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第22話 現実の襲撃

「見に来たの。私の推しを汚す、薄汚い泥棒の顔を」


 冷たく、一切の感情を排した断定が、秋の夜風とともにドアチェーンの掛かった10センチの隙間から忍び込んできた。

 時計の針は深夜11時を回っている。築40年の木造アパートの外通路は静まり返り、遠くを走る深夜便のトラックの低いエンジン音だけがかすかに響いていた。

 任三郎は無言のまま、ドアの隙間から見下ろす位置に立つ小柄な少女――藤本英子を見据えていた。オーバーサイズのパーカーのフードを目深に被った彼女の手には、任三郎と初代シリウスの波形データを完全に一致させたスマートフォンの画面が、冷たい光を放って握られている。


 任三郎の表情筋はピクリとも動かなかった。ただ、ドアノブを握る右手の関節がわずかに白くなる。

 数秒の沈黙の後、任三郎は短く息を吐き、静かにドアを閉めようとノブを引いた。

 しかし、その寸前だった。英子の履き込んだスニーカーのつま先が、分厚い鉄のドアと枠の隙間に音もなくねじ込まれた。そのままドアを引けば確実に骨が軋むほどの圧力が足先にかかるはずだが、彼女は痛むそぶりすら見せず、ただ爬虫類のように冷たい瞳で任三郎の碧眼を真っ直ぐに射抜いている。


「ここで大声を出してもいい」


 英子はスマートフォンの画面を自分の顔の高さまで持ち上げ、任三郎に向けた。


「こんな木造の安アパートで、『VTuberの天ノ川シリウスが住んでる』って叫べば、隣の部屋の住人くらいはスマホで録音するんじゃない?」


 深夜の住宅街に響くには十分すぎる脅迫だった。だが、彼女の目の奥にあるのは、単なる愉快犯の悪意や好奇心ではない。もっと深く、重く、純粋で狂信的な執着が燃えている。

 任三郎はドアノブから手を離さず、外通路の冷たい空気と、少女の眼差しの圧力を秤にかけた。ここで押し問答をして騒ぎになり、警察沙汰にでもなれば、ギャラクシー・ライブにも、エレナにも取り返しのつかない迷惑がかかる。相手が未成年である以上、状況はどう転んでもこちらに不利だ。


 短く舌打ちをした後、任三郎はドアを少し押し戻し、金属音を立ててチェーンを外した。


「……入れ」


 低く告げてドアを開け放つと、英子は警戒する様子もなくあっさりとスニーカーを脱ぎ、ズカズカと四畳半の室内へ足を踏み入れた。


 彼女の理知的な視線が、室内の異様な光景を瞬時にスキャンしていく。

 万年床は部屋の隅に無造作に畳まれ、ささくれた畳の上には、立ち位置と歩幅を確認するための色褪せたガムテープが十字に貼られていた。壁際には粗大ゴミ置き場から拾ってきたような縁の欠けた姿見が立てかけられ、その表面には指紋や手垢がいくつも付着している。

 そして、部屋の中央にある安い折りたたみテーブルの上。そこには、河野由希子から送られてきた分厚い台本の束が山のように積み上げられ、ページの余白という余白が、赤いインクによる狂気的なほどの書き込みで埋め尽くされていた。


 生活の貧しさと、演技という一つの行為に対する異常なまでの執着が同居した空間。

 英子は部屋の惨状をぐるりと見渡し、短く鼻で笑った。


「ここが、泥棒の稽古場ってわけね」


 彼女は振り返り、パーカーのポケットに両手を突っ込んだまま任三郎を睨みつけた。


「偽物のおっさんが、推しを汚すな」


 任三郎は反論せず、玄関の鍵を閉めると、壁を背にして静かに腕を組んだ。彼女の怒りの底にある熱量を、ただ黙って観察する。


「あんたの歩行周期、さっき後ろから計らせてもらった。約1.2秒。ストライドは約85センチ。小劇場のデータベースから抽出した過去の舞台映像の骨格データと完全に一致した。……こんな無骨でだらしのない歩き方をする男が、あの人のガワを被ってるなんて反吐が出る」


 英子の一歩が、畳を強く踏みしめる。小柄な彼女が見上げる形になるが、その存在感は長身の任三郎に全く引けを取らない。


「あんたがやってるのは、ただの悪趣味なモノマネよ。関節の曲がり方や、振り向く時の首の角度を、過去のアーカイブ映像からミリ単位でコピーして、プログラムで微調整してるだけ。発声だってそう。初代の呼吸のタイミングをコンマ数秒ずらして、わざとらしく『大人の余裕』みたいなものを演出してる」


 英子は唇を噛み、手にしたスマートフォンを強く握りしめた。


「発声の直前、喉仏の横が微かに強張るのがわかる。あんたは腹式で、横隔膜を強く引き下げて息を吸い込んでるから、発声の前に無意識の重い吸気音がノイズとして残る。初代は違う。もっと自然に、胸式で肺の上部を満たすように軽やかに空気を吸い込んでいたわ。あんたの芝居は息の抜き方も、衣擦れのタイミングも、全部過去のデータを繋ぎ合わせただけの偽物よ」


 膨大な時間をかけて対象を解剖し、音声波形や骨格データを比較し尽くした人間だけが突きつけることのできる、極めて論理的で残酷な解。

 任三郎は目を細め、静かに頷いた。


「……よく見ているな」


 相手を馬鹿にしたわけでも、余裕ぶったわけでもない。ただ純粋に、役者としての自身の細かな身体制御の癖を、画面越しにそこまで見抜いた少女への率直な評価だった。


「舐めないで。私は誰よりもあの人を見てきた」


 任三郎の静かな態度が逆に彼女の神経を逆撫でしたのか、英子の声が少しだけ鋭く跳ね上がった。


「あんたの作った偽物の空気なんて、私がすぐに消してやる。今すぐ降りて。でなきゃ、あんたの劇団の名前も、この部屋の住所も、全部ネットに晒す」


 英子がスマートフォンの画面をタップしようと、親指を振り上げた。


「俺は依頼を受け、板の上に立っている」


 任三郎は壁から背中を離し、英子を真っ直ぐに見下ろした。


「役者として降りる権限はない」

「なら、晒される覚悟はあるのね」


 英子の親指が、画面に触れようとしたまさにその瞬間だった。


 ガタッ、ズルル。


 緊迫し、今にも弾けそうだった部屋の空気をぶち壊すような、ひどく間の抜けた鈍音が響いた。

 二人の視線が、無意識に同時に折りたたみテーブルへと向かう。

 山積みにされた台本のすぐ横で、香箱座りをしたまま丸くなって眠っていた灰色の毛玉――数日前に任三郎が連れ帰ったスコティッシュフォールドの子猫が、寝ぼけて大きく寝返りを打ったのだ。

 柔らかな毛並みに包まれた小さな身体の半分が、テーブルの縁からはみ出している。重力に逆らう術を持たない子猫は、ズルリと滑り落ちた。


「みゃっ!?」


 子猫は短い前足をバタバタと必死に宙で掻き回したが、爪を立てる場所など何もなく、ぽふっ、という情けない音とともに畳の上に尻餅をついた。

 痛くはなかったようだが、本人は何が起きたのか全く理解できていないらしい。特徴的な折れ曲がった耳をさらにペタンと頭に伏せ、丸く大きな瞳を限界まで見開いて、キョロキョロと周囲の空間を戸惑ったように見回している。短い尻尾が疑問符のようにピーンと立ち上がっていた。

 やがて、自分の足元に転がっていた任三郎の消しゴムに八つ当たりのような猫パンチをペチペチと数回繰り出し、何事もなかったかのように後足で首の裏をポリポリと掻き始めた。


 そのあまりにも無防備で愛らしい挙動に、英子の指先が、中途半端な空中でピタリと止まった。

 彼女の理知的で冷徹な瞳が、足元で呑気に毛繕いをする小さな灰色の生き物に完全に釘付けになっている。瞬きすら忘れ、ぽかんと口を半開きにしたまま、彫像のようにフリーズしていた。


 任三郎は小さく息を吐き、ゆっくりとしゃがみ込んで子猫を片手で拾い上げた。

 そのまま自分の首元に乗せると、子猫はミリタリージャケットの襟元に爪を立て、安心したように喉をゴロゴロと鳴らし始める。


「……晒したければ、好きにすればいい」


 任三郎が口を開いた。

 その声は、先ほどまでドア越しに警戒していた男のくぐもった声とは、全く異なっていた。発声の起点が深くなり、胸の奥底から静かに響くような共鳴。狭い室内の空気の密度を錯覚させるような、確かな質量を持った声の圧力。


 英子の肩が、ビクッと跳ねた。

 任三郎は首元の子猫の背中を撫でながら、一歩、英子との距離を詰めた。


「だが、お前の目はごまかせないはずだ。俺の芝居が、過去のデータを繋ぎ合わせただけの薄っぺらいモノマネだと言うのなら」


 任三郎の碧眼が、パーカーの奥の少女の瞳を逃さずに射抜く。


「なぜお前は、画面越しに俺の存在を無視できなかった」


 英子は息を呑み、無意識のうちに一歩後ずさった。

 悔しげに下唇を強く噛み締める。スマートフォンの画面が、彼女の震える手の中で冷たく発光していた。

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