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第8話 手のひら返しの熱狂

 モニターの右側を流れるコメントが、完全に性質を変えていた。


『さあ、最高の夜を取り戻そうか』


 その一言が引き金となり、スタジオの空間を満たしていた張り詰めた空気は、底なしの熱狂へと反転した。

 任三郎は手元に立てかけられていた台本から完全に視線を外し、カメラのレンズの奥にいる「観客」だけを真っ直ぐに見据える。


「『前のシリウスと違う』……うん、そうかもしれない」


 任三郎は流れていく無数のコメントの中から、あえて戸惑いを隠せないでいる言葉を拾い上げた。

 ボイスチェンジャーを通した甘い声に、自嘲するような吐息を意図的に混ぜ込む。


「今まで、ずっと無理をして背伸びをしていた部分があった。君たちに完璧な姿だけを見せたくて。でも、一度休んで、一人で星の海を見ていたら……本当の自分を隠したまま君たちと向き合うのが、ひどく苦しくなったんだ」


 アバターが少しだけ首を傾げ、伏せ目がちにカメラを見つめる。睫毛の影が頬に落ちる角度まで、モーションキャプチャーが克明に再現した。

 その告白に、コメント欄は瞬時に反応する。


『無理しないで』

『今のシリウスの方が好き』

『めっちゃ色気ある』

『こんな声出せたんだ』

『もっと本当のこと教えて』


「ありがとう。君たちが受け入れてくれるなら、僕はもう、嘘をつかない」


 任三郎はカメラに向かって静かに微笑む。

 額を伝う汗がヘッドギアのパッドに吸い込まれ、密着するスーツの不快感は限界に達していた。だが、三十余年の人生で培ってきた役者としての集中力が、肉体のノイズを完全に封じ込めている。目の前にあるのはただの冷たいレンズではない。無数の感情が渦巻く巨大な劇場だ。


 スタジオのコントロール卓では、スタッフたちが信じられないものを見る目でモニターの数値を追う。


「スーパーチャット、処理上限に達しそうです。決済サーバーのルートを分散させます!」

「同接13万……いや、まだ伸びてます。14万突破!」


 飛び交う報告の声には、困惑を通り越した畏怖が混じっていた。画面の右側では、1万円の赤い帯、5万円の虹色の帯が、途切れることなく滝のように流れ続けている。

 エレナは腕を組み、無言でメインモニターを見上げている。配信はすでに予定の1時間を優に過ぎていた。だが、誰一人「配信を終了させろ」と指示を出す者はいない。今ここで彼を止めれば、この巨大な熱狂に冷や水を浴びせる暴挙になると、誰もが本能で理解しているのだ。


 任三郎はその後も、流れてくるコメントを丁寧に、時にユーモアを交え、時に真摯な沈黙を挟みながら拾い続けた。

 彼の言葉と言葉の間には、秒単位で計算された独特の「間」が存在する。

 3秒、あるいは4秒の完全な沈黙。その間、アバターはただ画面の向こうの視聴者を見つめ、静かに呼吸のモーションだけを繰り返す。視線をわずかにそらす、リップノイズを意図的に鳴らす、息を呑む音をマイクに拾わせる。それらの細かな技術が組み合わさり、数万人の視聴者に「次は彼が何を語るのか」という強烈な飢餓感を与えていた。


「『今日のシリウス、ヤバい』……ヤバい? それは、良い意味だと受け取っていいのかな」


 画面の中の王子様が、困ったように眉を寄せる。

 その瞬間、画面の右端を『ヤバい』『色気ヤバい』『心臓もたない』というコメントが埋め尽くし、色とりどりのスーパーチャットが再び弾け飛んだ。


 配信開始から1時間半。


「そろそろ、時間だね。今日は本当にありがとう。君たちのおかげで、僕はまたここに戻ってくることができた」


 任三郎は胸に手を当て、深く頭を下げる。


「おやすみ。いい夢を」


 最後に甘く囁き、配信終了の合図として右手を小さく振った。


「配信、終了しました」


 オペレーターの報告と同時に、スタジオのメイン照明が点灯する。

 赤外線カメラの赤い光が消え、無機質な蛍光灯の白い光が空間を満たした。


「……っ」


 任三郎は大きく息を吐き出し、その場に片膝をつく。

 ヘッドギアの重みと、スーツの密着感。1時間半にわたって全く別の人間として10万人以上の感情をコントロールし続けた疲労が、一気に肉体にのしかかってきたのだ。

 額から流れ落ちた汗が、静電気防止マットの上に丸い黒い染みを作る。

 インカムを外し、ヘッドギアのアームを押し上げると、ひんやりとした冷房の風が熱を持った肌を撫でた。


「お疲れ様」


 硬いヒールの音とともに、エレナが歩み寄ってくる。彼女の手にはタブレットが握られていた。

 任三郎は乱れた前髪の奥から彼女を見上げる。


「……クビは、免れたか」


 掠れた地声で問う。

 エレナはタブレットの画面を無言で任三郎に向けた。

 そこには、SNSのトレンドランキングが表示されている。

 1位『#今日のシリウスヤバい』

 2位『#シリウス復帰』


「同接のピークは15万3千人。配信中のスーパーチャットの総額は、前任者のバースデーライブの記録を倍近く更新したわ」


 エレナの声は平坦だったが、その瞳の奥には確かな興奮の熱が宿っている。


「……信じられない。たった一回の雑談配信で、これまでのアベレージをここまで壊すなんて。あなた、今までどこで何をしていたの」

「雑居ビルの地下で、死体の役や、借金取りに追われる役をやっていたよ」


 任三郎は自嘲気味に口角を上げ、関節を鳴らしながら立ち上がった。全身の筋肉が悲鳴を上げている。


「……明日の飯代は、稼げたと思っていいんだな」

「ええ。口座番号を教えてくれれば、明日の朝一番で特別報酬を振り込むよう経理に手配するわ。今日はゆっくり休んで」


 エレナの言葉に短く頷き、任三郎は控室のパーテーションの裏へと向かった。

 背中に張り付いたスーツを脱ぎ捨てる動作はひどく重かったが、足取りには確かな実感がこもっている。


★★★★★★★★★★★


 翌朝。

 築40年の木造アパートの四畳半には、カラスの鳴き声と、遠くを走る電車のくぐもった音が響いていた。

 壁の薄い部屋には、隣人の生活音すらうっすらと漏れ聞こえてくる。

 任三郎は万年床の薄い布団から身を起こし、首の後ろをさする。全身の筋肉が軋むように痛む。長時間のモーションキャプチャーによる疲労が、一晩寝た程度では全く抜けていない。普段の舞台稽古とは違う、細かな関節の動きや表情筋までを意識し続けた特殊な疲労感だ。

 フローリングの床を裸足で歩き、台所の小さな冷蔵庫を開ける。

 庫内にあるのは、賞味期限の近い牛乳パックと、安売りのプレーンヨーグルトのパックだけだった。

 ヨーグルトのパックを取り出し、アルミの蓋を剥がす。プラスチックのスプーンですくい、そのまま口に運んだ。

 強い酸味が舌を刺す。

 任三郎は流しの上の棚を漁り、底に数センチだけ残っていた透明なボトルの蜂蜜を取り出した。ボトルの腹を強く握っても中身は固まっており、何度か振ってようやく白いヨーグルトの上に琥珀色の液体が乱暴に数滴垂れた。

 再びスプーンですくって口に入れた。

 安っぽい人工的な甘さが酸味を和らげ、ようやく食べ物としての体裁を整える。

 パイプベッドの縁に腰掛け、ヨーグルトを胃に流し込みながら、画面の割れたスマートフォンを手にとった。

 銀行のアプリを開く。

 残高の数字が、昨日までの2桁から、劇的に跳ね上がっている。

 滞納している家賃2ヶ月分を払っても、まだしばらくは余裕で生活できるだけの金額。エレナが言っていた特別報酬が確かに振り込まれていた。


 任三郎は息を吐き、そのままブラウザを開いてSNSのタイムラインを検索した。


『天ノ川シリウス』


 検索窓に打ち込むと、昨夜の配信の切り抜き動画や、ファンアート、長文の感想が次々と表示される。


『昨日のシリウス、声のトーンが落ち着いてて大人の余裕って感じだった。心臓持ってかれた』

『間合いの取り方がエグい。なんか舞台俳優の演技見てるみたいだった』

『最初は声変わった?って戸惑ったけど、後半の語りで完全に引き込まれたわ……』

『王子様が弱さを見せてくれたの、本当に泣けた。一生推す』


 画面をスクロールする親指が止まる。

 そこに並んでいるのは、金髪碧眼の王子様の絵に向けられた称賛の言葉だ。


「平野任三郎」という、薄汚れた役者の名前はどこにもない。誰も、このボロアパートで蜂蜜入りのヨーグルトをすすっている男が、あの熱狂を生み出した張本人だとは知る由もない。


 だが、任三郎の胸の奥には、これまでどんな小劇場の舞台に立った時にも得られなかった、奇妙で確かな熱が燻っていた。

 華がない。リアルすぎて浮く。使いづらい。

 そう言われて見捨てられ続けてきた自分の演技が、顔と名前を隠し、一枚の絵を被ることで、15万人という途方もない人数の人間に届いたのだ。


「……悪くない」


 低く掠れた独り言をこぼし、任三郎はプラスチックの容器に残った最後のヨーグルトをスプーンで掻き込む。

 スマホの画面を暗くし、空になった容器をゴミ袋に放り投げた。

 立ち上がり、狭い窓から差し込む朝の光に向かって、硬く強張った肩を大きく伸ばす。


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