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第16話 想定を超えたカタルシス

 ギャラクシー・ライブの地下スタジオ、その最奥に位置する防音のボイス収録ブース。

 分厚い鉛入りの防音扉に閉ざされた密室で、任三郎は譜面台の上に置かれたA4サイズの台本を見下ろしていた。


 天才シナリオライター・河野由希子が持ち込んできた今回の「天ノ川シリウス・過去編」と題されたボイスドラマの台本は、通常の3倍近い厚さがあった。ページをめくると、台詞の文字よりも、赤いインクでびっしりと書き込まれた「ト書き」の方が圧倒的に面積を占めている。


『ここで0.8秒の吸気。肺の3割だけを満たす浅い呼吸』

『語尾の「ね」の母音に、わずかな摩擦音を混ぜ、音程を半音下げる』

『3秒の沈黙の後、右手の指先がわずかに震えるモーションを想定した、微かな吐息』


 それは、台本という名の強固な拘束衣だった。

 演者が自身の解釈や感情を差し挟む余白は、1ミリたりとも存在しない。ただひたすらに、河野由希子というシナリオライターの脳内にある完成図を、音声として寸分違わず出力することだけが求められている。


 防音ガラスの向こう側、薄暗いコントロールルームには、腕を組んでこちらをじっと見据える由希子の姿があった。

 クラシカルなレースのブラウスに深いグリーンのロングスカートというオールドファッションは、無機質な機材に囲まれた空間の中で異彩を放っている。ガラス越しの視線は、マイクのテスト音すら凍りつくほどに冷徹だった。


 任三郎は密着するモーションキャプチャースーツの首元を少しだけ引き下げ、ヘッドギアのマイク位置を調整した。

 連日の配信と収録の疲労が、肉体に鉛のように蓄積している。関節の奥に鈍い痛みが走り、空調の効いた室内でも肌はうっすらと脂汗をかいていた。


 任三郎は深く息を吸い込んだ。

 小劇場の暗がりで、何百回となく自身という人間を殺し、別の魂を降ろしてきた「憑依型の天才」。彼にとって、この緻密すぎる制約は、自身を縛る鎖ではなく、役を構築するための強固な「骨組み」に過ぎない。

 自身の内側にある「平野任三郎」という男の生活臭、疲労、感情を、一旦すべて黒い箱の中に閉じ込める。そして、残された肉体というハードウェアに、呼吸のリズム、重心の位置、声帯の張りを、目の前の赤いト書きの通りに物理的に組み上げていく。感情ではなく、計算された筋肉の躍動として。


 スピーカーから、収録開始の電子音が短く鳴る。

 任三郎は目を閉じ、足の裏から床の硬さを感じ取った。


「……星が、墜ちる音がしたんだ」


 最初の第一声。

 由希子の指定は『無機質で、しかし奥底に諦観を滲ませた低音。語尾にかけてフェードアウト』。

 任三郎はそれを、単なる声のテクニックではなく、物理的な肉体の動きとして変換した。肺の中に残った空気を押し出しながら、声帯を極限までリラックスさせる。摩擦によって生じる低音の響きが、マイクを通してコントロールルームへと伝わる。

 ガラスの向こうで、由希子の肩がわずかにピクリと動いた。


 収録が進む。

 任三郎の口から紡がれる言葉は、吸気のタイミング、沈黙の秒数、声の掠れ具合に至るまで、台本の指示通りに出力されていく。


「君の手は、こんなにも冷たいのに……どうして」


 指定された1.2秒の沈黙。任三郎はその間、ただ黙っていたのではない。

 奥歯を強く噛み締め、首の筋を張らせ、行き場のない喪失感を全身の筋肉の硬直として表現した。マイクは、彼が息を呑み込む微かな音と、化学繊維のスーツが軋む音までも拾い上げる。

 由希子が「記号」として指定した『吐息』や『沈黙』が、任三郎の肉体というフィルターを通すことで、生々しい血の匂いと、臓物を素手で掴み出されるような強烈な痛みを伴った音波となってコントロールルームのスピーカーを揺らす。血の通わないはずの精密なテキストが、男の呼吸と体温を吸い上げ、生々しい傷口を開いてそこに存在していた。


 ガラス越しに見つめる由希子の様子が、劇的に変化し始めていた。

 腕を組んでいた手が解け、無意識のうちにガラスに両手をついている。透き通るように白い彼女の肌が、首元から頬にかけて、見る見るうちに微熱を帯びたように赤く染まっていく。薄い唇が少しだけ開き、そこから微かな吐息が漏れた。大きく見開かれた瞳は、未知の熱源に魅入られたように釘付けになり、ガラス越しに任三郎の姿を舐め回すように追っている。


 最後の台詞を言い終え、任三郎が短く息を吐き出すと同時に、スタジオの静寂が数秒間続いた。

 やがて、インカムからエレナの「……オーケー。完璧よ」という、どこか震えを含んだ声が響き、収録は終わった。


★★★★★★★★★★★


 その日の夕暮れ。

 秋の深まりを感じさせる冷たい風が、神保町の古い裏路地を吹き抜けていた。

 古書店の並びから一本路地に入った場所にある、蔦の絡まる純喫茶。アンティークの真鍮のベルがカランと鳴り、任三郎が重い木製のドアを開ける。

 店内には焙煎されたコーヒー豆の深い香りと、かすかなヤニの匂い、そして柱時計の規則的な振り子の音が満ちていた。薄暗い間接照明の下、奥のボックス席に、由希子が先に座っていた。


 深いワインレッドのヴィンテージ・ワンピースに、黒いベルベットの小ぶりな帽子。周囲の客の怪訝な視線など気にも留めず、由希子は任三郎の顔を見ると、熱を孕んだ笑みを浮かべた。


「お疲れ様です。突然お呼び立てして、申し訳ありません」

「……構わない。エレナからは、今日の反省会だと言われている」


 任三郎は軋む革張りのソファに重い腰を下ろした。長身の彼が座ると、小さなテーブルがさらに窮屈に感じられる。

 白髪のマスターが水とメニューを持ってきたが、由希子はそれを見ずに「マンデリンを二つ。それと、カスタードプリンをお願いします」と静かに注文した。


「反省会、なんて野暮なことはしません」


 由希子は両手をテーブルの上で組み、少しだけ身を乗り出した。


「今日の収録。私の台本から、あなたは1文字もはみ出さなかった。コンマ1秒の間合いすら、私の指定通りでした」

「それが、あんたの要求だったはずだ」

「ええ。演者のエゴを一切許さない、完全な設計図を書いた。あなたを完全にコントロールするつもりでした」


 運ばれてきたマンデリンのカップから、白い湯気が立ち昇る。

 由希子はコーヒーには手をつけず、銀色のスプーンでカスタードプリンの表面を小さく割った。ほろ苦いカラメルソースが、濃い黄色の断面に流れ落ちていく。


「でも、違った」


 由希子の声が、微かに上ずった。


「私の書いた無機質なテキストが、あんな風に血を流して、悲鳴を上げるなんて。私が引いた完璧な境界線を、あなたが内側から踏み荒らして……」


 彼女の息がわずかに荒くなる。組んだ指先が、テーブルの上で白くなるほど強く握り込まれている。


「自分がすべてを支配していると思っていた。なのに、気がつけば、コントロールルームで息ができなくなっていたのは、私の方だった」


 任三郎は無言のまま、熱いマンデリンを口に運んだ。深い苦味と強いコクが、疲労した内臓に染み渡っていく。


「悔しいですよ、創り手として。……あんなの、私の台本じゃない」


 スプーンがカチンと皿に当たる音を立てた。

 由希子は身を乗り出し、真っ直ぐに任三郎を見据える。その頬は、スタジオの時と同じように赤く染まり、瞳には狂気的な熱が宿っていた。


「でも……あんなに、頭の奥が痺れるほど満たされたのは、初めてだった」


 掠れた呟きが、コーヒーの香りが漂うテーブルの上に落ちる。


「平野任三郎さん。……次は、もっと恐ろしいものを書きます。誰も息ができないような、残酷なテキストを」


 由希子の細く白い指先が、テーブルの上で任三郎のゴツゴツとした大きな手に、そっと触れた。

 冷え切った指先の感触。


「だから、また。……私を、壊して」


 執着を孕んだ甘い声。

 任三郎はため息を一つ吐き、ただ深く、濁りのないコーヒーをもう一口、喉の奥へと流し込んだ。

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