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第23話 0距離の生演技

「……なぜお前は、画面越しに俺の存在を無視できなかった」


 深いバリトンの響きが、深夜11時を回った木造アパートの薄暗い外通路に溶けていく。

 ボイスチェンジャーを通していない、任三郎の地声。だが、言葉の直前に差し込まれた浅い吸気音、語尾の吐息の抜き方、そしてその声が孕むどうしようもないほどの甘さと哀愁は、藤本英子が何百回、何千回と波形データを解析した「二代目シリウス」のそれと寸分違わず一致していた。

 畳の上に尻餅をついた子猫を片手で抱き上げたまま、任三郎はドアの隙間から英子を見下ろしている。

 英子の手には、先ほどまで任三郎を告発するためのテキストが表示されたスマートフォンが握られていた。送信ボタンに触れようとしていた親指が、空中で完全に硬直している。


「……なに、今の」


 英子の喉から、掠れた声が漏れた。

 自分の分析が間違っていなかったことの証明。この目の前の大男が、自分の推しのガワを被った偽物であるという確信。それは数秒前まで、彼女の中で絶対的な正義だった。

 だが、今、鼓膜を直接震わせた声は、英子の論理を根本から揺さぶっていた。


 任三郎は何も答えず、ドアチェーンを外した。

 重い鉄の扉が開き、四畳半の安アパートの全貌が英子の前に晒される。

 蛍光灯の薄暗い光。シミの浮いた壁紙。ささくれた畳の上に敷きっぱなしの万年床。

 そこには、ギャラクシー・ライブの地下スタジオにあるような高価なモーションキャプチャー機材も、ノイズを消し去る高性能なマイクもない。ただ、189センチの巨体を持った31歳の男の、リアルでむさ苦しい生活空間があるだけだ。


「晒すなら、好きにしろ」


 任三郎は子猫を万年床の端にそっと置き、再び英子に向き直った。


「だが、お前が愛したシリウスがただのデータか、それとも別の何かか。お前の目で確かめてからにしろ」


 そう言って、任三郎は目を閉じた。


 その瞬間、部屋の空気が一変した。

 任三郎の重心が、丹田からスッと胸の高さまで引き上げられる。だらしなく落ちていた肩の力が抜け、背筋が滑らかな弧を描いて伸びる。首の角度が変わり、少しだけ顎を上げる。

 一連の動作の連続によって、彼に染み付いた生活のノイズが一つ残らず削ぎ落とされていく。


 目を開く。

 そこにあったのは、先ほどまでの冷めた碧眼ではなかった。

 憂いを帯び、見る者を抗いがたく惹きつけてやまない、熱を持った瞳。


「『……最近、小さな家族が増えたんだ』」


 英子は息を呑んだ。

 任三郎が一歩、英子の方へ近づいてくる。

 着地音が全くしない。つま先から滑るように床を踏み、体重移動が極限まで制御されている。

 英子の目は限界まで見開かれていた。

 目の前に美しいアイドルの姿はない。それなのに、空間を支配する声と肉体の躍動が、英子の視覚情報すらも塗り替えていく。

 ヨレヨレのTシャツの裾が、金の装飾が施された軍服のマントのように翻る錯覚。

 モニター越しに数万の人間を狂わせた「天ノ川シリウス」が、今、この狭い部屋に実在している。


「『地球の路地裏でね。丸まって震えている小さな毛玉を見つけて、どうしても放っておけなくて』」


 任三郎が、胸の前に架空の何かを抱くようなモーションをとる。

 腕の角度、指先の柔らかさ。そこには確かな温もりが存在しているように見えた。

 英子は後ずさろうとしたが、足に力が入らない。

 あまりにも巨大な芸術作品の前に立ち尽くす観客のように、一歩も動けなかった。


「『そのまま連れて帰ってきた。……今、僕の隣で眠ってる』」


 最後の言葉とともに、任三郎の顔が英子の目の前まで迫った。

 距離にして、わずか10センチ。

 息が直接、英子の前髪を揺らす。伏せられた睫毛の影の下にある瞳が、英子だけを真っ直ぐに射抜いていた。

 心臓が痛いほど肋骨を打ちつける。


 数秒の沈黙の後。

 任三郎はゆっくりと身を引き、深く、重い息を吐き出した。

 纏っていたオーラが霧散し、カビと埃の匂いのする四畳半の安アパートが戻ってくる。極端に自分以外の存在を憑依させた反動で、任三郎の首筋にはうっすらと汗が浮かんでいた。


「……これが、俺の仕事だ」


 静かに告げられた言葉に、英子は外通路の壁に背中を預けたまま、ずるずるとしゃがみ込んだ。手から滑り落ちたスマートフォンが、コンクリートの床に鈍い音を立てる。画面にはまだ告発用のテキストが表示されていたが、彼女の指はもうそれに触れることはなかった。


「……ふざけ、てる……」


 英子は両手で顔を覆い、震える声で呟いた。


「こんなの……反則じゃない……」


 自分の分析は間違っていなかった。この男は初代のデータを完璧にトレースしている。だが、その器の中に生々しい血と肉と感情を注ぎ込み、内側から完全に支配してしまったのだ。

 絶対的シリウス単推しである彼女の価値観が、音を立てて崩れ去っていく。


「……消えなさいよ」


 嗚咽のように漏れた声。


「私の……完璧な推しを、返してよ……」


 任三郎は何も言わず、ドアの隙間からただ黙ってうずくまる少女を見下ろしていた。

 やがて、英子はゆっくりと顔を上げる。

 涙で少し潤んだ瞳が、任三郎を射抜く。先ほどまでの冷たい特定厨の目ではない。どうしようもなく惹きつけられてしまった熱を帯びた目だった。


「……あんた、名前は」

「平野、任三郎だ」

「平野任三郎」


 英子はその名を噛み締めるように口にし、ゆっくりと立ち上がってスマートフォンを拾い上げた。


「……覚えておく。私が、あんたを監視してあげる」


 パーカーのポケットに手を突っ込み、英子は真っ直ぐに任三郎を睨みつけた。


「あんたが少しでもボロを出して、あの完璧な空気を壊したら、その時は絶対に、私が引きずり降ろすから」


 任三郎は表情を変えず、ただ短く「勝手にしろ」とだけ返し、静かにドアを閉めた。


★★★★★★★★★★★


 翌日の昼下がり。

 秋の高く澄んだ空の下、任三郎はアパートから徒歩15分ほどの場所にあるホームセンターに向かって歩いていた。

 子猫のトイレ用の砂と、少し栄養価の高いドライフードを買い足すためだ。昨晩の騒動の後、あの灰色の毛玉は任三郎の足元で丸くなり、何事もなかったかのように眠り続けていた。

 大通り沿いの歩道を歩いていると、一定の距離を保って後ろからついてくる気配がある。

 振り返らなくても分かる。昨晩の少女、藤本英子だ。

 パーカーにデニムというラフな格好だが、その視線は常に任三郎の背中に突き刺さっている。監視すると宣言した通り、彼女は朝からアパートの前に張り込み、こうして尾行を続けていた。


 ホームセンターの入り口をくぐり、ペット用品のコーナーへ向かう。

 任三郎が猫砂の重い袋を二つ持ち上げ、ショッピングカートに放り込んだ時、背後から不満げな声がした。


「歩幅が大きすぎる。シリウスのストライドは85センチよ。あんた今の歩き方、90センチはあったわ」


 振り返ると、英子が腕を組んで立っていた。彼女の視線は任三郎の足元に向けられている。


「……ここは配信のスタジオじゃない。俺の普段の生活だ」

「甘い。プロなら24時間365日、その骨格に推しのデータを叩き込みなさいよ。ふとした瞬間にボロが出るわよ」

「俺は俳優だ。アイドルの皮を被り続ける趣味はない」


 任三郎は淡々と返し、ドライフードの棚へ視線を移した。無数の種類が並んでおり、どれが良いのか判断がつかない。


「それじゃない」


 英子が横から手を伸ばし、別のパッケージを指差した。


「その月齢なら、こっちのキトン用。それから、粒の小さいものを選ばないと消化不良を起こすわ」

「……やけに詳しいな」

「データ収集は基本だから。昨日の配信で『小さな家族』の話が出た瞬間から、想定されるペットの種類、月齢、必要な飼育環境のデータは頭に入ってる」


 英子の言葉には一切の淀みがない。VTuberの配信上の「設定」や「トーク」から現実の情報を逆算し、完璧に把握しようとする特定厨としての業の深さが垣間見える。

 任三郎は言われた通りのドライフードをカートに入れ、レジへ向かった。

 会計を済ませ、重い袋を両手に下げて店を出る。英子も当然のように隣を歩き始めた。


「腹は減ってないか」


 ふと、任三郎が尋ねた。

 英子は少しだけ虚を突かれたような顔をした。


「……別に」

「俺が減った。何か食っていく」


 向かった先は、大通りから少し入った場所にある古い定食屋だった。

 色褪せた暖簾をくぐると、店内には醤油と出汁の匂いが染み付いている。パイプ椅子とベタつくテーブル、壁に貼られた手書きのメニュー。

 英子は明らかに場違いな空間に戸惑いながらも、任三郎の向かいの席に座った。

 任三郎は肉野菜炒め定食のご飯大盛りを頼み、英子は迷った末にアジフライ定食を注文した。


 料理が運ばれてくるまでの間、二人の間には奇妙な沈黙が流れた。

 英子は手元のスマートフォンを操作しながら、チラチラと任三郎の顔を窺っている。無精髭に、くたびれた服。どう見ても冴えない大人の男だ。

 だが、昨晩見せつけられたあの圧倒的な演技の記憶が、彼女の脳裏から離れない。


「……ねえ」


 英子がスマートフォンをテーブルに置き、口を開いた。


「なんで、あんたみたいな底辺の役者が、シリウスの二代目に選ばれたの。声帯のデータが一致したから?」

「さあな。プロデューサーに拾われただけだ。俺自身が一番驚いている」


 任三郎はお茶を一口飲み、静かに答える。


「でも、あんたの演技は……」


 英子は言い淀み、視線をテーブルに落とした。


「初代とは全く違う。違うのに……画面を見ていると、あんたの引力に引きずり込まれる。あの空間に、確かにシリウスが生きているって錯覚させられる。……悔しいけど、目を離せなくなる」


 それは、昨晩の敗北を認めた上での、彼女なりの分析であり、本音だった。


 注文した定食が運ばれてきた。

 山盛りの野菜炒めから湯気が立ち上る。任三郎は割り箸を割り、黙々と食べ始めた。

 英子もアジフライにソースをかけ、箸を伸ばす。

 サクリ、と衣が弾ける音が響く。


「監視、と言ったな」


 ご飯を半分ほど平らげたところで、任三郎が口を開いた。


「好きにすればいい。俺が板の上で少しでも手を抜いていると思ったら、その時は遠慮なく引きずり降ろせ」


 任三郎の碧眼が、英子を真っ直ぐに捉えた。


「だが、俺が舞台に立っている間は、俺の芝居から目を逸らすな。お前が愛したものの影を、俺の中に探し続けろ」


 英子は箸を止めた。

 目の前の男は、アイドルのように媚びることも、言い訳をすることもない。ただ、役者としての圧倒的なエゴと自信だけで、彼女の執着を受け止めようとしている。


「……言われなくても、そのつもりよ」


 英子は少しだけムキになったように言い返し、再びアジフライにかぶりついた。

 定食屋の小さなテレビから、昼のバラエティ番組の騒がしい音声が流れている。

 16歳の天才ハッカーと、31歳の売れない舞台俳優。

 交わるはずのなかった二つの人生が、一つの虚像を通じて決定的に絡み合った、奇妙な休日の昼下がりだった。

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