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第24話 価値観の崩壊

「ごちそうさまでした」


 定食屋の木枠の引き戸が、カラカラと乾いた音を立てて閉まった。 換気扇から漂うラードと醤油の焦げた匂いが、秋の冷たい風に乗って路地裏へと流れていく。 時刻は午後2時半を回ったところだった。大通りから一本入った通りは人影もまばらで、傾き始めた太陽がアスファルトの上に2つの影を長く落としている。 先を歩くのは、色褪せたミリタリージャケットに身を包んだ189センチの巨漢。その大きな右手には、先ほどホームセンターのペット用品売り場で買った、子猫用のドライフードが入ったレジ袋がぶら下がっている。 少し後ろを歩く藤本英子は、オーバーサイズのパーカーのポケットに両手を突っ込んだまま、前を歩く男の広い背中を無言で見つめ続けていた。


 歩行周期、約1.2秒。ストライドは約85センチ。 小劇場のデータベースから抽出し、自身のパソコンでミリ単位で解析し尽くした男の歩行データ。数日前までは、その無骨でだらしのない歩き方の映像を見るだけで、自身の神聖な推しを汚す泥棒に対する怒りと憎悪が沸き上がっていた。 だが今は違う。 英子の視界の中で、くたびれた三十路男の背中が、時折、華やかな白い軍服を着た金髪碧眼の王子様のシルエットと重なって見えた。 決して目の錯覚ではない。彼が足を踏み出し、重心を移動させる一瞬のタメ。振り返る時の首の角度。ポケットから手を出して頭を掻く時の肩甲骨の連動。それら全ての骨格の動きの端々に、「天ノ川シリウス」というキャラクターの気配が確実に息づいているのだ。


 先ほどまで座っていた定食屋の丸椅子。肉野菜炒め定食をかき込みながら、任三郎が放っていた圧倒的な存在感。 そして何より、あの薄暗い四畳半の安アパートで叩きつけられた、0距離での生演技。 論理とデータ至上主義で完璧に構築されていた英子の世界は、たった一人の役者が放つ規格外の熱量によって、すでに根底から粉々に打ち砕かれてしまっていた。


「……歩きにくいか」


  前を歩いていた任三郎が、ふと足を止めて振り返った。 無精髭の混じる輪郭の奥にある碧眼が、英子を静かに見下ろす。


「別に」


 英子は顔を背け、少しだけ歩調を速めて彼の真横に並んだ。


「あんたの歩幅がデカすぎるだけよ。私に合わせて少しは気遣いなさいよ」

「そうか」


 任三郎は短く返し、再び前を向いて歩き出した。相手の機嫌を取るような愛想笑いを見せるわけでもなく、かといって露骨に突き放すわけでもない。ただそこに在るだけの、極めて自然体の男。 英子はパーカーのポケットの中で、自身のスマートフォンを強く握りしめた。 そのストレージには、平野任三郎という男の現在地のGPS座標、小劇場時代の過去の出演作データ、そして彼がシリウスの中の人であることを完全に証明する波形データの比較画像が、すべて暗号化されて保存されている。 ボタンを一つタップすれば、彼の役者生命も会社もすべて焼き尽くすことができる。だが、その選択肢は英子の思考からすでに完全に消え去っていた。


「……ねえ」


 大通りへ続く交差点に差し掛かったところで、英子は前を向いたまま、ぽつりと口を開いた。


「明日の配信、ソロの雑談枠なんでしょ」


  任三郎は歩みを止めず、「ああ」とだけ答えた。


「SNSの空気が、少しずつ濁ってきてる。あなたの声や、些細なノイズを拾って、中身が変わったんじゃないかって探りを入れている連中が確実に増えてるわ」 「……」

「初代のコアなファンたちは、ただ騒ぐだけじゃ済まさない。過去のアーカイブと今のあなたの配信を秒単位で比較して、少しでもアラがあればそこから『中の人』を暴き出そうとするわ。それに、運営側も一枚岩じゃないんでしょ。エレナってプロデューサーが盾になってるみたいだけど、数字が少しでも落ちたら、上層部はすぐにあなたを切り捨てる。……明日の本番、もし少しでも隙を見せたら、連中が一斉に火をつけて回るかもしれないわよ」


「俺は俺のやり方で、板の上に立つだけだ」


 任三郎の声には、一切の気負いがなかった。赤信号で立ち止まり、流れていく車の列を無表情に見つめている。


「渡された台本を読み込み、求められた役を生きる。それ以外のことは、俺の管轄外だ。火がつこうが、燃え尽きようが、俺の芝居は変わらない」


 英子は悔しげに下唇を噛んだ。自分が愛していたのは、傷つくことのない完璧な虚構だったはずだ。それなのに、いつの間にか、この傷だらけで不器用な男が、その虚構を内側から食い破り、圧倒的な質量を持って自分の網膜と鼓膜に侵食してきている。


「……なら、ボロを出さないように気をつけるのね」


  英子は少しだけ顔を上げ、強がるように言い放った。


「少しでもあんたのその泥臭い現実の匂いが画面から漏れたら、今度こそ容赦なく晒すから」


「頼む」


  任三郎は微かに口角を上げ、青に変わった信号を渡り始めた。


 築40年の木造アパートに到着し、錆びついた外通路の階段を上る。 任三郎が金属音を立ててドアの鍵を開けた瞬間、「みゃあ」という短く甘えた声が足元の隙間から響いた。 灰色の縞模様をしたスコティッシュフォールドの子猫が、短い前足を任三郎のスニーカーにかけて見上げている。特徴的な折れ曲がった耳をペタンと伏せ、丸い瞳で餌を要求していた。


「……ただいま」


 任三郎はゆっくりとしゃがみ込み、大きな手で子猫の頭を無造作に撫でた。子猫は目を細め、喉をゴロゴロと鳴らしながら彼の指先に頭を擦り付ける。 英子はスニーカーを脱ぎ、黙って四畳半の部屋に上がり込んだ。 相変わらずの惨状だ。万年床は隅に丸められ、ささくれた畳の上にはバミリのガムテープが十字に貼られている。部屋の中央にある安い折りたたみテーブルの上には、河野由希子から送られてきた分厚い台本が積まれたままだった。壁際には粗大ゴミ置き場から拾ってきたような縁の欠けた姿見が立てかけられている。


 任三郎は買ってきたばかりのドライフードを開封し、シンクの下から取り出した陶器の小皿に適量を移した。蛇口からぬるま湯を少しだけ加え、匂いを立たせてから子猫の前に置く。 カリカリ、クチャクチャという小さな咀嚼音が、静かな部屋に響き始める。 その無骨だがどこか繊細な手つきを、英子は部屋の隅に座り込んでじっと見つめていた。 圧倒的な演技力で数万人の感情を支配する男が、古いアパートで膝をつき、小さな命の世話をしている。その無骨だがどこか繊細な手つきを、英子は部屋の隅に座り込んでじっと見つめていた。


 胸の奥に、奇妙な居心地の良さが広がっていく。


(……変な男)


 英子は小さく息を吐き、パーカーのポケットからスマートフォンを取り出した。 画面をタップし、自分が構築した独自のクローラーと監視ツールのダッシュボードを開く。 SNS上の「天ノ川シリウス」に関する言及が、リアルタイムで抽出され、感情分析のアルゴリズムによって色分けされて表示されている。 大多数は前回の配信に対する熱狂的な称賛だったが、全体の約3パーセントほど、明らかに不穏な動きを示すアカウント群が存在していた。


『やっぱり声が違う』

『発声の癖が変わった』

『中の人、別の役者じゃないの?』


  それらのアカウントは、単なるアンチの暴言とは違い、アーカイブ音声を細かく分析し、波形やノイズから中身を特定しようとする同業者の動きだった。 英子は目を細め、冷ややかな視線で画面の文字列を追う。


(……素人が。波形の抽出ポイントが甘すぎる。そんな雑なノイズキャンセリングじゃ、彼の本当の凄さなんて1ミリも分かりっこない)


 彼女はキーボードアプリを起動し、裏アカウントの一つにログインした。 そして、その特定作業を進めている連中の思考を誘導し、別のダミーの舞台俳優のプロフィールへと行き着くように、偽のノイズデータと切り抜き動画を巧妙に組み合わせてネット上に放流する手筈を整え始めた。VPNを経由し、複数のサーバーを踏み台にしてアクセスログを偽装していく。


「……何をしている」


 不意に上から声が降り注ぎ、英子の肩がビクッと跳ねた。 顔を上げると、子猫の食事を終えさせた任三郎が、ペットボトルの水を飲みながらこちらを見下ろしていた。


「べ、別に。ちょっとネットの反応を見てただけ」


  英子は慌ててスマートフォンの画面を伏せた。自分が裏で彼の盾になろうとしていることなど、絶対に悟られたくなかった。


「そうか」


 任三郎は深く追求せず、テーブルの前に胡座をかいて座った。 そして、積み上げられた台本の一番上を手に取る。 赤いインクで狂気的なまでの指示が書き込まれた、明日の配信用台本。 任三郎の碧眼が紙面上の文字列を捉えた瞬間、彼の周囲の空気が一変した。 先ほどまで子猫を撫でていた時の緩やかな空気は完全に消え去り、極限まで研ぎ澄まされた刃のような緊張感が四畳半の空間を満たしていく。


 彼は目を閉じ、肺の底からゆっくりと息を吐き出した。 そして、台本に指定された『0.5秒のタメの後に、息を吐き出すように笑う』という指示を、自身の肉体で完璧にトレースし始める。 微かな喉の震え。顔の筋肉のわずかな引き攣り。横隔膜の緻密な制御。首の角度を変え、見えないレンズに向かって微かに視線を落とす。ただ座っているだけなのに、彼の周囲には確かに華やかな衣装のひだの揺れと、圧倒的な空間支配力が生み出されていた。


 英子は息を呑んだ。 一切のガワがない、薄汚れたジャケット姿の男。 それなのに、目の前で繰り広げられるコンマ数秒の身体制御は、間違いなく「天ノ川シリウス」というキャラクターの魂そのものだった。 スマートフォンの画面が暗転したことにも気づかず、英子はただ、瞬きすら忘れて男の横顔を見つめ続けた。

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