第21話 対的シリウス単推し
夜10時を回った頃。大通りから外れた薄暗い路地を歩く任三郎の背中を、15メートルほど後方から追う視線があった。
電柱の影に身を潜めた藤本英子は、オーバーサイズのパーカーのフードを目深に被り、スマートフォンの望遠レンズ越しに前を歩く大男の骨格を無言で観察していた。
英子は今日、自作の自動巡回プログラムが導き出した『Match: 1』の対象者である平野任三郎の姿を確認するため、彼が所属する劇団の稽古場に張り込み、そこからずっとこの距離を保って尾行を続けていた。
画面には、前を歩く男の映像に重ねるように、小劇場のデータベースから抽出した過去の舞台映像の骨格データがリアルタイムで演算表示されている。
「歩行周期、約1.2秒。ストライド、約85センチ」
英子は、男の踵がアスファルトを打つタイミングと、肩の揺れ幅を脳内で数値化していく。
ミリタリージャケットを着た男の普段の歩き方は、無骨でだらしがない。だが、その骨格のサイズと、周囲を無意識に警戒するような重心の低さは、データベースの数値と寸分違わず合致していた。
英子は画面と男の背中を交互に見つめながら、小さく息を吐いた。
「……信じられない」
唇の隙間から、微かな呟きが漏れる。
秋の冷たい風が路地を吹き抜け、やがて男は築40年はくだらない木造アパートの外階段を上り、2階の一番奥の部屋へと姿を消した。
数秒後、薄汚れた窓に、黄色い蛍光灯の明かりが点る。
英子はスマートフォンをポケットにしまい、音を立てずにアスファルトを踏み出した。
★★★★★★★★★★★
部屋に入った任三郎は、静かにドアを閉め、鍵とチェーンをかけた。
路地に入った段階で、背後に張り付くような特異な視線には気づいていた。ショーウィンドウのガラスの反射に、小柄な影が何度も映り込んでいたからだ。だが、振り返って威嚇したり、走って撒いたりすれば、自分が「追われる理由のある人間」だと自ら認めることになる。任三郎は、深夜の稽古帰りで疲労しきった売れない役者の足取りを、自室のドアを閉める瞬間まで完璧に演じ切った。
張り詰めていた緊張の糸を解くと、重い疲労が全身にのしかかってくる。
段ボールの簡易ベッドの隅から、灰色の小さな毛玉がのそりと這い出してきた。まだ完全に目が覚めていないのか、身を低くして前足をぐんと伸ばして大きな欠伸をし、それから任三郎のスニーカーの爪先に短い足を乗せ、爪を研ぐような仕草を見せる。
「……ただいま」
短く応じ、任三郎はミリタリージャケットを脱いで壁のフックに掛ける。洗面台の蛇口を捻り、冷たい水で念入りに顔と手を洗った。タオルで乱暴に顔を拭うと、全身に張り付いていた他人の視線の感触が、少しだけ剥がれ落ちた気がした。
朝からろくに固形物を口にしていない。胃袋の奥で、鉛のような空腹が低く唸りを上げている。
一日中、他人の視線と期待を浴び続けた神経の疲労と、身体の芯に残る鈍痛。それらを安酒のアルコールで誤魔化すのではなく、確かな熱量を持った肉で強引に塗り潰したかった。
台所の狭いスペースに立ち、小さな冷蔵庫を開ける。取り出したのは、プラスチックのパックに入った赤身の濃い粗挽き肉だ。昨日、エレナの使いで書類を届けた帰り、馴染みになったビストロに顔を出した際、白髪の店主から「良い放牧豚が手に入ったから、賄いにでもしろ」と押し付けられたものだった。
ボウルに氷水を張り、その上にひと回り小さなステンレスのボウルを重ねる。豚の脂は人間の体温で容易に溶け出し、旨味が逃げてしまう。肉を冷やした状態で作業するのは、ハンバーグをパサつかせないための鉄則だ。
放牧豚の粗挽き肉を入れ、まずは塩だけを振る。指先を鉤状に曲げ、肉の繊維を断ち切るように、かつ空気を含ませるように手早く、力強く練り上げる。赤い肉が次第に白っぽく変色し、ボウルの肌にネットリと張り付くような強い粘りが出たところで手を止めた。
黒胡椒を多めに引き、ナツメグを少々。そして、みじん切りにした生の玉ねぎを加える。一般的には炒めて甘みを引き出した玉ねぎを使うが、豚肉100パーセントの重い脂には、生玉ねぎのシャープな辛味と水分をそのままぶつける方が、味がぼやけず輪郭が際立つ。両手で肉種をキャッチボールするようにして中の空気を抜き、楕円形に整えて中央を軽く窪ませた。
熱したフライパンに少量の油を引き、肉種をそっと落とす。
ジューッという激しい音とともに、放牧豚の良質な脂が溶け出し、焦げた肉の暴力的なほどに香ばしい匂いが四畳半の部屋に充満した。
中火で2分。表面にしっかりとした焼き色がついたのを確認し、フライ返しでひっくり返す。少量の酒を振り入れ、すぐに蓋をして弱火に落とした。
蒸し焼きにしている間に、手早く副菜を用意する。
まな板の上で白菜をざく切りにし、ボウルに入れて塩を振り、強く揉み込んで余分な水分を絞り出す。そこに酢、ひとつまみの砂糖、ごま油、そして輪切りにした鷹の爪を加えて和える。
さらに、冷蔵庫からタッパーを取り出す。一昨日の余り物の沖縄風煮込みだ。小鍋に移して弱火にかける。厚めに切った大根は、らふてーの脂と鰹出汁を極限まで吸い込み、中心まで深い琥珀色に染まっている。もう一つの小鍋で出汁を沸かし、ざく切りにしたキャベツを放り込む。芯が透き通ったところで火を止め、味噌を溶かし入れた。
フライパンの蓋を開ける。ふっくらと膨らんだハンバーグの表面から、透明な肉汁がぷつぷつと滲み出していた。竹串を刺し、濁りのない汁が溢れるのを確認して火を止める。
ハンバーグを皿に移し、フライパンに残った豚の脂と肉汁に、醤油とみりん、そして粒マスタードを加えて軽く煮詰める。酸味とコクのある和風マスタードソースを手早くかけ回し、完成だ。
段ボールのテーブルに、ハンバーグ、白菜の甘酢和え、大根の煮込み、キャベツの味噌汁、そして炊飯器からよそった大盛りの白飯が並ぶ。
任三郎はパイプ椅子に腰を下ろし、箸を割った。
ハンバーグに箸を入れると、粗挽きの肉が弾力をもって押し返し、断面から熱い肉汁が溢れ出した。そのまま口に運ぶ。
放牧豚特有の、臭みのない野性的な旨味が爆発した。牛肉のような重たさはなく、クリアで力強い脂の甘みが口いっぱいに広がる。生玉ねぎのシャキッとした食感と辛味が脂のしつこさを切り裂き、マスタードソースの酸味が後味を鮮やかに引き締めている。
すかさず白飯をかき込む。米の甘みと肉の旨味が調和し、乱れていた呼吸のペースが少しずつ整っていくのがわかった。噛み締めるたびに、豚肉の野性的なエネルギーが、すり減った神経を強引に鎮めていく。
白菜の甘酢和えで口の中の脂を洗い流し、味が染み切った冷たい大根を齧る。温かいキャベツの味噌汁を流し込み、ただ黙々と箸を動かし続けた。
食後。
流しに食器を下げると、電気ケトルで湯を沸かす。
安物のコーヒー豆だが、淹れ方一つで味は変わる。ドリッパーにフィルターをセットし、粉を入れる。沸騰から少しだけ温度を下げた湯を、細口のポットから中心にそっと落とす。粉がドーム状に膨らみ、香ばしい焙煎の香りが立ち上るのを確認し、30秒ほど蒸らす。その後、「の」の字を描くように、焦らず一定の細さで湯を注ぎ続けた。
マグカップから立ち上る湯気を眺めながら、一口飲む。苦味の奥にある微かな酸味が、食事の余韻を綺麗に拭い去る。
深く、長い息を吐き出した。
その時だった。
コツ、コツ、コツ。
薄い木製のドアから、短く、規則的なノック音が響いた。
任三郎はマグカップを持ったまま、動きを止めた。時計の針は深夜11時を回っている。宅配便が来る時間ではない。家賃の取り立てなら、もっと乱暴にドアを叩き、怒鳴り声を上げるはずだ。
音を立てずにマグカップをテーブルに置き、足音を殺して玄関へ向かった。冷たい鉄のドアに顔を近づけ、ドアスコープを覗き込む。
外灯の薄暗い光に照らされて立っていたのは、アッシュブロンドのボブヘアをした小柄な少女だった。年齢は高校生か、そこらだろう。オーバーサイズのパーカーのポケットに両手を突っ込み、身動き一つせずに立っている。
ドアスコープのレンズ越しに、彼女の視線が真っ直ぐにぶつかった。分厚い鉄の扉の向こう側にいる任三郎の目を、確実に見据えているような錯覚を覚える。
数秒の沈黙の後、任三郎はチェーンをかけたまま、ゆっくりとドアノブを回した。
カチャリという乾いた音とともに、ドアが10センチほど開く。
隙間から流れ込んでくる秋の夜風は、氷のように冷たかった。
「……何の用だ」
任三郎が低く、感情の読めない声で問う。
ドアが開き、冷たい夜風が吹き込んでも、少女は瞬き一つしなかった。彼女の大きな瞳は、警戒する任三郎の目を真っ直ぐに射抜き、まるで目の前の男と手元のデータを静かに照合しているかのようだった。
「平野任三郎」
年齢に似合わない、無機質で落ち着き払った声。
「……人違いじゃないか。帰れ」
任三郎が短く言い放ち、ドアを閉めようとした直前、少女が口を開いた。
「……先週の、コラボ配信」
ドアノブにかけた任三郎の手に、わずかに力が入る。
「マイクが拾った、アドリブを返す直前の息の飲み込み方。……それと、今のあなたの声の響き」
少女はパーカーのポケットからスマートフォンを取り出し、画面を少しだけ任三郎に向けた。そこには、複雑な音声の波形データが表示されていた。
「合致率、99.8パーセント」
「……」
「小劇場のデータベースで見つけた映像と、さっきのあなたの歩行テンポも同じ。……あなたが、今の天ノ川シリウス」
その声に、狂信的なファン特有の熱や、相手を神格化するような響きはない。ただ、自ら組み上げたパズルのピースが完璧に嵌ったことを確認するような、冷たく乾いた声だった。
「帰らないなら、警察を呼ぶ」
任三郎が低い声で威嚇する。
「呼べばいい」
少女は即答した。
「でも、パトカーが着く前に、ここで『天ノ川シリウス』のアーカイブ音声をフルボリュームで流す」
脅しではない。実行に移すだけの思い切りの良さと技術を、この少女は持ち合わせている。任三郎の身体に染み付いた危機察知能力がそう告げていた。
「近所の人が起きてくる。そして、このアパートの住所とあなたの本名が、SNSに拡散される」
冷たい風が、二人の間の狭い隙間を通り抜ける。
任三郎はドアノブから手を離さないまま、静かに息を吐いた。
「……で? 何が目的だ」
任三郎が問い返すと、少女はポケットの中で手を強く握り込んだのか、パーカーの生地がわずかに引きつった。
「見に来たの」
少女の大きな瞳の奥に、初めて、暗く熱い感情の揺らぎが灯る。
「私の推しの居場所を奪った人間が……どんな顔をして、どんな生活をしているのか」
深夜のアパートの廊下に、少女の静かで切実な声だけが響いていた。




