第12話 天才シナリオライター
ギャラクシー・ライブのオフィスが入る高層ビルから歩いて十数分。
大通りの喧騒から一本裏手に入った路地に、目立つ看板を持たない無国籍料理のレストランがあった。漆喰の壁にアンティークの木製ドアという控えめな外観だが、一歩足を踏み入れると、クミンやコリアンダーといったスパイスと、フレッシュなハーブの複雑な香りが鼻腔をくすぐる。
薄暗い間接照明に照らされた店内は、平日の夜ということもあってか客はまばらだった。フロアの隅にある古いスピーカーからは、静かなジャズが低い音量で流れている。
任三郎はフロアの奥にある丸テーブルで、よく冷えたグラスのビールを喉に流し込んでいた。目の前には、薄切りにされた蕪の紅白サラダが盛られたガラスの皿が置かれている。オリーブオイルとビネガーのシンプルな酸味が、蕪のシャキシャキとした瑞々しい食感を引き立てていた。
テーブルを囲んでいるのは三人。
向かって右側の席には、リラックスした様子で白ワインのグラスを傾けるエレナ。彼女は今日の打ち合わせの具体的な内容を事前に語ることはなく、ただ「新しい台本の打ち合わせよ」とだけ言って任三郎をここに呼び出した。
そして正面の席には、先ほどから一言も発さず、ただじっと任三郎の顔を見つめ続けている見知らぬ女が座っていた。
ヴィンテージ風のクラシカルなレースのブラウスに、深いグリーンのロングスカート。小柄で華奢な体つきに、透き通るような白い肌をしている。ダークブラウンの髪は後ろで緩くまとめられ、薄暗い照明の中で、大きな黒目がちな瞳が氷のように冷ややかな光を放っていた。
現代的なIT・エンタメ企業が立ち並ぶこの界隈で、彼女だけが古い映画の中から抜け出してきたような、周囲から隔絶された異質な空気を纏っている。
「紹介するわ。うちの専属シナリオライター、河野由希子。今回のあなたの復帰配信の台本も彼女の仕事よ」
エレナが白ワインのグラスを置きながら言った。
任三郎は軽く頭を下げた。
「平野任三郎だ。台本、読ませてもらった。キャラクターの芯がブレていなくて、演じやすかった」
おためごかしではない、役者としての率直な感想だった。実際、彼女の書いた台本は小劇場の荒削りな戯曲よりも緻密に構成されており、言葉の選び方にも無駄がなかった。
しかし、由希子は表情を変えなかった。目の前に取り分けられたサラダには一切手をつけず、組んだ両手をテーブルの上に乗せている。
「……復帰配信のアーカイブ、見ました。秒単位で」
静かで、ひどく冷徹な響きのある声だった。
「『僕が君たちの知っている僕に見えないなら、それは僕のせいだ』。……あの台詞、私が渡したテキストのどこにありましたか」
由希子の冷ややかな視線が、任三郎を射抜く。
任三郎は蕪のサラダをフォークで刺し、口に運んだ。
「なかった。だが、あの荒れ狂うコメント欄を収めるには、言葉を足す必要があった。……俺の判断だ」
任三郎は事実をありのままに認め、手元のビールのグラスをあおった。自分の芝居とその結果について、誤魔化すつもりはない。
由希子の細い眉が、微かに動いた。
「私の書いたシリウスは、あのような場面で弱音など吐きません。……彼は、ファンを包み込む存在です。不格好な内面を晒して同情を引くなんて、あり得ない。私の構築したテキストの意図を、根底から破壊する行為です」
「板の上に立てば、相手の反応で自然と感情は動く。文字をそのまま音声にするだけなら、合成音声のソフトでも使えばいい」
「合成音声には、まだ私が求めるミリ単位の間合いや、呼吸の揺らぎを完璧に制御できるほどの精度がありません。だから生身の人間を使っているだけです」
由希子は即座に切り返し、テーブルの上に置かれた自身のフォークの柄を、指先でミリ単位で真っ直ぐに直しながら言葉を続けた。
「……あなたたちアクターは、テキストをリスナーに届けるためのスピーカーであるべきです。文字の配置、沈黙のフレーム数、呼吸の深さ。私はすべてを計算してテキストを構築しています。そこに、不確定な感情のノイズを勝手に混ぜ込まないでください。私の計算が狂います」
静かだが、一歩も譲らない創り手としての執着。
エレナは二人の応酬を止めるでもなく、静かにワイングラスを傾けていた。彼女はこの衝突を予想し、あえてこの場をセッティングしたのだろう。
メインディッシュがテーブルの中央に運ばれてきた。
ひな鳥の半身のハーブ焼きと、厚みのあるフォアグラのソテー。ローズマリーとタイムの鮮烈な香りが、こんがりと焼けた鶏の皮の脂の匂いと混ざり合う。フォアグラからはバルサミコと醤油をベースにした黒々としたソースが滴っていた。
店員がビールの空いたグラスを下げ、代わりに脚の長いグラスを三つ並べる。エレナが手で合図をすると、ブルゴーニュ産の赤ワインが静かに注がれた。
任三郎はナイフとフォークを手に取り、ひな鳥の胸肉を切り分ける。パリッとした皮の下から、熱い肉汁が溢れ出した。フォアグラのソテーを少しだけ切り取って鶏肉に乗せ、一緒に口へ運ぶ。ハーブの爽やかさと、フォアグラの濃厚な脂の甘みが口の中で溶け合う。すかさずブルゴーニュの赤ワインを含むと、果実味と程よい渋みが脂を洗い流し、深い余韻だけが残った。
だが、由希子は赤ワインのグラスには手を触れず、足元のバッグから分厚い紙の束を取り出し、テーブルの上にドンと置いた。
「次の金曜日。月城ルイ君とのコラボ配信用の台本です」
任三郎はナイフとフォークを皿に置き、分厚い台本に視線を落とした。通常1時間の配信の台本にしては、明らかにページ数が多すぎる。
「……ルイ君は、私のテキストを一字一句違わず出力できる、極めて優秀なアクターです。彼とあなたが、私の想定した通りの化学反応を起こせるかどうか」
由希子は台本の表紙を指先でトントンと叩いた。
「今回は、あなたのアドリブが入る隙間を、1秒たりとも残していません。台詞の応酬、沈黙の秒数、声のトーンの指定。すべて書き込んであります」
任三郎は無言で台本を引き寄せ、ページをめくった。
活字がびっしりと埋まっている。台詞と台詞の間には、括弧書きで異常なほどの細かいト書きが指定されていた。
『(相手の言葉を遮らず、0.5秒のタメの後に、息を吐き出すように笑う)』
『(視線を落とし、言葉の端に微かな苛立ちを滲ませて。ただし声量は上げない)』
それは単なる進行用の台本ではない。人間の感情の機微を解剖し、秒単位の指示書として再構築した緻密な設計図だった。月城ルイというタレントが、このレベルの要求を日常的にこなしているのだとすれば、彼が初代シリウスのアクターに抱いていた狂気的なリスペクトにも合点がいく。
「どうですか。ただの舞台役者に、この解像度の演技がリアルタイムで出力できますか」
由希子の瞳が、挑戦的に細められた。
「書かれた通りに、完璧な音を出してください」
食事が終わり、テーブルの上が片付けられると、黒い小さなカップが三つ運ばれてきた。
エスプレッソのダブル。
漆黒の液体の表面には、クレマと呼ばれるきめ細かい褐色の泡が分厚く層を作っている。
任三郎はデミタスカップの小さな取っ手を指先でつまみ、砂糖を入れずにそのまま口に運んだ。
凝縮されたコーヒー豆の強烈な苦味と、脳の芯を直接叩くような深い香ばしさが一気に広がる。
カップをソーサーに戻し、任三郎は正面に座る由希子を見た。
「文字の奥にある意図を汲んで、形にするのが役者の仕事だ」
任三郎は台本を丸めてミリタリージャケットのポケットに押し込んだ。
「要求が細かいほど、やり甲斐がある。期待していてくれ」
由希子は小さく鼻を鳴らし、無言のまま自身の前のエスプレッソに口をつけた。




