「最初から最後まで、全部」


 任三郎はフォークを置き、手元のワイングラスを見つめた。


「そうか。お気に召さなかったなら、約束通りいつでもSNSで告発してくれて構わない」


 挑発する意図はなかった。彼女が自身の作品に寄せる強烈なプライドを考えれば、あのドロドロとした生々しい演技の連続は、完璧なアイドル像を破壊する耐え難いノイズだっただろうと本気で思っていたからだ。


「告発なんて」


 真は顔を上げ、任三郎を真っ直ぐに睨みつけた。


「できるわけないでしょ。あんなもの見せられて、今更『偽物だ』なんて言えるわけないじゃない……!」


 声を震わせ、真はテーブルの下で両手を強く握りしめた。


「私の描いたシリウスは、完璧だった。前髪の落ちる角度も、マントのシワ一つも、全部私がコントロールして一番美しく見えるように設計したのよ。でも、あんたが中に入った瞬間、私の想定してた重心のバランスも、表情筋の可動域も、全部無茶苦茶になった」

「悪かったな。手加減の仕方が分からないんだ」

「謝れって言ってんじゃないわよ!」


 真は声を荒らげ、持っていた大きめのトートバッグから、分厚い液晶タブレットを引っ張り出してテーブルの上に叩きつけた。衝撃でカトラリーがガチャリと跳ねる。

 パスコードを乱暴に入力し、光る画面を任三郎の顔の前へと押し出す。


「見なさいよ。あんたのせいで、こうなったのよ」


 任三郎は目を細め、タブレットの画面を覗き込んだ。

 そこには、天ノ川シリウスの無数のラフスケッチが表示されていた。

 綺麗にポーズを決めたアイドルの立ち絵ではない。配信の終盤、膝をつき、苦悩に歪んだ顔で画面の向こうへ手を差し伸べたあの瞬間のシリウスだ。

 髪の乱れ、伏せられた睫毛の震えるような影、言葉を絞り出す直前の喉仏の動き、そして片膝に体重がかかった時の服の皺。キャンバスの上には、昨夜任三郎がモニター越しに放った生々しい感情の質量が、何十枚というスケッチの断片として狂ったような筆圧で描き殴られていた。何度も消しゴムで削られ、線の重なりが黒々と潰れている箇所すらある。


「なんだ、これは」

「あんたのあの動きが……画面越しの視線が、頭から離れなくなったのよ」


 真の息が荒くなる。充血した目で、自分の描いたスケッチと任三郎の顔を交互に指差した。


「私の作った、綺麗なだけのシリウスのガワじゃ……あんたの演技の熱量を受け止めきれてないって、思い知らされたの。あんたの動きは、私の絵の限界を、勝手に超えてた。そう思ったら……悔しくて、悔しくて、一睡もできなかった」


 言葉の端々に、認めたくない葛藤と微かな震えが滲む。


「あんたの演技は、私の絵を汚した」


 真はタブレットを自分の方へ引き寄せ、その表面を指先でそっとなぞった。


「でも……私の絵に、本物の命を吹き込んだ。あんたが呼吸をするだけで、ただのポリゴンの塊が、血の通った人間としてそこに生きてた」


 真は大きく息を吸い込み、任三郎の碧眼を正面から見据える。


「……認めてあげる。私の絵を一番輝かせる男は、あんたよ」


 任三郎は無言のまま、彼女の痛々しいほどにまっすぐな視線を受け止めた。


「だから、責任取りなさい」


 真のトーンが変わり、冷たく、そして重い執着を帯びた声が落ちる。


「責任?」

「あんたがその気なら、私が最高のガワをアップデートし続けてやるって言ってんの。あんたの、その……生々しくて重苦しい演技の全部を、1ミリのロスもなく画面の向こうのファンに叩きつけるための、最強の武器を作ってやるわ。だから」


 真は身を乗り出し、テーブル越しに任三郎との距離を詰めた。甘い香水と、徹夜明けのエナジードリンクの匂いが混ざって漂う。


「絶対に、途中で投げ出さないで。私のシリウスを、最後まであんたの命で動かし続けなさい」


 静かなビストロの空間に、彼女の言葉が染み込んでいく。

 任三郎は手元のワイングラスを持ち上げ、残っていた赤い液体を口に含んだ。渋みが心地よく喉の奥を滑り落ちていく。

 ただの生活費稼ぎの裏バイト。顔も名前も出ない着ぐるみの仕事。そう割り切っていたはずだった。

 だが、目の前にいる女は、自分の演技の価値を完全に理解し、その上で自分の人生の時間を差し出してまで、共に狂う覚悟を決めている。日本の映像業界や演劇界のどこにも居場所のなかった自分の芝居を、ここまで強烈に求めてくれる人間に出会えるとは思いもしなかった。


「華がない」「リアルすぎる」と切り捨てられてきた自分の演技が、最先端の二次元のフィルターを通すことで、一人の天才クリエイターの魂を震わせ、強烈な武器へと変貌を遂げようとしている。


「俺の芝居に、そこまで張ってくれる人間は初めてだ」


 任三郎はグラスをテーブルに置き、真に向かって低く答えた。


「その最強の武器、ありがたく使わせてもらう」


 その言葉を聞いて、真は初めてふっと表情を緩めた。張り詰めていた糸が切れたように深く背もたれに寄りかかり、手元にあった蜂蜜がけのカマンベールチーズをフォークで乱暴に突き刺して口に運ぶ。


「美味しい。お腹空いてたの忘れてた」


 チーズを咀嚼しながら、わずかに潤んだ目を細める。

 そのやり取りを黙って見ていたエレナが、満足げに微笑んで自分のグラスを持ち上げた。


「じゃあ、これで三人の利害は完全に一致したわね。天ノ川シリウスの完全復活と、私たちの新しいプロジェクトの始まりに」


 エレナがグラスを中央に掲げる。

 任三郎も無言でグラスを持ち上げた。真はジンジャーエールのグラスを手に取り、少しだけ不満そうに口を尖らせながらも、二人のグラスに自分のそれを軽く当てた。

 澄んだガラスの音が、静かな店内に響き渡る。

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