第18話 深まるバーチャルの闇
薄暗い4畳半の部屋に、電気ケトルの湯が沸き返るくぐもった音が響いていた。
任三郎は万年床の上に胡坐をかき、膝の上に広げたタブレット端末の画面を血走った目で睨みつけていた。画面には、由希子から送られてきた30個のPDFファイルの一つが表示されている。文字を追うことすら困難なほど、赤いインクでびっしりと書き込まれたト書きの群れ。
『ここで右の肺だけを満たすような浅い呼吸。0.6秒。その直後、声帯の摩擦を強めにして、母音をわずかに歪ませる』
『台詞の裏で、親指の爪が人差し指の腹を強く擦る動き。それに伴う肉体の微かな硬直を、声色に反映させること』
『視線はカメラから外さず、しかし焦点は5センチ手前に合わせる。その際の眼球の微細な揺れを、モーションキャプチャーに拾わせる』
任三郎は手元のストップウォッチのボタンを押し、息を短く吸い込んだ。指定された0.6秒。右側の肺だけを意識して膨らませ、喉の奥を意図的に狭める。そして、台詞の頭の母音を、かすかに掠れた声で出力する。
「……違うな」
低く呟き、喉仏の横に指を当てる。声帯の震えが指示よりも大きすぎる。由希子が求めているのは、もっと微細で、隠しきれずに漏れ出てしまったような感情の軋みだ。
徹夜でト書きを脳内にインストールし、実際に口の中で舌を転がし、喉仏の位置をミリ単位で調整する作業を繰り返していた。それはもはや「演技の指示」ではなく、生身の肉体への「侵襲」だった。自分の呼吸すらも他人の設計図に沿って制御しなければならない息苦しさに、Tシャツの背中にはじっとりと冷たい汗が張り付いている。
喉が焼けるような錯覚に陥りながらも、何度もリテイクを重ね、タブレットに接続したマイクで自身の声を録音しては波形を確認する。由希子の用意した「物語」は、任三郎という人間の精神と肉体の境界を溶かし、無理やり別の形に鋳造し直そうとするような暴力性を孕んでいた。息を吸い、吐き、言葉を紡ぐ。その当たり前の行為すらも分解され、再構築されていく。
プラスチックの焦げるような微かな匂いと共に、電気ケトルのスイッチがカチンと跳ね上がり、オレンジ色のランプが消えた。
任三郎は重い腰を上げ、首の後ろを揉みほぐしながら古びた木造アパートの狭い台所へ向かった。特別報酬のおかげで当面の生活費の不安は消えたが、引っ越しを考える余裕も気力もなく、まだこの隙間風の入る部屋に居座っている。立て付けの悪い窓枠が、外の風を拾って微かにガタガタと鳴っていた。
足元では、灰色のスコティッシュフォールドが短い尻尾を立ててすり寄ってくる。任三郎は冷蔵庫の横に置かれた陶器の皿にドライフードをパラパラと注ぎ込んだ。カラカラという小気味良い音が響き、子猫が夢中で食べ始める。
その横で、任三郎は食器棚の下段から特盛サイズのカップ焼きそばを取り出した。
透明なフィルムを無造作に破り捨て、ペラペラの紙蓋を半分まで剥がす。中からソース、かやく、ふりかけ、そしてマヨネーズの小袋を取り出し、乾燥した縮れ麺の上にキャベツと謎の肉の欠片をぶちまけた。
電気ケトルから熱湯を注ぎ込む。プラスチックの容器がじんわりと熱を持ち、安っぽい油と小麦の匂いが立ち昇る。
蓋を閉め、上にソースの小袋を乗せて重しにする。
スマートフォンのタイマーを3分にセットし、任三郎はシンクの縁に寄りかかって目を閉じた。長時間の集中で酷使した眼球の裏側が、ジンジンと熱を持っている。
スマートフォンのアラームが振動と共に短く鳴った。
任三郎は湯切り口のシールを剥がし、シンクに容器を傾けた。
白く濁った湯が排水溝に流れ落ちる。熱膨張によってシンクのステンレスがボコンと鈍い音を立て、むせ返るような熱気とキャベツの甘い匂いが顔を打った。湯気が顔にまとわりつく。
蓋を完全に引き剥がし、どろりとした黒い液体ソースを麺に絡めるように絞り出す。割り箸を割って底からかき混ぜると、強烈なスパイスとジャンクなソースの匂いが4畳半の空間を完全に支配した。仕上げにマヨネーズを網の目状にかけ、青海苔の混じったふりかけを散らす。
任三郎は立ったまま、割り箸で茶色く染まった麺を大きく掬い上げ、一気に口の中へ放り込んだ。
濃い。強烈な塩分と炭水化物が、空っぽの胃の腑に落ちていく。徹夜で神経をすり減らした肉体が、分かりやすいエネルギーの塊を貪欲に吸収していくのを感じながら、任三郎はひたすらに顎を動かし続けた。口の周りがソースの油分でテカるのも気にせず、二口、三口と胃袋へ流し込む。
口の周りを手の甲で拭い、ペットボトルの水をラッパ飲みしようとした時、ズボンのポケットでスマートフォンが短く震えた。
「……はい」
画面も見ずに応答ボタンをスワイプして耳に当てる。口の中の麺を咀嚼しながら応えた。
『お食事中? 悪いわね』
エレナの声だった。背景には、キーボードを叩く音やスタッフの微かな話し声が聞こえる。彼女はまだオフィスに残っているようだ。
「構わない。台本の読み込みで少し時間が飛んでいた」
『由希子のテキスト、どう?』
「狂っているな。俺の肺活量と声帯の限界を、データとして完全に把握した上で書いている。……息継ぎのタイミングを一つ間違えれば、酸欠で倒れるぞ、あれは」
『同感よ。でも、あなたはやるんでしょ?』
「……まあな」
任三郎はプラスチックの容器を台所に置き、ペットボトルの水を煽った。冷たい水が、スパイスで熱くなった食道を洗い流していく。
「用件はそれだけじゃないだろう」
『ええ』
エレナの声から、雑談の空気がスッと消え去った。
『復帰配信、そしてルイとのコラボ配信。数字だけ見れば、会社が設定したKPIをトリプルスコアでぶち抜いているわ。ギャラクシー・ライブの株価も連日ストップ高よ。……でも、少し気になる動きがあるの』
「アンチか?」
『ただのアンチなら、システムで弾けるからどうでもいいわ。問題なのは、もっと静かで、厄介な層よ。……初代シリウスの、コア中のコアのファンたち』
任三郎は眉をひそめ、シンクに置かれたカップ焼きそばを見下ろした。
『彼女たちは、今のあなたを「偽物」だと直感で気づいている。でも、表立って騒がないの。掲示板やSNSでの表面上の怒りはもう鎮火しているように見えるけど、アナリティクスのデータを深く掘ると、不気味なことが分かったわ』
エレナが手元のキーボードを叩く音が、インカム越しに聞こえる。
『アーカイブの異常な再生パターンが検知されたわ。特定の少数のアカウントが、不自然なほど細かく区切って音声を抽出している形跡があるの』
「……」
『平野さん。あなたの演技は完璧よ。でも、長時間の配信の中で、どうしてもあなた自身の生々しいノイズが漏れる瞬間がある。……水面下で、あなたの中身を特定しようとしている連中がいるわ』
任三郎は空いた手で後頭部をかいた。自分が舞台上で見せる些細な癖、呼吸の深さ、息継ぎのタイミング。それらがデジタルデータとして完全に記録され、見知らぬ誰かに解剖されているという気持ち悪さが、胃の底に澱のように沈む。
「了解した。……ボロは出さない」
『頼むわ。今、ここで中身がただの小劇場俳優だとバレたら、会社が吹き飛ぶわよ』
通話が切れる。
任三郎は冷めかけた198円のカップ焼きそばを再び手に取り、無言で残りの麺をかき込んだ。
★★★★★★★★★★★
都内の一等地に建つ、セキュリティの厳重な高級マンションの一室。
広々とした部屋のメイン照明は落とされ、防音材の張られた壁に囲まれた空間は、異様なほどの静寂に包まれていた。横に並んだ3枚の巨大な液晶モニターが放つ青白い光だけが、部屋の主の顔を冷たく照らし出している。
藤本英子、16歳。
オーバーサイズのパーカーの袖をまくり上げ、人間工学に基づいた高級なワークチェアに深く腰を沈めた彼女の視線は、中央のモニターに完全に釘付けになっていた。青白い光に照らされたアッシュブロンドのボブヘアが、彼女の細かな動きに合わせて微かに揺れる。
細く白い指先が、青軸のメカニカルキーボードを規則的なリズムで叩く。カチャカチャという乾いた音が、密室に響き渡る。
中央のモニターには、プロ仕様の音声解析ソフトの複雑なUIが立ち上がっていた。
画面の上半分には、「初代天ノ川シリウス」の配信アーカイブから抽出された音声のスペクトログラムが表示されている。そして下半分には、現在「二代目」が配信している最新のアーカイブの音声データが並べられていた。
英子はマウスのホイールを回し、特定の秒数の波形をミリ秒単位で極限まで拡大する。
『――最近、小さな家族が増えたんだ』
ヘッドホンから流れてきた、二代目シリウスの低く甘い声。
コメント欄のリスナーたちが歓喜し、悲鳴を上げているそのシーンの音声を、英子は虫の死骸でも解剖するように無表情で解析にかけていく。
「……周波数の推移、揺らぎ……見事に寄せてる」
独り言のようにボソッと呟きながら、英子はフィルターを切り替えた。
彼女が探しているのは、声そのものではない。完璧に作られた声と言葉の「間」に落ちる、無意識のノイズだ。
ボーカルトラックをミュートし、背景の無音部分の音量だけを極限までブーストする。サーッというホワイトノイズの中に、微かな衣擦れの音と、発声直前の息遣いが浮かび上がった。
波形の一部を切り抜き、ノイズキャンセリングのアルゴリズムを反転させる。ノイズだけが抽出され、波形が鋭く上下に振れる。
「……吸気が、違う」
英子は目を細め、モニターに顔を近づけた。
「初代は……胸式。この泥棒は……腹式」
キーボードを叩く音が、少しだけ鋭さを増す。
「……横隔膜を、一気に……強い吸気音」
左側のモニターには、初代シリウスの笑顔の静止画が全画面で表示されている。英子はその画像に一瞥をくれ、マウスを握る手に少しだけ力を込めた。そしてすぐさま右側のモニターへと視線を移す。
「……舞台、か」
右側のモニターでは、すでに自作のクローラーと呼ばれる自動巡回プログラムが走り始めていた。無数の小劇場の公演記録、マイナーな舞台俳優のデータベース、劇団の宣伝用動画などが次々とリストアップされ、条件に合わないものがものすごい速度で弾かれていく。
「185センチ以上……20代後半から30代。……場数を踏んでる、実力派」
検索条件のパラメーターを次々と入力していく。オープンソースの骨格推定アルゴリズムを独自に改造したスクリプトを走らせる。配信中のアバターのモーションデータから逆算された歩幅、腕の振り、重心の移動の癖。それらの数値的な特徴量を、現実の劇団が公開している舞台映像や俳優たちのプロフィール写真と並行して照合させていく。途方もない計算量だが、彼女が構築した自宅のサーバー群はそれを静かに処理していく。
英子はマウスから手を離し、コーヒーの入ったマグカップに口をつけた。すでにすっかり冷え切っているが、気にする様子もない。彼女の瞳にあるのは、絶対的な真実を暴き出そうとする氷のように澄み切った執念だけだ。
プログラムがデータを弾き続ける中、部屋の中には冷却ファンの低い唸り声と、キーボードを叩く音だけが響いていた。
数万件のデータがスクリーニングされ、画面上の進行バーがジリジリと右へ進んでいく。
やがて、右側のモニターのスクロールがピタリと止まった。
「Match: 1」という緑色の文字が点滅している。
英子はコーヒーカップをデスクに置き、身を乗り出した。
彼女の氷のように冷たい瞳に、緑色の光が反射する。
ウィンドウが自動的にポップアップし、一枚の画像が画面の中央に表示された。それは、どこかの小劇場のパンフレットから切り抜かれた、無精髭を生やした大柄な男の、古ぼけた白黒の宣材写真だった。平野任三郎。その文字列が、顔写真の下に表示されている。
「……見つけた」
ひどく冷たい声が部屋に落ちる。
英子はマウスを握り直し、その男の詳細データを引きずり出すため、再びキーボードを叩き始めた。




