第14話 圧倒的なインプロビゼーション
画面の右端を流れるコメントの速度が、システムの処理限界を超えて白濁した光の帯のようになっていた。
任三郎がヘッドギアのマイクに口を寄せて放った低い一言は、コラボ配信の空間を完全に掌握していた。
モニターの左側に映る「月城ルイ」の3Dモデルは、口を半開きにしたまま静止している。別ブースにいるアクターの青年が、想定外の切り返しに思考をフリーズさせているのが手にとるように分かった。
相手が放ったイレギュラーな台詞を拾い、その空気感を肯定し、さらに自分の間合いへと引きずり込んで打ち返す。それは、小劇場の暗がりで、幾度となく予期せぬトラブルや相手役の台詞飛ばしを経験してきた任三郎の身体に染み付いた、極めて実戦的な技術だった。
沈黙が長引けば、放送事故になる。
任三郎はマイクとの距離をミリ単位で調整し、さらに言葉を重ねた。
「どうしたんだい、ルイ。顔が赤いぞ」
「あ、赤くなんか、ないですよ!」
マイク越しに聞こえてきた青年の声は、先ほどまでの冷たく研ぎ澄まされたものとは打って変わり、見事なまでに上ずっていた。
「そんな……そんな猫なで声、前のシリウス兄なら、絶対にやらなかったのに」
青年の口から、メタ発言スレスレの焦りが漏れる。
任三郎は少しだけ目を細め、静かな吐息をマイクに乗せた。
「おや、僕が新しい一面を見せたのが不満なのかい? それとも……僕が君以外の小さな家族に構っているのが、面白くないのかな」
「違いますよ! 誰が嫉妬なんか!」
「ふふ、ごめんごめん。でも、ルイも猫みたいだなって、前から思ってたんだ。気まぐれで、懐かないフリをして、本当はすごく寂しがり屋で」
「なっ……!」
ルイのアバターが、バッと両手で顔を覆うモーションをとる。フェイシャルトラッキングが青年の実際の狼狽を克明に拾い、キャラクターの瞳が激しく揺れ動いていた。
コメント欄がさらに加速する。
『ルイ君照れてる!』
『嫉妬ルイ可愛すぎか』
『猫扱いされて顔真っ赤じゃん!』
『今日のコラボ神回確定』
青年が任三郎を物理的に追い詰めるために放ったはずの刺々しいスキャンダル疑惑は、極めて魅力的な掛け合いとしてリスナーに消費されている。
任三郎はモニターを見つめながら、優しく語りかける。
「今度、遊びにおいで。ルイなら、きっとあの子ともすぐ仲良くなれるよ」
「……分かりましたよ。今度、チュールでも買って遊びに行きます」
青年の声から、先ほどの尖った響きが抜け落ちていた。彼は短く息をつき、任三郎が構築した空間の中に身を投じてきた。
21時過ぎ。
「配信、終了しました。お疲れ様でした!」
スタッフの声とともに、スタジオのメイン照明が点灯する。
任三郎は重たいヘッドギアを外し、汗で額に張り付いた前髪を荒々しくかき上げた。
防音ガラスの向こうの副調整室に目をやると、シナリオライターの由希子がパイプ椅子から無言で立ち上がるところだった。彼女は床に転がった真っ二つのボールペンを一瞥すらせず、足早に部屋を後にしていく。
任三郎がパイプ椅子に座ってスポーツドリンクを喉に流し込んでいると、別ブースにいた青年がスタジオに入ってきた。
青年は任三郎の前まで来ると、足を止める。
先ほどの会議室で見せた見下すような態度は消え、その端正な顔には複雑な疲労の色が浮かんでいた。
「……」
青年は何かを言おうとしてわずかに口を開き、しかし言葉を見つけられなかったのか、再び口を閉ざした。
任三郎はパイプ椅子に座ったまま、無言で彼を見上げる。
青年は小さく一礼し、踵を返してスタジオを出て行った。
「お疲れ様。着替えたら、下のエントランスに来て」
背後からエレナが歩み寄り、タブレットを小脇に抱えながら言った。
「今日はもう上がりのはずだが」
「いいから。少し付き合ってもらうわよ」
エレナはそれだけを言い残し、歩き去っていった。
30分後。
任三郎がミリタリージャケットを羽織ってビルの地下駐車場へ降りると、柱の陰に停められた黒いアウディのセダンの前で、エレナが待っていた。
「乗って」
彼女はキーのロックを解除し、運転席に乗り込む。
任三郎は助手席のドアを開け、長い脚を持て余しながら低いレザーシートに身を沈めた。車内はひんやりと冷たく、上質な革の匂いと深夜の空気が混ざり合っている。
エンジンが静かに始動し、車は地下駐車場を滑り出た。
深夜に近い東京の街は車の数も減り、街灯のオレンジ色の光だけが規則的に窓の外を流れていく。
「どこへ行く気だ」
「お腹、空いてない?」
エレナは前を見たまま、ハンドルを軽く握って答えた。
「家で待ってるのがいるからな。あまり長居はできない」
「ふふ。すっかりお父さんね」
エレナが小さく笑う。
「彼のアドリブを見事に逆手にとって、月城ルイの新しい魅力まで引き出してみせた。アナリティクスの数字も、文句のつけようがないわ。プロデューサーとして、これ以上ない仕事をしてくれた」
車はレインボーブリッジの入り口へ差し掛かり、視界が開ける。暗い海の上に、東京タワーと高層ビル群の光が浮かび上がった。
「……用意された台本を破り捨ててやったから、由希子の機嫌は最悪だろうがな」
「彼女のことは気にしなくていいわ。あの子は自分のテキストを絶対視しすぎている。生きた人間のノイズが混じるからこそ、エンターテインメントは面白くなるのに」
車は芝浦のインターを降り、運河沿いの静かな通りに入った。
24時間営業のアメリカンダイナーの前に車を停める。ネオンサインが、湿った夜の空気に赤く滲んでいた。
店内のボックス席に座り、任三郎はブラックコーヒーとベーコンチーズバーガーを、エレナはホットの紅茶だけを注文した。
深夜のダイナーには、長距離トラックの運転手や、若いカップルが数組いるだけで、静かなものだった。フロアの隅のスピーカーから、古いオールディーズのBGMが微かに流れている。
任三郎は運ばれてきたハンバーガーを両手で掴み、大きくかじりつく。粗挽きのパティから溢れる熱い肉汁と、チェダーチーズの濃厚な塩気が口の中に広がる。昼のヨーグルト以来、まともな固形物を胃に入れていなかった。
エレナは紅茶のカップを両手で包み込み、ハンバーガーを平らげる任三郎の姿を黙って見つめていた。
「……なんだ」
「別に。よく食べるわねって思っただけ」
エレナは視線をそらし、カップに口をつける。
「わざわざこんな時間にご飯に付き合わせるなんて、仕事の話でもないんだろう」
任三郎がコーヒーで肉の脂を流し込みながら尋ねると、エレナは小さく息を吐いた。
「ただの気分よ。最高のショーを見せてもらった後の、プロデューサーのささやかな祝杯ってやつ」
エレナは窓の外の運河に視線を向けた。水面が街灯を反射して黒く光っている。
「……悪くないわね」
「何がだ」
「予定調和がぶっ壊れる瞬間。緻密なデータやアルゴリズムを、一人の役者の熱量が力技でねじ伏せるのを見るのは」
彼女の横顔には、昼間の会議室で見せるような冷徹なビジネスウーマンの顔はなかった。紅茶の湯気が、彼女の表情をわずかに柔らかく見せている。
エレナは視線を戻し、任三郎の目を真っ直ぐに見据えた。
「これからも、私を退屈させないでね」
任三郎は紙ナプキンで口元を拭い、コーヒーのカップを持ち上げた。
向かいの席に座る小柄なプロデューサーの、強い意志の宿った瞳。
彼女は金や数字のためではなく、純粋に自分の芝居という「熱」に賭けてくれている。その事実が、任三郎の胸の奥に心地よい重さとして響いた。
「俺は、板の上に用意されたものを打ち返すだけだ」
任三郎はカップを置き、静かに答えた。
「退屈するかどうかは、あんたの用意する舞台次第だ」
エレナはふっと口角を上げ、満足そうに紅茶を一口飲んだ。




