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第19話 エレナの覚悟

 ギャラクシー・ライブの最上階。分厚い防音扉で閉ざされた重役会議室には、空調の低い唸りだけが響いていた。

 壁面の巨大なモニターには、昨夜行われた「天ノ川シリウス」の配信データがグラフ化されて表示されている。右肩上がりに急上昇する曲線は、企業にとって本来であれば手放しで喜ぶべき成果だ。しかし、マホガニーの長机を囲む十数名の役員たちの表情は一様に険しかった。


「数字は確かに伸びている。しかし、エレナ君。このコメント欄の有様はなんだ」


 奥の席に座る白髪混じりの専務が、手元のタブレットを指先で弾きながら不快感を露わにした。


「『肺が潰れる音が聞こえた』『魂が削られる』。我々が提供しているのは、疲れた現代人に癒やしを与えるバーチャルアイドルのはずだ。こんな猟奇的な舞台演劇を誰が望んでいる?」


 エレナはタイトなパンツスーツの背筋を伸ばし、射抜くような冷徹な眼差しで専務を見据えた。


「ユーザーです。同接数は前月比で150%、スーパーチャットの収益は300%の伸びを記録しています。新規のアカウント登録者層も、これまでの10代20代だけでなく、30代以上の層にまで劇的に拡大しました。ユーザーの平均滞在時間も40分延長されています。彼らは間違いなく、今のシリウスに熱狂しています」

「熱狂の種類が違うと言っているんだ! 先日上がってきた河野由希子のシナリオも常軌を逸している。あの得体の知れない男が中の人になってから、シリウスというIP全体が黒く濁ってきているんだ。スポンサーである大手飲料メーカーの担当者も、ブランドイメージとの乖離を危惧していたぞ。我々が売っているのは仮想の癒やしだ。生々しい現実の痛みではない」


 専務は苛立たしげにテーブルを叩いた。


「キャラクターのガワを変えるわけにはいかん。なら、中身を本来の路線に戻すしかない。あの男の契約を打ち切り、言うことを聞く素直な若手声優をオーディションで探し直せ。これが上層部の決定だ」


 会議室の空気が凍りつく。他の役員たちも、専務の言葉に無言で同意を示していた。誰もが、コントロールの効かない異物から目を背け、従来の安全な枠組みに収まることを望んでいるのだ。

 エレナは小さく息を吸い込み、明確な敵意を持って口角を上げた。


「お断りします」

「なんだと?」

「彼を降ろせば、今のシリウスの熱狂は確実に死にます。一度、火傷するような本物の熱を知ってしまった観客に、ぬるま湯のアイドルを差し出しても、誰も見向きもしませんよ。彼らはもう、綺麗なだけの幻では満足できない身体になっています」


 エレナは立ち上がり、テーブルの上に両手をついて身を乗り出した。


「スポンサーが降りるというなら、私が今の数字を持って新しいスポンサーを引っ張ってきます。文句があるなら、私が叩き出す利益以上の数字を作ってからにしてください」


 呆気にとられる役員たちを残し、エレナは高いピンヒールの音を響かせて会議室を後にした。


★★★★★★★★★★★


 午後8時。

 錆びついた外階段をピンヒールで登る足音が響き、任三郎の住む築40年の木造アパートの鉄扉を、規則的なノックの音が叩いた。

 台所で子猫の餌の皿を洗っていた任三郎が手を拭い、ささくれたドアを開けると、そこには不釣り合いなほど上等なスーツを着たエレナが立っていた。

 その両腕には、大きな白い発泡スチロールの箱が抱えられている。エレナの細い腕には不釣り合いな重さらしく、彼女は少し息を切らしていた。


「こんな時間に何の用だ。次の台本なら、データで送れば済むだろう」


 任三郎はドアノブを握ったまま、怪訝そうに見下ろした。


「こんばんは。急にごめんなさいね。ちょっと荷物が重くて」


 エレナは任三郎の身体の脇をすり抜けるようにして、半ば強引に上がり框を越えた。足元では、昨日拾ってきたばかりの灰色のスコティッシュフォールドの子猫が短い尻尾を立ててすり寄り、エレナのストッキングに頭をこすりつけている。


「知り合いから沖縄土産をどっさり送ってもらったのよ。でも私、家のキッチンはコーヒーを淹れるくらいしか使わないし、このまま腐らせるのももったいないでしょ? だから、あなたに消費してもらおうと思って」


 エレナは発泡スチロールの箱を段ボールのテーブルの上にドンと置き、大きく息を吐き出した。その表情には、普段の隙のないプロデューサーの顔からは想像できないような、深い疲労の色が滲んでいる。

 任三郎は短くため息をつき、箱の蓋を開けた。

 中には、真空パックにされた分厚い豚の角煮である「らふてー」が3つ、瑞々しい緑色の立派な苦瓜が2本、それに泥付きの大きな大根と人参、肉厚の椎茸などが無造作に詰め込まれていた。


「食材の処理を押し付けにきただけか」

「経歴書に書いてあった『居酒屋の厨房バイト歴5年』の腕前を信用してるのよ。お腹、空いてるの。何か作ってちょうだい」


 エレナはささくれた畳の上に遠慮なく座り込み、子猫の頭を撫で始めた。高いピンヒールで急な外階段を上ってきた疲れを癒やすように、肩の力が抜けきっている。

 任三郎はもう一度ため息をつき、無言で食材を抱えて狭い台所に向かった。


 まな板の上に泥付きの大根を乗せ、包丁を入れる。一定のリズムでトントンと硬い音が響く。

 まずは苦瓜の処理からだ。縦に半分に割り、スプーンで種と白い綿を削り取る。この綿を丁寧に取り除くことが、不快な苦味を残さないコツだ。薄い半月切りにしてボウルに入れ、塩を揉み込んでしばらく置く。

 その間に煮込みの準備にかかる。大根と人参は皮を剥き、手早く乱切りにしていく。親指の腹で包丁の峰を支え、刃先を滑らせて面取りも怠らない。鍋の中で具材同士がぶつかって煮崩れるのを防ぐための、長年の厨房作業で染み付いた手癖だった。厚揚げには電気ケトルで沸かした熱湯をかけて油抜きをし、食べやすい一口大に切る。椎茸には斜めに包丁を入れて飾りを施し、隠元は筋を取って塩茹でし、冷水に取って鮮やかな色止めをしておく。


 深めのフライパンに少量の油を熱し、大根と人参を炒める。根菜特有の土の匂いが香ばしさに変わったところで、真空パックのらふてーを開封し、ゼラチン状に固まった煮汁ごとフライパンに投入した。

 ジューッという激しい音とともに、豚の脂と甘辛い醤油の香りが、換気扇の弱い狭い部屋に爆発的に広がった。冷え切っていたアパートの空気が、一気に温かな食事の匂いで満たされていく。エレナは壁の柱に背を預け、目を閉じてその匂いを深く吸い込んでいた。

 足りない水分を鰹節の粉末出汁で補い、酒とみりんを足して味を調える。アルミホイルで落とし蓋をし、古いガスコンロの不安定な弱火を調整しながら、じっくりと煮込んでいく。


 塩揉みしておいた苦瓜を水洗いして水気を固く絞り、薄切りにしたミョウガと合わせる。酢、薄口醤油、ごくわずかな砂糖で作った合わせ酢で和え、小鉢に盛り付けた。

 最後に味噌汁の準備にとりかかる。小鍋で鰹の出汁を温め、味噌を溶き入れる。沸騰する直前で火を止め、5センチ幅に切った水菜を放り込む。水菜は余熱だけで火を通すことで、特有のシャキシャキとした食感を残すことができる。

 煮込みの落とし蓋を取ると、大根は琥珀色に色づき、らふてーの脂が溶け出した煮汁が艶やかにとろみをつけていた。器にこんもりと盛り付け、鮮やかな緑色の隠元を添える。


「できたぞ」


 任三郎が声をかけると、段ボールのテーブルに、沖縄風煮込み、苦瓜の酢の物、水菜の味噌汁、そして炊飯器からよそった白飯が並べられた。


「いただきます」


 エレナは箸を割り、まずは煮込みの大根に箸を入れた。力を入れずともスッと箸が通る。口に運ぶと、鰹の風味と豚の濃厚な旨味が芯まで染み込んでおり、大根が舌の上で熱いスープのように溶けた。

 次にらふてーを齧る。皮付きの豚バラ肉はトロトロに煮込まれており、赤身の部分も驚くほど柔らかい。

 エレナは小さな息を漏らし、目尻をわずかに下げた。


「美味しい」

「元々のらふてーの出来がいいだけだ」


 任三郎は向かいに座り、味噌汁を啜りながら目の前の女を観察した。

 エレナは酢の物で口の中の脂をさっぱりさせると、再び白飯と煮込みをかき込んだ。ジャケットの袖を捲り上げ、会話を挟むこともなくひたすらに箸を動かし続ける。茶碗の白飯があっという間に減り、小鉢の苦瓜もすぐになくなった。


「ご飯、おかわりある?」


 空になった茶碗を差し出す彼女に、任三郎は無言で炊飯器から飯をよそって手渡した。

 完璧なメイクの下には、隠しきれない隈がうっすらと張り付いている。普段なら絶対にこんな安いアパートに上がり込んだりしないはずの彼女が、黙々と手料理を胃に流し込んでいる事実そのものが、彼女の置かれている状況の過酷さを物語っていた。


 しばらく無言で箸の音が響いた後、エレナがふと、ぽつりとこぼした。


「会社の上層部が、あなたの芝居を嫌がっているわ。重すぎる、アイドルらしくないって。昔の路線に戻せと煩いのよ」


 任三郎は箸を止めず、厚揚げを口に放り込んだ。


「俺は言われた通りにやっているだけだ。由希子の書いた台本を、板の上で成立させる。それ以外のことは考えていない」

「分かってるわ。だから、そのままのあなたでいいのよ」


 エレナは箸を置き、任三郎の碧眼を真っ直ぐに射抜いた。


「あなたがどこまであの『天ノ川シリウス』という枠を拡張できるのか。由希子の狂った物語を、どこまで生々しい現実に引きずり下ろせるのか。私はそれが見たいの。そのためなら、保守的な役員連中だろうがスポンサーだろうが、私が全部叩き潰してあげる」


 任三郎は彼女の瞳に宿る熱を見返し、静かに頷いた。


「なら、俺は安心して役を生きるだけだ」

「ええ。最高の舞台は、私が死守するわ」


 食後、任三郎は小さな急須に茶葉を入れ、少し冷ました湯を注いだ。

 欠けた湯呑みに注がれた日本茶からは、青々とした静かな香りが立ち上っている。

 エレナは両手で湯呑みを包み込むように持ち、ゆっくりと茶を啜った。


「いいお茶ね。少し、胃が落ち着いたわ」

「スーパーの特売品だ。淹れ方次第でどうにでもなる」


 任三郎は自分の湯呑みを手に取り、冷えかけた茶を喉に流し込んだ。

 少し離れた場所では、満腹になった子猫が丸くなって小さな寝息を立てている。

 空になった皿を重ねるかすかな陶器の音が、四畳半の空間に静かに響いた。

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