第25話 大炎上発生
時刻は正午を少し回った頃。
四畳半の木造アパートに、秋の冷たい隙間風が容赦なく吹き込んでいた。古びた窓枠がガタガタと頼りない音を立てている。
任三郎は重い瞼をこすりながら、ささくれた畳の上に身を起こした。部屋の中央に置かれた安い折りたたみテーブルには、専属シナリオライターである河野由希子から突きつけられた分厚い台本が散乱している。ページの余白という余白が赤いインクの細かい指示で埋め尽くされたそのテキストを、任三郎は昨夜から一睡もせずに自身の脳と筋肉にインストールし続けていた。
全身の筋肉が鈍く強張り、関節の奥には鉛のような疲労が沈殿している。指定された秒数単位の呼吸制御と、極限まで抑圧された感情の出力は、舞台で何時間も大立ち回りを演じるよりも遥かに肉体のエネルギーを根こそぎ奪い去っていた。喉の奥には微かな血の味がこびりつき、肩甲骨の裏側が異様に重い。
足元では、灰色の縞模様をしたスコティッシュフォールドの子猫が「みゃあ」と短く鳴き、任三郎の足首にすり寄ってきた。
「……待て。今メシにする」
任三郎は立ち上がり、アルミのパウチからゼリー状のキャットフードを陶器の浅い皿に絞り出した。子猫が夢中でそれを舐めとる音を聞きながら、自分自身の腹の底から湧き上がる獰猛な飢餓感を自覚する。単に腹が減ったという生易しいものではない。極限まで酷使された細胞が、強制的にカロリーと塩分を要求していた。
財布とスマートフォンだけをミリタリージャケットのポケットに突っ込み、任三郎はアパートを出た。
アスファルトに落ちた枯れ葉を踏みしめながら、秋の冷気で火照った身体を冷ましていく。
向かったのは、路地裏を少し進んだところにある古ぼけた中華そば屋だった。
赤く色褪せた暖簾には白抜きで「中華そば」と書かれ、油で黒ずんだ換気扇からは、煮干しと豚骨の強い匂いが絶え間なく吐き出されている。
引き戸を開けると、鰻の寝床のような狭い店内が現れた。壁は油で黄色く変色し、手書きのメニュー札が斜めに貼り付けられている。カウンター席が7つだけの空間には、昼時のピークを過ぎたためか、奥の席でスポーツ新聞を読んでいる初老の男が1人いるだけだった。
任三郎はカウンターの中央にドカリと腰を下ろし、白いタオルを頭に巻いた無愛想な店主に声をかけた。
「塩ラーメン、味付け卵つきで」
「あいよ」
数分もしないうちに、湯気を立てる丼が任三郎の前にドンと置かれた。
澄み切った黄金色のスープの表面には、細かな油の玉がキラキラと浮いている。少し縮れた細麺の上に、大ぶりの豚バラチャーシューが2枚、小口切りの青ネギ、そして中心が半熟の味付け卵が乗っていた。
任三郎は割り箸を割り、まずはレンゲでスープをすする。
無言で2度、3度と口に運び、ゆっくりと喉を鳴らす。強烈な煮干しの香りと鶏ガラの深いコクが、塩の鋭い塩味と交わり、空っぽの胃袋に重たい熱を落としていく。
それから麺を持ち上げ、ズズッと大きな音を立ててすすり込んだ。無心で麺をすり、チャーシューの脂の甘みを噛み締め、再びスープを煽る。一切の言葉を発することなく、ただ目の前の丼と格闘していた。
その時、背後の引き戸がガラリと開き、冷たい風と共に小柄な人影が入ってきた。
「……GPSを仕込んでおいて正解だったわ」
藤本英子だった。オーバーサイズのパーカーを目深に被った彼女の目の下には、コンシーラーでも隠しきれない色濃い隈が張り付いている。
英子は任三郎の隣の丸椅子に、少し距離を置いて浅く腰掛けた。
「こんな状況で、呑気にラーメンなんて食ってる場合?」
英子が呆れたように顔をしかめる。
「俺の芝居は、思っている以上に燃料を食うんだ。特に、今日の台本はな」
任三郎はコップの水をあおり、口元を手の甲で拭った。
英子は舌打ちをしつつ、パーカーのポケットから自身のスマートフォンを取り出し、画面を任三郎の顔の前に突きつけた。
そこには、異常な速度でスクロールし続ける巨大な匿名掲示板や、SNSのタイムラインが表示されている。
「燃料だか何だか知らないけど、状況は最悪よ。昨日の深夜に私のクローラーが異常なトラフィックを検知してから、アカウント群とボットネットをフル稼働させて火消しに回ったのに、火の手が全く衰えない」
英子は手元にスマホを引き戻し、忌々しげに画面をタップした。
「最初の告発スレが立ってからの拡散スピードが異常なの。単なるアンチの暇つぶしじゃない。海外のVPNを経由した無数のアクセスが、秒間数千の単位でまとめサイトにスクリプトを流し込んでる。私がペニーオークション系のスパムでスレを埋め立てようとしても、即座にフィルターを書き換えられて弾かれた。意図的に『運営の隠蔽体質』や『リスナーへの裏切り』といった正義の皮を被せたワードをトレンドに押し上げてるわ。……明らかに、強大な資金力と技術力を持ったプロの工作業者が介入してる」
任三郎は最後の一滴までスープを飲み干し、「ふう」と短く息を吐いて箸を置いた。
「どこかの誰かが、明確な殺意を持って火を放っているということか」
「ええ。同調する人間が雪だるま式に増えて、私の個人リソースじゃもう防ぎきれない」
英子の言葉を裏付けるように、任三郎のジャケットのポケットで、スマートフォンが激しく振動し始めた。
画面を見ると、エレナからの着信だった。
任三郎は席を立ち、店主に向かって「ごちそうさん」と声をかけて代金を払う。英子も無言でその後を追った。
路地裏の少し開けた場所まで歩き、任三郎は通話ボタンをタップして耳に当てた。
「平野だ」
『平野さん、今どこ!? 外に出ないでって言ったのに!』
エレナの声はひどくかすれ、呼吸が荒かった。背後からは、けたたましく鳴り響く固定電話のベルの音と、複数の人間が怒鳴り合う凄まじいノイズが漏れ聞こえてくる。
「飯を食っていた。今、英子から状況を聞いたところだ」
『最悪の事態よ! 昨日の今日で、火の手がギャラクシー・ライブの親会社やスポンサー企業にまで飛び火してる。抗議の電話で窓口が物理的にパンクしたわ。この前の重役会議の時なんか目じゃない。上層部は完全に恐慌状態で、今夜の配信を強制的に中止して、あなたとの契約を即刻白紙に戻すって息巻いてる!』
「……また切り捨てか」
『させないわ! 私は今、プロデュース部の権限で配信サーバーの物理キーを抜いて、第3サーバールームに立て籠もってる。空調の音がうるさくて耳がおかしくなりそうよ。外では専務が「警察を呼ぶぞ」ってドアを蹴り上げてるわ……!』
ガツン、ガツンと、分厚い鉄扉を外側から叩く重い衝撃音が、電話越しに生々しく響いた。エレナが会社内部で物理的な抵抗をしていることがはっきりと伝わってくる。
『……このままじゃ、今夜の配信枠を守りきれるか分からない。向こうの攻撃の手口が異常なのよ!』
任三郎はスマートフォンを握り直し、秋の冷たい空気を肺の底まで吸い込んだ。
徹夜で叩き込んだ由希子の緻密な台本は、すでに彼の血肉となり、出力される瞬間を待ちわびて肉体の内側で熱を放っている。この熱を、理不尽なノイズによって冷ますことなど到底受け入れられない。
「……配信はやる」
『平野さん……』
「俺の芝居が『偽物』だと言うなら、本物以上の熱量で黙らせるしかないだろう。俺は役者だ。用意された板から逃げる真似はしない。……枠を死守しろ」
任三郎の低く静かな声に、エレナは一瞬の沈黙の後、荒い息を吐き出した。
『……分かった。何があっても、時間までに回線を繋ぐ』
通話が切れる。
任三郎はスマートフォンをポケットにしまい、振り返った。
隣に立つ英子が、ジッとこちらを見上げていた。
「……やる気なの? この大炎上の中で」
「俺には明日の飯が必要なんでな」
「バカじゃないの。今のネットの空気は、完全に『二代目を引きずり下ろせ』っていう狂気よ。どんなに完璧な芝居をしたって、色眼鏡で見られる。少しでも前と違う部分があれば、そこを総叩きにされる。……勝てるわけない」
「勝つさ」
任三郎は歩き出しながら、英子を一瞥した。
「俺の芝居は、画面越しの悪意になんて潰されない。……それとも、お前は俺の芝居がその程度だと思っているのか?」
任三郎の碧眼が、英子を真っ直ぐに射抜く。
英子は立ち止まり、遠ざかる任三郎の大きな背中を見つめた。
彼女はパーカーのポケットの中で、自身のスマートフォンを強く握りしめる。液晶画面には、今この瞬間も炎上を扇動する悪意の書き込みが増え続けていた。
「……勝手に潰されるなんて、許さない」
英子は誰に聞こえるでもない声で低く呟く。
そして、任三郎とは反対の方向、最寄り駅へと向かって踵を返した。スマートフォンの画面に複雑なコマンドを打ち込み、裏掲示板の特定コミュニティへ新たな指示を流し込みながら、彼女は足早に路地裏を抜けていった。




