第11話 次なる試練
朝の光が、薄いカーテンを透かして四畳半の部屋に差し込んでいる。
壁の薄いアパートの隣室からは、出勤の準備をする慌ただしい足音と、テレビの朝のニュース番組のくぐもった音声が漏れ聞こえていた。窓の外からは、遠くを走る電車の摩擦音と、カラスの鳴き声が断続的に響いてくる。
任三郎はささくれた畳の上に敷かれた万年床の中で身を起こし、首の後ろに手を当てた。筋肉が軋むような痛みは引いたが、関節の奥に奇妙な気怠さが沈殿している。長時間の特殊な姿勢と、神経を極限まで研ぎ澄ませるモーションキャプチャーの稼働に、自身の肉体が少しずつ順応し始めている証拠だった。
素足のまま立ち上がり、台所の小さな冷蔵庫を開ける。
立て付けの悪いドアを引くと、中の照明がチカチカと点滅した。薄暗い庫内に並んでいるのは、昨日深夜のスーパーで買い足したプレーンヨーグルトのパックと、炭酸水のペットボトル、そして見切り品の赤いシールの貼られた卵のパックだけだった。
ヨーグルトを取り出し、アルミの蓋を剥がす。表面に薄く浮いた透明な水分をプラスチックのスプーンで軽く混ぜ込み、流しの上の棚から透明なボトルの蜂蜜を取り出した。ボトルの腹を強く押す。しかし、容器はすでに空に近く、樹脂の壁面にこびりついた数滴の琥珀色がまったく落ちてこない。何度か力を込めて振ってみたが、虚しい空気が抜ける音だけが響いた。
「……ちっ」
任三郎は舌打ちをして空のボトルをゴミ箱に放り投げ、スプーンでプレーンヨーグルトをそのまま口に運んだ。
舌を刺す強烈な酸味に思わず眉をひそめながら、一気に胃の腑に流し込む。エレナからの特別報酬のおかげで口座の数字は増え、当面の生活費や家賃の心配は完全に消え去った。明日の飯代を気にして日雇いの現場労働を探す必要もない。だが、十数年かけて骨の髄まで染み付いた貧乏性が一朝一夕に抜けるわけでもなく、結局はこうした味気ない朝食が続いている。金銭的な不安がなくなっても、狭い部屋で一人台本を読み込み、架空の人物の骨格を自分の中に組み立てるという役者の孤独な日常が変わるわけではなかった。
テーブルの上に放り出されていた画面の割れたスマートフォンが、短く振動した。
ロック画面には、エレナからのメッセージが表示されている。
『今日の14時、プロデュース部の会議室へ。次の企画の打ち合わせを行います』
一切の前置きがない、事務的な業務連絡。
任三郎は残りのヨーグルトをスプーンで音を立ててかき込み、空になった容器をゴミ袋に放り投げた。水道の蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗って無精髭を無造作に撫でる。
アパートを出て、最寄り駅から地下鉄に乗り込む。
昼下がりの車内はほどよく空いており、冷房の風がミリタリージャケット越しに心地よかった。任三郎はドア付近の端の席に腰を下ろし、腕を組んで目を閉じる。
ガタン、ゴトンという一定の揺れに身を任せていると、斜め向かいの席に座っていた若い女性二人のくすくすという笑い声が耳に入ってきた。
薄目を開けて視線を向ける。二人はひとつのスマートフォンを覗き込みながら、何かのアニメーション動画に見入っていた。
「昨日の配信、ここからがヤバいんだよね」
「わかる。息を吸う音がたまらない」
漏れ聞こえてくる音声に、任三郎はわずかに眉を動かす。
甘く、低くかすれたテノール。
それは間違いなく、数日前の復帰配信で任三郎自身が発した声だった。画面の中には、金髪碧眼の王子様——天ノ川シリウスの姿が映っているはずだ。
女性たちは画面の中の王子様に魅入られ、その言葉の端々に反応して頬を緩ませている。自分の目の前に、あの声の主がいることなど微塵も疑わずに。
189センチの巨体と無精髭。すれ違う人間がみな警戒して避けていくようなこの男が、彼女たちの心をときめかせている王子様の正体であるなどと、誰が想像できるだろうか。
顔も名前も出ない裏方仕事。しかし、自分が骨組みとなり、血を通わせた「役」は、こうして現実の街の中で、見知らぬ誰かの日常に確実に食い込んでいる。
小劇場の舞台では決して得られなかった、広く、そして奇妙な繋がり。顔を出して演じていた頃には誰一人見向きもしなかった自分の芝居が、一枚の絵を被ることで、確実に世間の空気を揺らしている。
任三郎は再び目を閉じ、電車の揺れに身を委ねた。
14時前。
ギャラクシー・ライブが入る高層ビルの24階。
指定された会議室のドアを開けると、そこにはエレナだけでなく、もう一人見知らぬ人物がいた。
ガラス張りのテーブルの向かい側、窓際の席に深く腰を掛け、スマートフォンをいじっている青年。丁寧にセットされたアッシュグレーの髪に、ハイブランドの黒いシャツと細身のデニム。肌は透き通るように白く、目鼻立ちがはっきりとした端正な顔つきだ。シャツの袖口からは、細いが引き締まった手首が覗いている。
青年は任三郎がパイプ椅子を引き出して座る音に気づき、ゆっくりと顔を上げた。
189センチの巨体と、ヨレヨレのミリタリージャケット。無精髭。青年の形の良い眉が微かにひそめられ、すぐに貼り付けたような営業用の薄い笑みが浮かぶ。
「初めまして。あなたが、新しいシリウスさんですね」
青年は立ち上がることもなく、座ったまま首を軽く傾けて言った。
「平野だ。よろしく頼む」
「月城ルイのアクターよ」
ノートパソコンを開いたままのエレナが、画面から視線を外さずに事務的に補足する。
エレナはタブレットを操作し、こちらへ向けてテーブルの上を滑らせた。そこに表示されていたのは、銀髪に青いメッシュの入った、猫耳のようなフードを被った少年のキャラクターイラストだった。挑発的な笑みを浮かべ、首元にはゴツいヘッドフォンを下げている。
「次の金曜日の20時。彼とあなたのコラボ配信を行うわ」
「コラボ」
任三郎は画面の少年の絵を見つめた。
「ああ、タレント同士で一緒に配信をするやつか。画面の中に二人のキャラクターが並んで喋る」
「そう。設定上、ルイはシリウスの生意気な弟分。初代のシリウスと彼は、事務所を牽引する看板コンビとして絶大な人気があったの」
エレナはノートパソコンを閉じ、ビジネスの顔で任三郎を真っ直ぐに見据える。小料理屋で酒を飲んでいた時の砕けた空気は欠片もない。
「復帰配信の反響は凄まじかったわ。でも、ソロでの一人語りと、他のタレントとの掛け合いは全く別のスキルよ。ファンが一番シビアに見ているのは、二人の息の合い方、その『空気感』よ。二代目になって、ルイとのコンビがどう変わるのか。全員がそこを注視している」
「なるほどな」
任三郎は腕を組んだ。
「つまり、前の男と同じように、こいつの良き兄貴分として振る舞ってやればいいんだな。これまでのアーカイブ映像を見て、口調や接し方を模倣する」
「表面的な口調を似せるだけじゃダメよ。あなたなりの解釈で、ルイとの新しい関係性を板の上で作ってちょうだい」
「……そんな必要、あるんですかね」
冷ややかな声が、テーブルの向こう側から割って入った。
青年はスマホをテーブルに伏せ、両手を組んで任三郎を真っ直ぐに見据えていた。
「復帰配信、見せてもらいましたよ。すごい数字でしたね。……でも、あれは僕の知ってるシリウスじゃない。ただの、あなたの重苦しい一人芝居だ」
青年の声には、明確な棘があった。それはヒステリックな怒りではなく、冷たく研ぎ澄まされた静かな拒絶だった。
エレナが制止しようと口を開きかけるが、青年は構わずに続ける。
「僕は……あの人の背中を見て、三年やってきたんです。間の取り方とか、呼吸とか……全部、隣で必死に食らいついてきた」
青年の口調が少しずつ熱を帯びていく。テーブルの上で組まれた両手の指先が白くなっている。
「あの人は、完璧なアイドルだった……。それなのに。あなたみたいな人間が、急に隣に立って、うまくいくとでも思ってるんですか」
青年は下唇を強く噛み、任三郎を真っ直ぐに睨みつけていた。
任三郎は組んでいた腕を解き、青年の視線を正面から受け止める。
「……俺は、前の男のコピーロボットになるために雇われたわけじゃない」
任三郎の声は低く、会議室の空気を静かに震わせた。
「依頼された以上、俺は俺のやり方で、あの絵を動かす。相手がお前だろうと、それは変わらない」
「……そうですか」
青年は短く鼻で笑い、椅子を引いて立ち上がった。
「それなら、次のコラボ配信で証明してくださいよ。あなたが本当に、僕の隣に立つにふさわしい人間なのかどうか」
青年は冷たく言い放ち、会議室のドアへ向かう。
「僕もプロです。リスナーの前で配信を物理的に壊すような真似はしません。……でも、あらかじめ用意された台本通りに、仲良く終わると思わないでくださいよ」
ドアが閉まる鈍い音が響き、静寂が戻った。
エレナが小さく息をつき、手元にあった数枚の紙の束を任三郎の前に滑らせる。
「見ての通り、彼は初代に強い思い入れがあるわ。本番でどんなアドリブの無茶振りを仕掛けてくるか分からない。……受け切れるかしら」
任三郎は手元に滑ってきたコラボ配信の台本を手に取った。
パラパラとページをめくる。セリフのタイミングから細かいリアクションまで、二人の掛け合いが緻密に指定されているが、本番で相手がこの通りに動く保証はない。むしろ、どこでこの進行を破壊してくるかを見極める必要がある。
だが、相手がどんな刃を隠し持っていようと、板の上に立った以上はすべてを飲み込んで打ち返すしかない。それが役者の仕事だ。
「心配するな。俺に台本を用意してくれたんだろう」
任三郎は台本を丸めてジャケットのポケットに無造作に突っ込み、パイプ椅子から立ち上がる。
「相手が本気なら、食い甲斐があるってもんだ」
パイプ椅子の軋む音が、静かな会議室に響いた。




