表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
17/47

第17話 人形遣いの堕落

 秋の陽射しが、薄いカーテンを透かして木造アパートの床に長方形の光を落としている。

 壁の薄い隣室からは、古い洗濯機が回る重い振動音と、朝のニュース番組のくぐもった声が微かに漏れ聞こえてきた。段ボールを改造した簡易ベッドの中で、灰色のスコティッシュフォールドが丸まって小さな寝息を立てている。

 任三郎はささくれた畳を素足で踏みしめ、狭い台所の前に立った。


 空腹が胃の腑を鋭く突いている。

 昨夜の長時間のモーションキャプチャー収録で酷使した筋肉は、ただ眠るだけでは修復されない。肩甲骨の裏側にへばりついたような鈍い痛みと、太ももの裏の張り。普段の舞台稽古とは違う、コンマ数秒、数ミリ単位で身体の動きを制御し続ける異常な緊張状態が、肉体の芯に深い疲労を刻み込んでいる。身体が強烈な塩分とエネルギーを要求していた。


 冷蔵庫を開けると、一番下のチルド室にラップで包まれたプラスチックの保存容器が入っている。中身は、スーパーの見切り品で買ってきた豚バラ肉のブロックだ。昨日の朝、醤油、ザラメ、そして料理酒の代わりに安物の合成清酒を使い、1時間以上かけてじっくりと煮込んでおいたものだ。

 容器を取り出し、流しの横の狭いスペースに置いたまな板の上に乗せる。包丁の刃を入れると、繊維の崩れかけた赤身と、琥珀色に透き通ったゼラチン質の脂身が、何の抵抗もなく沈み込んでいく。厚さ1センチほどに切り分けたそれを、小さな皿に避けておく。冷えた状態でも、甘辛い醤油と豚の脂の匂いが立ち上り、口の中にじわりと唾液が湧いた。


 次に、吊り戸棚から使いかけのペットボトルを取り出した。

 中に入っているのは、以前、日雇いの建設現場で知り合った沖縄出身の職人から、「口に合わなかったら捨ててくれ」と余り物を譲り受けた、業務用の濃縮沖縄そば出汁だ。キャップを開けると、強烈な鰹の香りと、豚骨の野性味あふれる匂いが鼻腔を殴りつける。

 一口コンロの上の小鍋に湯を沸かし、沸騰したところで冷凍の讃岐うどんを袋から滑り落とした。沖縄そばの平打ち麺など、この界隈の安いスーパーには売っていない。だが、冷凍の讃岐うどんはコシが強く、濃厚な豚骨鰹出汁にも負けない力強さを持っている。


 欠けたどんぶりに濃縮出汁を大さじ2杯入れ、電気ケトルで沸かしておいた熱湯を注ぐ。立ち上る湯気とともに、南国の乾いた風を思わせる濃密な香りが四畳半の部屋に充満した。

 菜箸でうどんをほぐし、1分きっかりで引き揚げる。シンクで力強く湯切りをし、琥珀色のスープが張られたどんぶりへ移す。その上に、先ほど切り分けた豚バラ肉を3切れ乗せ、タッパーに保存してあった刻みネギをひとつかみ散らす。最後に、冷蔵庫のポケットにあった真っ赤な紅生姜を添えれば、「讃岐うどんのなんちゃって沖縄そば」の完成だ。

 あり合わせの代用品で作った貧乏飯だが、その手際と匂いは、場末の定食屋のプロ顔負けのシズル感を放っていた。


 任三郎は小さなコタツ机にどんぶりを運び、胡座をかいて割り箸を割った。

 まずはスープを一口啜る。

 ガツンとくる鰹の旨味の直後に、豚骨のヘビーなコクが舌の根を支配する。熱い液体が喉の奥を焼け付くように通り過ぎ、空っぽの胃袋に重たい熱を落とした。内臓が急激に温められ、冷えていた全身の血流が一気に加速するのがわかる。

 続いて、箸で太い讃岐うどんを持ち上げ、一気に啜り込む。強い弾力のある麺が歯を押し返し、咀嚼するたびに顎の筋肉に確かな抵抗感を与える。甘辛く煮付けられた豚バラ肉にかぶりつくと、口の中で脂身が溶け出し、ザラメの甘みと醤油の塩気が強烈なエネルギーとなって脳の報酬系を直接刺激した。

 麺を啜り、肉を噛み、スープを煽る。そのループの合間に挟む紅生姜の酸味が、脂のしつこさを鋭くリセットし、次の一口への渇望を掻き立てる。


 額に滲む汗を手の甲で拭いながら、ひたすらに麺と肉を胃に放り込んでいると、コタツ机の上のスマートフォンが短いバイブレーション音を鳴らした。

 画面には「エレナ」の名前が表示されている。

 任三郎は箸を止めず、左手で通話ボタンをタップしてスピーカーに切り替えた。


『今、次の収録用の台本データを送ったわ。ご丁寧に、シーンごとに30個のファイルに分割されているから、落丁がないか確認しておいて』

「……了解した。相変わらず仕事が早いな」

『早いなんてもんじゃないわよ』


 スマートフォンのスピーカー越しでも、エレナの深い溜息がはっきりと聞こえた。背後からは、オフィスのキーボードを叩く音や、スタッフたちの微かなざわめきが漏れ聞こえてくる。


『あの女、一睡もしてないわ。今朝オフィスに来たら、自分のブースに引きこもって、まるで何かに取り憑かれたようにキーボードを叩き壊す勢いでタイピングしていたの。あのクラシカルなワンピースも皺くちゃで、髪もボサボサだった』


 任三郎は豚バラ肉の最後の一切れを口に放り込み、咀嚼しながらスピーカーの声に耳を傾けた。


『少し覗き見たけど……異様よ。机の上には大量の解剖学の本や、呼吸器の医学書、筋肉の構造図まで積んであったわ』

「医学書?」

『ええ。彼女、キャラクターの心情じゃなくて、あなたの「肉体の限界値」を計算して台本を書いている。何秒息を止めれば声帯がどう震えるか、どの姿勢をとれば首の筋にどれだけのテンションがかかるか。……完全に、焦点が狂っているわ』


 ギャラクシー・ライブのオフィスの光景が、目に浮かぶようだった。

 防音ブースにこもり、整っていたはずの身なりを乱すことも厭わず、充血した目でモニターを見つめ続ける由希子の姿。液晶の青白い光を反射するその目は、もはや「完璧な美しさ」など追っていない。

 ただひたすらに、自身のテキストによって任三郎という生身の肉体をどこまで追い込み、どのような軋みと悲鳴を引き出せるかという実験に没頭している。


『私が、これはアイドルの台本じゃないって忠告したの。ファンが求めているシリウスの枠をはみ出しすぎているって』

「彼女は、何と?」

『笑ってたわ。ひどく楽しそうに』


 通話の奥で、エレナが舌打ちをする音が聞こえた。


『「アイドルのガワなんて、もうどうでもいい。私のテキストで、あの人の肺が潰れる悲鳴を聞きたい」ですって。……自分が創り上げたキャラクターの物語を捨てるなんて、シナリオライターとしては完全に堕落よ。でも、上がってきたテキストの殺傷力は、これまでの比じゃないわ』

「……なるほど」

『読み込むのに時間がかかると思う。明日の夕方までには、なんとか形にしておいてちょうだい』


 通話が切れる。

 任三郎はどんぶりの底に残ったスープを飲み干し、箸を置いた。

 額から流れ落ちた汗が、顎を伝ってTシャツの襟元に吸い込まれていく。強烈な食事によって肉体は満たされたが、その奥底で、別の種類の獰猛な飢えが目を覚まそうとしていた。


 スマートフォンを手に取り、受信ボックスを開く。

 エレナから送られてきたZIPファイルを解凍すると、ずらりと並んだ30個のPDFファイルが現れた。一番上の「Scene01」をタップする。


 液晶画面に表示されたのは、前回の台本をさらに凌駕する、常軌を逸した「設計図」だった。

 テキストのほとんどが、演者の生理的な反応を強制するための細かなパラメーターで埋め尽くされている。


『声帯を極限まで締めた状態からの、0.4秒の擦過音』

『左肋骨の下部に鋭い痛みを想定。呼気の最後の一滴を絞り出す際の、横隔膜の痙攣』

『絶望による視野狭窄を表現するため、眼球の動きを固定し、瞬きの回数を1分間に2回に制限』

『心拍数の上昇を筋肉の硬直で代行。肩甲挙筋に最大のテンションをかけ、3秒後に一気に脱力させること』


「……殺しにきているな」


 任三郎は、誰に聞こえるわけでもない低い声で呟いた。

 恐れや気負いは微塵もない。画面をスクロールしていく彼の碧眼に宿っているのは、自身を極限まで試そうとするテキストに対する、純粋な闘争心だった。

 小劇場の暗がりで、何百回となく自分の限界と向き合ってきた。泥水をすするようなアンダーグラウンドの舞台でも、ここまで緻密で、物理的な負荷を強要し、殺意に近い執着を持った脚本に出会ったことはない。

 この異常な文字列は、平野任三郎という人間の臓腑を素手で掴み出し、その脈動の回数すらも完全にコントロールしようとしている。


 任三郎はスマートフォンの画面をロックし、片手で畳を突いて立ち上がった。

 四畳半の空間の真ん中に立ち、足裏で井草の感触を確かめながら、重心を下腹部に落とす。先ほど胃に流し込んだ豚バラと鰹出汁の熱が、血液となって全身の筋肉に送り込まれていくのを感じる。

 首を回し、肩甲骨を寄せて胸を張る。関節が小さく鳴る。


 任三郎は目を閉じ、肺の中の空気をすべて吐き出した。

 日常の「平野任三郎」という輪郭が削ぎ落とされ、テキストを受容するための強固な「器」へと肉体が変質していく。

 そして、暗闇の中で由希子の指定した『横隔膜の痙攣を伴う、極限の吸気』を、ただちに自身の肉体で実行に移した。

 酸素が喉を焼きながら肺へとなだれ込み、化学繊維の服の下で腹筋が激しく波打つ。テキストの鎖が肉体に食い込む鈍い痛みが、役者としての彼の神経を熱く発火させていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ