第10話 新しい居場所の予感
配信終了から2日後の夜。
ギャラクシー・ライブが入る高層ビルのすぐ近くにある、こぢんまりとした小料理屋の個室に二人の姿はあった。
「……なんで、俺が飯を作っているんだ」
任三郎はミリタリージャケットを脱いでTシャツ姿になり、店の厨房に立って大きな中華鍋を振るっていた。
本来なら店主が立つべき場所だが、この店はエレナの個人的な行きつけであり、今日は店主が体調不良で早仕舞いしようとしていたところを、エレナが「場所と食材だけ貸して」と強引に頼み込んで上がり込んだのだ。
厨房と小窓で繋がったカウンターの向こう側では、エレナがすでに冷酒のグラスを傾けている。
「いいじゃない。経歴書に『居酒屋の厨房バイト歴5年』って書いてあったから、腕前を見てみたかったのよ。それに、今のあなたは外をウロウロ出歩かない方がいいわ。どこで『シリウスの声』を聞かれるか分からないんだから」
エレナの言葉に反論するのも面倒になり、任三郎はまな板の上の食材に向き直った。
冷蔵庫から勝手に拝借した食材で、まずは手早く作れるものから仕上げていく。
ボウルに入れた鶏ひき肉に、みじん切りにした長ネギと生姜、少量の味噌と片栗粉を加えて粘りが出るまで手で練り上げる。熱したフライパンにオリーブオイルを引き、スプーンで丸く形を整えた肉団子を落として、表面に香ばしい焼き色をつける。厨房に肉の焼ける匂いと油の跳ねる音が響く。そこに、すり下ろしたニンニクと自家製のトマトソースをたっぷりと流し込み、中火で煮詰める。ソースの水分が飛び、肉団子の表面に赤いとろみが絡みついたところで火を止めた。
次に、コンロの隣で火にかけていた小鍋の様子を見る。出汁昆布と鰹節で丁寧にとった一番出汁に、薄口醤油とみりんで味を調え、一口大に切った厚揚げと、下茹でしてあった筍を加える。落とし蓋をして弱火でコトコトと煮含ませる間に、キャベツと人参を千切りにして塩揉みし、水気を絞ってマヨネーズと黒胡椒で和えたコールスローを小鉢に盛る。
最後に、砂抜きしてあったアサリを小鍋に入れ、殻が開いた瞬間に火を止め、信州味噌を溶き入れる。沸騰させないよう細心の注意を払い、刻んだネギを散らして味噌汁の完成だ。
「……待たせたな」
任三郎は手際よく小鉢と椀を盆に乗せ、カウンター越しにエレナの前に並べた。
鶏肉団子のトマトソース、厚揚げと筍の煮物、コールスローサラダ、そしてアサリの味噌汁。
「うわ……」
エレナは少し目を丸くして、並べられた料理を見つめた。出汁の香りがふわりと立ち上っている。
「ただのバイトの腕じゃないわね、これ。手際も味付けも、完全にプロの仕事じゃない」
「劇団の稽古の後、夜中から朝までずっと厨房に立ってた時期が長かったからな。安い食材で賄いを作るのだけは得意なんだ」
任三郎はカウンターの隅に置かれていた芋焼酎のボトルを勝手に開け、氷を入れたロックグラスに注いで自分の席についた。
エレナは箸を割り、まず厚揚げと筍の煮物を口に運ぶ。
「……美味しい。出汁が中までしっかり染みてる。トマトソースの肉団子も、和風の味付けなのに全然違和感がないわ」
「食える味なら重畳だ」
任三郎は焼酎を煽り、喉の奥が焼ける感覚に短く息を吐いた。
「で。打ち上げってのは名目で、本当の用件は別にあるんだろ。あのヒステリックな絵描きの嬢ちゃんのことか?」
任三郎が単刀直入に切り出すと、エレナは箸を置き、グラスの縁を指でなぞった。
「真のことなら心配ないわ。あの後、彼女から正式に『シリウスのモデルの全面改修』の提案が来たの。あなたのモーションデータに合わせて、骨格のバランスから表情の可動域まで、一から作り直すって。徹夜で描いたラフスケッチが何十枚も送られてきたわ。あの子、完全にあなたの虜ね」
「虜、ね。俺の演技を一番憎んでいたはずだがな」
「クリエイターなんてそんなものよ。自分の想定を超えるものを見せられたら、プライドなんか捨ててでもそれに追いつこうとする。……でも、今日話したかったのは彼女のことじゃないわ」
エレナはタブレットを取り出し、画面をタップして任三郎の前に置いた。
「昨日の配信の、最終的なアナリティクスレポートよ」
任三郎は画面を覗き込んだ。数字とグラフの羅列が並んでいるが、専門的な意味はよく分からない。
「同接のピークは15万3千人。総再生回数は一晩で300万回を突破したわ。そして、これが一番重要な数字」
エレナは画面の一部を指差した。
「視聴者の『平均視聴時間』よ。普通、雑談配信の視聴者は見たり離れたりを繰り返すから、1時間半の配信でも平均視聴時間はせいぜい20分から30分。でも、昨日のあなたの配信は、平均視聴時間が『1時間15分』を超えていたの」
「……それが、どういう意味を持つんだ」
「15万人の人間が、最初から最後まで、ほぼ誰も画面から離れずにあなたの言葉を聞き続けていたってことよ。こんな異常な数字、うちの事務所のデータを探してもどこにもないわ」
エレナの言葉に、任三郎は手元のグラスを見つめた。
15万人が、自分の芝居から目を離さなかった。
小劇場のパイプ椅子に座った数十人の客でさえ、自分の重苦しい演技に耐えきれずに途中で視線を逸らすことがあったというのに。
「平野さん。あなたの経歴書を見たけど、実力はあるのに小劇場のアンダーグラウンドな役ばかりね。多分、あなたの芝居は日本の一般的なエンタメには重すぎるって、敬遠されてきたんでしょ」
「……そうだ」
「でも、バーチャルなら話は別よ。あなたがどれだけ重くて生々しい芝居をしても、『天ノ川シリウス』という完璧な絵がフィルターになって、強烈なエンターテインメントに変換してくれる。昨日、アンチの悪意すら飲み込んだあなたの演技と、あの絵の相乗効果は凄まじかった」
エレナは身を乗り出し、任三郎の目を真っ直ぐに見据えた。
「顔を隠しているからこそ、観客はあなたの芝居の熱量だけを真っ直ぐに受け取ることができるのよ」
その言葉は、彼の胸の奥に、重く、確かな熱を持って響いた。
任三郎は無言で焼酎のグラスを空にし、冷たくなった氷を口の中で転がした。
「……買い被りすぎだ。俺はただ、言われた通りに動いただけだ」
「謙遜は美徳だけど、数字は嘘をつかないわ」
エレナは微笑み、残っていた厚揚げを口に入れた。
「さあ、冷めないうちに食べましょう。次はいつあなたが料理を作ってくれるか分からないし」
「次があるとは思わないことだ。俺は役者であって、お抱えの料理人じゃない」
任三郎は短く返し、自分も箸を取った。
★★★★★★★★★★★
深夜、築40年のボロアパート。
任三郎は狭いユニットバスでシャワーを浴び、くたびれたジャージ姿で万年床の上に胡座をかいていた。
テーブルの上には、コンビニで買った温かいゴーヤー茶のペットボトルが置かれている。
静かな四畳半の部屋に、冷蔵庫の低い稼働音だけが響いている。
任三郎は画面の割れたスマートフォンを手に取り、動画アプリを開いた。
検索窓に「天ノ川シリウス」と打ち込む。
昨夜の配信のアーカイブが一番上に表示された。再生回数はすでに350万回を超えようとしている。
再生ボタンをタップする。
画面の中で、金髪碧眼の王子様が、静かに膝をついてファンに語りかけていた。
『僕が君たちの知っている僕に見えないなら、それは僕のせいだ。君たちを不安にさせた、僕の弱さだ』
スマホの小さなスピーカーから流れてくる自分の声。
だが、画面の中の動きは、間違いなく「自分」のものではなかった。
長身で、無精髭を生やし、生活に疲れた男の姿はどこにもない。そこには、ただ純粋に「役を生きる人間」の姿だけがあった。
任三郎はゴーヤー茶のキャップを開け、一口飲んだ。独特の苦味が口の中に広がり、脳を少しだけクリアにする。
「顔を隠しているからこそ、熱量だけを真っ直ぐに……か」
エレナの言葉が脳裏に蘇る。
動画の中の自分は、完全に「天ノ川シリウス」としてそこに存在していた。骨格も、無精髭も、年齢も、すべてが美しい絵の下に隠されている。だからこそ、15万人の観客は、平野任三郎という役者が長年溜め込んできた感情のうねりだけを、一切の物理的なノイズなしで受け取ってくれたのだ。
任三郎はスマホの画面を伏せ、仰向けに布団へ倒れ込んだ。
暗い天井のシミを見つめる。
ただの裏バイトだと思っていた。明日の飯代さえ稼げれば、顔も名前も出ない仕事でも構わないと。
だが今、彼の胸の中には、これまでのどんな舞台の初日を終えた時にも感じたことのない、強烈な飢餓感が渦巻いていた。
もっと演じたい。
この美しい仮面を使って、もっと深く、もっと狂気的に、あの15万人の観客の感情をかき乱してみたい。
明日はどんな台本が用意されているのだろうか。




