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第20話 迫り来る影

 薄い万年床の中で、任三郎は全身の筋肉が強張るような鉛色の疲労感とともに目を覚ました。

 窓枠の隙間から差し込む朝の光が、埃の舞う四畳半を斜めに切り裂いている。首の後ろに手を当てると、冷たい寝汗がべったりと張り付いていた。敷きっぱなしのシーツは湿気を吸って重く、不快な肌触りが全身を包んでいる。

 ここ数日、河野由希子から送られてくる「過去編」の台本を読み込み、モーションキャプチャーのスタジオで出力し続ける作業は、想像以上に任三郎の肉体と精神を削り取っていた。コンマ数秒の呼吸、ミリ単位の視線の動き、そして、文字の奥に隠された絶望的なまでの感情の軋み。それを完璧な「天ノ川シリウス」という器を通して吐き出す作業は、舞台で何時間も大立ち回りを演じるよりも遥かに重いダメージを神経に残す。由希子の台本が要求する、肺の三割だけを使った吸気や、特定の子音を発する際の舌の動かし方など、生身の人間を極限までコントロールする感覚がまだ喉や胸の奥にこびりついていた。

 のそりと身を起こした瞬間、足元で「みゃあ」という短く甘えた声がした。

 灰色の縞模様をした小さな毛玉が、任三郎の足の指に短い前足をかけて見上げている。数日前にペットショップから連れ帰ったスコティッシュフォールドの子猫だ。特徴的な折れ曲がった耳を微かに震わせ、丸く大きな目で餌の要求を伝えてきている。

 冷えた床板を踵で鳴らしながら立ち上がり、シンク下のベニヤ板の扉を開ける。ストックしてある小さなアルミのパウチを取り出し、封を切った瞬間、ツナと鶏肉を煮込んだ強い匂いが狭い部屋に広がる。


「にゃあ、にゃあ!」


 子猫の鳴き声が一気に切実さを増し、任三郎のむき出しの足首にすり寄りながら、8の字を描くようにせわしなく歩き回り始めた。毛先の柔らかい感触が皮膚を撫でる。

 陶器の浅い皿にパウチの中身を絞り出す。ゼリー状の煮こごりに包まれた肉片が、どろりと音を立てて皿に落ちた。プラスチックのスプーンで軽くほぐしてやると、皿を床に置くよりも早く、子猫は後脚で立ち上がって顔を突っ込んできた。

 小さく、鋭い歯が肉の繊維を噛みちぎる「くちゃくちゃ」という湿った音が響く。ピンク色の小さな舌が高速で動き、皿の端にこびりついたゼリーまで器用に舐めとっていく。鼻の頭に少しだけ肉の欠片をつけ、細い尻尾をピンと立てて食事に没頭する姿は、どれだけ見ていても飽きることがなかった。

 任三郎はその場にしゃがみ込み、無精髭を撫でながら子猫の丸い背中を見つめた。喉の奥から微かに「ゴロゴロ」と満ち足りた音が漏れ聞こえてくる。

 自分が食うや食わずの生活をしているというのに、この小さな命の胃袋を満たすためなら、あの気の狂ったような台本にも食らいついていける。そう思える自分が、少しだけおかしかった。

 5分も経たないうちに皿を綺麗に舐め上げた子猫は、「ふう」と小さな鼻息を漏らし、前足を舐めて器用に顔を洗い始めた。耳の裏まで丁寧に肉球でこする仕草を見届け、任三郎はやっと自分の顔を洗うために冷たい蛇口をひねった。


★★★★★★★★★★★


 午後2時。

 新宿の外れにある雑居ビルの地下。カビと古い床ワックスの匂いが染み付いた貸しスタジオには、20人弱の男女が車座になって台本を読み合わせていた。

 任三郎がかつてから籍を置いている、アンダーグラウンドな小劇場の劇団の稽古場だ。

 パイプ椅子が規則的に並べられ、天井の無機質な蛍光灯が白々と役者たちを照らしている。壁の一面を覆う鏡には、ジャージやスウェット姿の劇団員たちの疲労の色が滲む顔が映っていた。

 現在読み合わせているのは、来月上演予定の現代劇の第二幕。任三郎に割り当てられた役は、主人公に裏社会の情報を横流しする「情報屋」という端役だった。出番は全体で三つのシーンのみ、セリフも数行しかない。


「――そのヤマ、降りた方がいい。あんたの手に負える相手じゃない」


 任三郎は台本に視線を落としたまま、低く抑制の効いた声を出した。ただの忠告のセリフだが、その裏側に潜む死への恐怖や、主人公に対する微かな憐憫、そして自分自身の保身といった複雑な感情を、コンマ数秒の間合いと、語尾の息の抜き方だけで表現する。バーチャルの世界で、「天ノ川シリウス」を通して何十万人もの観客の感情を揺さぶってきたのと同じ、極めて緻密な出力だった。

 その圧倒的な密度の声に、対峙していた主人公役の若い男がわずかに息を呑み、次のセリフへの反応がコンマ数秒遅れた。


「平野、そこでストップ」


 パイプ椅子にふんぞり返った作・演出の男が、不機嫌そうにパイプの脚を床に打ち付けて声を上げた。

 劇団員たちの視線が一斉に任三郎に集まる。


「お前、いまの台詞、重すぎる。ただの通りすがりの情報屋だぞ? そんなに世界中の不幸を背負い込んだような声出されたら、主役の印象が全部吹っ飛ぶだろうが。もっと軽く、もっと薄っぺらくやれ。その辺のチンピラでいいんだよ」

「……すみません。もう一度やります」


 任三郎は短く頭を下げ、台本のページをめくり直した。

 端役が不必要に存在感を放ち、舞台の重心を狂わせるのはアンサンブルとして致命的だ。演出家の指示はもっともだった。

 任三郎は一度深く息を吐き出し、自分の中のスイッチを切り替えた。

 重心を足元から浮かせ、横隔膜の動きを浅く制限する。声帯の摩擦を意図的に減らし、言葉の端々から感情の重みを徹底的に削ぎ落とす。視線は相手役の目を捉えず、宙を泳がせるように散らした。


「――そのヤマ、降りた方がいいっすよ。あんたの手に負える相手じゃないし」


 語尾のトーンをわずかに上げ、どこにでもいる小悪党の軽薄さを完璧にトレースする。先ほどまでのひりつくような緊張感は跡形もなく消え去っていた。


「まあ、マシになった。次」


 演出家の投げやりな指示で、主人公役の男が安堵したように息を吐き、稽古は進んでいく。

 自分の出番を終え、壁際のパイプ椅子に戻った任三郎は、ミリタリージャケットのポケットの中で拳を握り込んだ。

 冷たい鉄の背もたれに体重を預け、劇団員たちの台詞の応酬をBGMのように聞き流しながら、地下特有の淀んだ空気を肺の底まで吸い込む。

 バーチャルの収録スタジオと、この地下の稽古場。

 求められる技術のベクトルは全く逆だった。

 手元にある数ページの薄い台本を見下ろす。蛍光ペンで引かれた自分の台詞は、たったの三行。

 任三郎は目を閉じ、出番が終わるまで規則的な呼吸だけを繰り返した。


★★★★★★★★★★★


 夜9時を回った頃、全体稽古が終わり、任三郎は劇団員たちとの安酒の誘いを適当な理由で断って一人ビルを出た。

 秋の冷たい風が、汗ばんだTシャツの首元をすり抜けていく。

 大通りから一本入った路地は、街灯の数も少なく薄暗い。アスファルトのひび割れや、電柱の影が長く伸びている。駅に向かって歩き出し、近くのコンビニで自分の弁当と、追加の猫砂を買わなければと考えていた時だった。


 ふと、首の後ろの産毛が逆立つような感覚を覚えた。

 誰かに見られている。

 熱狂的なファンに囲まれるような、わかりやすい視線や、好奇の眼差しではない。もっと冷たく、粘着質で、無機質なレンズ越しのような眼差し。物理的な距離を保ちながら、こちらの生態を観察し、数値を計測するような気配。

 任三郎は歩調を変えず、ガラス張りの飲食店の前を通り過ぎる瞬間に、反射する自分の背後をわずかに確認した。

 15メートルほど後方。電柱の影に、小柄な人影が立っている。

 フードを目深に被り、性別も年齢もわからない。ただ、その手にあるスマートフォンのカメラのレンズが、明確にこちらへ向けられているのを感じた。


 暗がりの中で、藤本英子は手元の液晶画面を瞬き一つせずに見つめていた。

 オーバーサイズのパーカーのポケットに手を突っ込み、もう片方の手で最新型のスマートフォンの望遠カメラを限界までズームしている。

 画面の中央には、ヨレヨレのミリタリージャケットを着た長身の男の背中が映し出されている。


「……肩幅、歩幅、足の裏から地面に着地する際の体重移動の癖」


 英子はイヤホンから流れる、自身のパソコンから転送してきた「天ノ川シリウス」の3Dモデルのモーションデータと、目の前の男の歩き方を脳内で重ね合わせていく。

 数日前の配信アーカイブ。英子が抽出した、ノイズに紛れた「腹式呼吸」の吸気音。

 その呼吸を支えるために必要な肺活量と、それを収納する骨格のサイズ。横隔膜の動き。すべてを逆算し、都内で活動する「声の仕事」や「舞台俳優」のプロファイルと照合し続けた。

 条件に合致する人間は、何千人といる。

 だが、英子は先ほど、この地下スタジオの出入り口の換気扇の隙間に設置した小型の指向性マイクで、男が他の劇団員に「お疲れ様でした」と声をかけた瞬間の音声を拾っていた。

 その音声データを、すでにノイズキャンセリングと波形解析のアプリにかけている。

 男の地声は、シリウスの甘い声とはまったく違う、低くくぐもった声だった。

 だが、問題は声質ではない。

 発声の直前、コンマ数秒の間合いで肺に空気を送り込む、その「吸気」の波形。

 英子はスマートフォンの画面を二分割し、右側にあの配信の吸気音の波形データを表示した。そして、たった今録音した男の吸気音の波形を、その上に透過して重ね合わせる。

 二つのギザギザの線が、ピークの高さから減衰の角度に至るまで、恐ろしいほどの精度でピタリと一致した。


「……見つけた」


 暗がりの中に浮かぶ彼女の横顔に、薄く狂気じみた笑みが浮かんだ。

 理知的で冷え切った瞳の奥で、真実という名の獲物を捕らえた熱が鋭く燃え上がる。

 英子は録画ボタンを停止し、指先で画面をスワイプして音声データと共にクラウドサーバーへ即座にバックアップを送信した。

 男の歩いていく背中が交差点の角を曲がり、完全に視界から消えるのを最後まで見届ける。

 彼女はパーカーのフードを少しだけ下げ、夜の路地に溶け込むように踵を返した。スマートフォンの黒い画面には、平野任三郎という男の現在地のGPS座標が、静かに点滅し続けていた。

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