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第15話 完全なる敗北

 前夜、エレナの運転する車で深夜のアメリカンダイナーからアパートの近くまで送ってもらったのは、日付が変わってずいぶん経ってからだった。


「これからも退屈させないでね」という彼女の言葉と、ホットティーから立ち上る湯気を思い出しながら、冷え切った外階段を上った記憶がある。


 薄い布団の中で目を覚ますと、外はすでに明るく、木造アパートの隙間風が顔を撫でていく。

 昨日のコラボ配信で極限まで神経をすり減らした疲労が、泥のように肉体にへばりついている。三十代の身体は、長時間のモーションキャプチャースーツによる拘束と、ミリ単位の身体制御を強いられたダメージを素直に蓄積していた。関節の奥に鈍い痛みが残り、手のひらを握り込むとわずかに指先がこわばる。

 のそりと身を起こすと、足元で小さな毛玉が「みゃあ」と短い声を上げた。

 昨日ペットショップから連れ帰ったばかりのスコティッシュフォールドだ。万年床の端に丸くなっていた子猫は、任三郎が起き上がると短い足でよろよろと近づき、すねに頭をこすりつけてきた。

 任三郎はささくれた畳を裸足で歩き、台所の隅に置いた陶器の皿にドライフードを補充する。小気味良い音を立てて子猫が餌を噛み砕くのを見下ろしながら、任三郎は狭いシンクの前に立った。

 蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。

 深夜に流し込んだベーコンチーズバーガーの重さがまだ胃の底に居座っているが、不思議と食欲はあった。疲弊した肉体が、確かな熱量を持った塩気と米を要求している。

 冷蔵庫を開け、数日前の休日にまとめて作り置きしておいたタッパーを取り出す。安売りの秋刀魚をぶつ切りにし、圧力鍋で骨まで柔らかく煮込んでおいた甘露煮だ。冷たいままでは煮汁がゼラチン状に固まっているため、小鍋に移して弱火にかける。数日寝かせたことで醤油とザラメ、千切り生姜の風味が芯まで染み込み、火を入れると照りつけるような見事な飴色の艶が蘇った。

 隣のコンロでは、ごま油を極薄く引いた鉄のフライパンを熱する。立派なサイズのタラコを乗せ、強火で表面だけをサッと転がす。パチパチと油が跳ね、外側の薄皮が白く香ばしく弾けた瞬間に素早く火から下ろす。まな板の上で包丁を入れると、香ばしい皮の内側には、鮮やかな半生の赤色が完璧に保たれていた。

 ボウルに入れた沖縄産の太いモズクには、黒酢、薄口醤油、少量のきび砂糖を素早く混ぜ合わせた自家製の合わせ酢を回しかけ、極細の針生姜を天盛りにする。

 納豆はパックから小鉢に移し、付属のタレは使わず、箸で空気を巻き込むように高速でかき混ぜる。糸が白くきめ細かく泡立ったところで、辛子と醤油を数滴垂らし、さらに力強く練り上げて粘りを極限まで引き出す。

 焼き海苔は、コンロの直火から少し離した位置でサッと裏表を炙る。黒い海苔の表面が熱でかすかに緑色を帯び、パリッとした食感とともに強烈な磯の香りが立ち上ったのを見計らって小皿に乗せる。

 真っ赤なカクテキと大粒の梅干しを添え、最後にフリーズドライの野菜スープの準備にかかる。マグカップにブロックを入れ、電気ケトルで沸かした湯を別の容器に一度移して少しだけ冷まし、85度程度の適温にしてから注ぐ。熱湯で野菜の風味が飛ぶのを防ぐためのわずかな手間だ。

 火を止めて蒸らしておいた小さな土鍋の蓋を開けると、カニ穴ができ、一粒一粒が立った白米から甘い湯気が立ち上った。


 ちゃぶ台の上に、旅館の朝食のような品数が並ぶ。

 任三郎はあぐらをかき、静かに手を合わせて箸を取った。

 秋刀魚の甘露煮は骨までホロリと崩れ、生姜の効いた甘辛い味が白米を無限に消費させる。半生の焼きタラコの塩気とごま油の風味が追い打ちをかけ、モズクの酸味で口の中をリセットする。丁寧な工程を踏んで作られた食事の熱量が、酷使した肉体の細胞一つ一つに染み渡っていくのを感じながら、任三郎は無心で箸を進めた。


 午後2時。

 ギャラクシー・ライブのオフィスフロアは、今日もせわしない熱気に包まれていた。

 防音スタジオが並ぶ廊下の奥。少し照明の落とされたエリアにある自動販売機の前で、任三郎は足を止めた。

 ブラックコーヒーのボタンを押そうと手を伸ばした視界の端に、壁に寄りかかって缶コーヒーを握りしめる青年の姿が入った。月城ルイのアクターだ。

 青年は下を向いていた。形の良い目の下には微かなクマが浮かび、思い詰めたような視線を床の静電気防止マットに落としている。その立ち姿からは、初めて会議室で会った時の、余裕に満ちたトップタレントのオーラは完全に消え失せていた。

 任三郎の足音に気づき、青年は顔を上げた。

 長身の巨体を前にしても、青年は逃げることなく、ゆっくりと壁から背中を離して姿勢を正した。


「……平野さん」


 掠れた、静かな声だった。

 任三郎は自販機から缶コーヒーを取り出し、青年に向き直った。


「昨日のアーカイブ、見直しました」


 青年の声は低く、平坦だった。だが、強く握りしめたスチール缶の表面に水滴が滲み、指先が微かに白くなっている。


「……完敗です」


 言葉を絞り出すように、青年は自嘲気味に口角を上げた。


「僕がぶち壊そうとした空気を、全部逆手に取られた。悪意で投げたボールが、視聴者にはただの『微笑ましい関係性』に見えるように、完璧に丸め込まれた」


 青年は下唇を強く噛み、一歩だけ任三郎に近づいた。


「……悔しいですよ。僕が三年かけてあの人と作り上げた場所を、たった一回の配信で塗り替えられたんですから」


 言葉の端々に、隠しきれない無念さが滲む。


「でも、一番悔しいのは……隣で演じていて、僕自身があなたの芝居に完全に飲み込まれていたことです」


 青年の真っ直ぐな瞳が、任三郎の碧眼を捉える。


「アドリブを返された時、僕は本気で動揺して、焦って……あなたが作った空気に、ただ必死にしがみつくことしかできなかった。用意された台本を破り捨てたのは僕なのに、結局、あなたという役者の手のひらの上で踊らされていたんです」


 静かな廊下に、不器用で、ひどく悔しそうな謝罪と敗北の言葉が落ちた。

 任三郎は手元の缶コーヒーの冷たさを感じながら、頭を下げる青年のつむじを見下ろしていた。

 容姿に恵まれ、若くして成功を手にした人間が、小劇場でくすぶってきた得体の知れない男に対して、純粋な「芝居」の力量差だけを理由にプライドを折っている。


「顔を上げろ」


 任三郎が静かに言うと、青年はゆっくりと顔を上げた。


「板の上で起きたことがすべてだ。お前のアドリブがなければ、あの空気は生まれなかった。それだけのことだ」


 慰めでも、驕りでもない。役者としての事実だけを口にする。

 青年はその言葉を受け止め、一度強くまばたきをした。その目の中にあった迷いや敵意の濁りが消え、代わりに、ひどく純粋な闘志の炎が灯っている。


「……平野さん。僕は、あなたを初代の代わりだとは一生認めません」


 青年の声に、再び強い圧力が宿る。


「これからは、あなたを『越えるべき壁』として見ます。あなたのその重苦しい芝居を、今度は僕が食ってみせますから。……覚悟しておいてください」


 正面からの、プロの役者としての宣戦布告。

 任三郎は微かに口角を上げ、手元のプルタブをパキリと開けた。


「いつでも来い。相手が本気なら、いくらでも付き合ってやる」


 青年は小さく頷き、もう一度だけ一礼して、真っ直ぐな足取りで廊下の奥へと歩き去っていった。


 任三郎がコーヒーを一口飲んだ時、背後のスタッフルームのドアが開いた。


「珍しい組み合わせね」


 エレナがタブレットを抱えて顔を出す。彼女は去っていく青年の背中と、任三郎の顔を交互に見た。


「彼、どうしたの。あんなに素直な顔、事務所に入ってきた時以来かも」

「さあな」


 任三郎は短く返し、もう一口コーヒーを流し込む。


「それより、次はどんな台本だ。河野由希子の用意する指示書とやらが、どうなっているか楽しみでな」


 エレナは肩をすくめ、手元のタブレットの画面を光らせた。


「そう言うと思ったわ。会議室へ行きましょうか。彼女、昨夜からずっと部屋にこもって、あなたのために専用の台本を書き上げているところよ」

「……専用の台本」

「ええ。昨日のコラボ配信でのあなたのアドリブを見て、彼女のクリエイターとしての火がついたみたい。絶対に自分のテキストであなたを支配してやるって、ものすごい執念で筆を走らせてるわ」


 エレナは面白そうに笑い、廊下を歩き出す。


「覚悟しておくことね。彼女の要求する芝居のハードルは、前回よりもはるかに跳ね上がっているはずだから」

「望むところだ」


 靴音を響かせて歩き出すプロデューサーの背中を、任三郎は静かに追った。

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