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第13話 仕組まれたコラボ配信

 午後1時。

 駅前の大型商業施設は、休日の買い物客でごった返していた。家族連れや若いカップルが行き交う中、ペットショップのガラスケースの前で、任三郎は足を止めていた。

 明るい照明に照らされた透明なケースの中で、灰色の縞模様をした小さな毛玉が丸まっている。スコティッシュフォールド。生後2ヶ月と書かれたポップが、ケースの端に貼られていた。特徴的な折れ曲がった耳を微かに動かし、丸く大きな目でガラス越しの巨漢を見上げている。

 これまでの任三郎なら、絶対に立ち寄らない場所だ。明日の飯代すら事欠く生活で、自分以外の命を養う余裕などあるはずがない。だが、スマートフォンで銀行のアプリを開けば、エレナから振り込まれた特別報酬の数字が確かに表示される。

 ガラスに指先を這わせると、子猫はよろよろと立ち上がり、小さな前足をガラスに押し当ててきた。ピンク色の肉球がガラス越しに押し潰されるのが見える。音は聞こえないが、小さな口が「みゃあ」と動いた。


「……」


 四畳半のボロアパートに帰っても、迎えてくれるものは何もない。ただ台本を読み込み、冷たい壁に向かって台詞を吐き出すだけの孤独な時間が待っている。その静寂に、急に耐え難い重さを感じた。

 任三郎はスマートフォンをポケットにしまい、近くで接客していた店員を呼んだ。


 1時間後。

 アパートの狭い玄関に、段ボール製のキャリーケースをそっと置く。

 扉を開けると、中からスコティッシュフォールドの子猫がおずおずと顔を出した。万年床と小さなちゃぶ台しかない殺風景な部屋を、警戒するように見回している。

 任三郎は買ってきたばかりの浅い陶器の皿に、店員に言われた通りの分量のドライフードを入れ、ぬるま湯でふやかして床に置いた。

 子猫は小さな鼻をひくつかせ、皿に近づいてクチャクチャと音を立てて食べ始める。部屋の中に、自分以外の生き物が発する生活音が響く。それは、このボロアパートに越してきて以来、初めてのことだった。

 その小さな背中の動きをしばらく見下ろした後、任三郎は壁掛け時計に視線を向けた。

 午後4時。

 スタジオに入る時間だ。

 部屋の隅に置かれたミリタリージャケットを羽織り、玄関に向かう。ドアノブに手を掛けた背中に、微かな鳴き声が聞こえた。

 振り返ると、子猫が皿から顔を上げ、口の周りに少しフードをつけたままこちらを見ている。


「……留守番、頼む」


 それだけを言い残し、任三郎はドアを閉めた。


 午後7時半。

 ギャラクシー・ライブの地下スタジオ。

 分厚い防音ガラスの向こう側にある副調整室では、エレナと並んで、シナリオライターの河野由希子がパイプ椅子に深く腰掛けていた。彼女の膝の上には、付箋がびっしりと貼られた分厚い台本が開かれている。手には赤いボールペンが握られ、その視線はガラス越しにスタジオの中央に立つ任三郎の姿を鋭く監視していた。

 任三郎は黒いモーションキャプチャースーツに身を包み、重たいヘッドギアを被っている。

 正面の巨大なモニターの画面は縦に二分割されており、右側には任三郎の動きとリンクした「天ノ川シリウス」が、左側には銀髪に青いメッシュの入ったフード姿の少年「月城ルイ」の3Dモデルが待機している。ルイのアクターである青年は、別階の防音ブースから接続していた。


「音声ライン、クリア。レイテンシ異常なし」


 スタッフの報告が飛ぶ。


「配信開始、1分前」


 任三郎は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

 由希子が突きつけてきた台本は、一言一句のアドリブすら許さない異常な解像度の指示書だ。相手の台詞への反応、沈黙の秒数、声のトーンの微細な変化。そのすべてを頭の中に完璧に叩き込んでいる。


「……10秒前。5、4、3、2、1。配信スタート」


 モニターの右側に、コメント欄のウィンドウが表示され、瞬く間に滝のような勢いでスクロールを始める。


『きたああああ!』

『ルイ君とシリウス兄のコラボ!』

『てぇてぇ』

『ずっと待ってた!』


「皆の衆、ごきげんよう! 星の海から君に会いに来た、天ノ川シリウスだよ。今日は可愛い弟分を連れてきたんだ」


 任三郎は台本の1ページ目、最初のト書きの指示通りに、胸に手を当てて優雅にカメラに向かって微笑む。


「可愛いとか言うなよ。ルイ・ファミリアのみんな、月城ルイだよ。今日はシリウス兄の復帰祝いってことで、付き合ってあげることにした」


 左側の画面で、ルイが少し生意気な笑みを浮かべて手を振る。

 そこから、由希子の台本に沿った緻密な掛け合いが始まった。

 任三郎は、自身の内に渦巻く重い感情を見事に制御し、台本に書かれた指定秒数通りの「間」を空け、指定通りの「吐息混じりの笑い」をマイクに乗せる。


「ルイは本当に、昔から素直じゃないな」

「兄貴が過保護すぎるんだって」


 二人の息の合った掛け合いに、コメントの速度がさらに上がり、『てぇてぇ』という単語や星の絵文字が画面を流れていく。別ブースにいる青年も、初代シリウスの背中を見て育ってきたと豪語するだけあり、間合いの取り方は狂いがなかった。

 ガラスの向こう側では、由希子が台本の文字をペン先でなぞりながら、無表情に頷いている。彼女の書いた「完璧な物語」が、寸分の狂いもなく出力されていることへの満足感が、その小さな肩のラインから滲み出ていた。


 配信開始から30分が経過した頃だった。

 予定されていたゲーム実況のコーナーが終わり、フリートークのパートに入る。

 台本では、ここで『最近見た映画の感想について、互いに意見をぶつけ合う』という流れが指定されている。任三郎は次の台詞を口にするため、小さく息を吸い込んだ。

 だが、その直前。


「そういえばさ、シリウス兄」


 モニターの左側で、ルイが唐突に腕を組み、カメラをまっすぐに見据えて口を開いた。


「最近、なんか隠し事してない?」


 副調整室周辺の空気が、一瞬にして凍りつくのがガラス越しにも分かった。

 由希子のペンを動かす手がピタリと止まる。台本にこんな台詞はない。


「……隠し事?」


 任三郎は極めて自然なトーンで、ルイの言葉をオウム返しにする。インカムから、エレナの鋭い舌打ちが聞こえた。


「前と少し、雰囲気が違う気がするんだよね」


 ルイは追撃を緩めない。


「本当は、僕の知らない誰かと一緒に住み始めたとか? 星の海で、何か拾ってきたんじゃないの」


 スキャンダルを匂わせるような、極めて危険なアドリブ。

 コメント欄が一瞬、不穏な速度でざわつき始める。


『え?』

『同棲?』

『誰と!?』


 別ブースにいる青年は、任三郎を物理的に追い詰める気だ。少しでも戸惑って不自然な間を空けたり、焦って声が上ずったりすれば、リスナーは瞬時に違和感を察知する。


 由希子が立ち上がりかけ、エレナがインカムのスイッチに手を伸ばす。

 しかし、任三郎は表情筋を微塵も動かさなかった。

 台本が破棄されたのなら、ここからは板の上の役者同士のインプロビゼーションだ。相手が投げた悪意のボールを、いかに拾い、相手の想定を上回る重さで打ち返すか。

 任三郎はマイクに顔を近づけ、わざと、少しだけ自嘲気味に深い吐息を漏らした。


「……バレてしまったか」


 低く、甘さを残しながらもどこか諦めを含んだ声。

 ルイのアバターが、わずかに肩をビクッと跳ねさせた。相手が否定して焦る展開を予想していた青年のペースが、一瞬狂う。


「え、あ……本当、なの?」

「最近、小さな家族が増えたんだ」


 任三郎はバミリの上でゆっくりと片膝をつき、胸の前に架空の何かを抱くようなモーションをとった。

 腕の中に収まる、小さな質量と温もりを正確に思い描く。つい数時間前に買い与えた浅い陶器の皿、不器用にドライフードを食べる音。


「地球の路地裏でね。丸まって震えている小さな毛玉を見つけて、どうしても放っておけなくて。そのまま連れて帰ってきたんだ」


 指先が、見えない柔らかな毛並みを撫でるように動く。伏せられた睫毛の奥の瞳が、これまでにないほど優しく、慈しむような光を帯びていた。


「灰色の縞模様で、耳が少し折れ曲がっててね。生後2ヶ月の、すごく臆病な子だ。今も、僕の部屋で丸くなって寝てるよ」


 コメント欄の空気が、一瞬にして爆発した。


『なんだ猫か!』

『びっくりして心臓止まるかと思った!』

『シリウス猫拾ったの!?』

『尊い……!』

『耳折れってことはスコティッシュ?』


 ルイは想定外の切り返しに、明確な動揺を見せた。アバターの視線が不自然に泳ぐ。


「……へえ、猫、ですか。シリウス兄、そんなキャラでしたっけ」

「可愛くてね。仕事が終わったら、すぐ帰って顔を見たくなるんだ。ルイも今度、見においでよ」


 余裕の笑みで返す任三郎に対し、ルイはさらに意地悪な球を投げようと焦る。


「じゃあ、どんな鳴き声なの? シリウス兄、真似してみてよ」


 キャラクターの品位を崩すような、稚拙で無茶な要求。

 だが、任三郎はためらうことなくカメラを見据えた。

 そして、ヘッドギアのマイクに限界まで口元を寄せ、喉の奥を微かに鳴らすようにして、低く囁いた。


「……にゃあ」


 それは猫の鳴き真似などではない。大人の男が戯れに甘えるような、耳の奥を直接撫でるような声。

 直後、コメント欄が崩壊した。


『ぎゃああああああ』

『死んだ』

『ヤバいヤバいヤバい』

『たすけて』


 金額の桁が跳ね上がった色付きのメッセージが、システムの処理速度を上回る勢いで次々と重なり合い、文字の層となって画面を覆い隠していく。


「あ……」


 モニターの左側で、ルイは言葉を失い、口を半開きにして固まっていた。アドリブで仕掛けたはずが、相手の底知れぬ対応力に見事に飲み込まれ、主導権を奪われたのだ。

 防音ガラスの向こう側では、立ち上がりかけていた由希子が、手にしていた赤いボールペンを強く握りしめていた。

 パキリ、と乾いた音がして、プラスチックの軸が真っ二つに折れる。

 真っ二つになったペンが静電気防止マットの上に転がり落ちるのを、エレナが静かに見下ろしている。


 任三郎は、画面の中で固まっているルイに向けて、極めて優雅に、そして残酷なまでに完璧な王子様の笑みを浮かべていた。

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