第26話 切り捨ての危機
深夜の木造アパートに、冷たい秋の雨音が単調なリズムで響き続けていた。
トタン屋根を叩く不規則なノイズが、四畳半の部屋の薄暗い静寂をより一層際立たせている。
任三郎は、ささくれた畳の上に置かれた安いコタツ机の前に胡座をかき、画面に無数のヒビが走ったスマートフォンを机の中央に置いていた。スピーカー通話の向こう側からは、エレナの荒い呼吸音と、防音扉越しに響く怒号、そして分厚い金属をガリガリと削るような不穏な駆動音が絶え間なく漏れ聞こえてくる。
『……メインの電子ロックは切られたわ。今は物理的なカンヌキだけで持ち堪えてるけど、セキュリティ業者がドリルを持ち出してきたみたい』
エレナの声はひどく疲弊し、わずかに掠れていた。数時間前、昼間に炎上の発生を共有して彼女が第3サーバールームに立て籠もってから、ギャラクシー・ライブの社内は完全に戦場と化しているようだった。
「防城戦も限界が近いか」
任三郎は手元の台本を見下ろした。由希子から送られてきた、赤い書き込みで真っ黒に染まった分厚いテキスト。それは単なる台詞の羅列ではない。秒単位で指定された視線の動き、特定の母音を発する際の喉の開き方、絶望を表現するための横隔膜の痙攣までが記された、生身の人間を解剖図のように扱う異常な設計図だ。任三郎はそれを自身の血肉とするため、極限まで抑圧された感情の出力を何度も繰り返し、己の肉体に負荷をかけ続けていた。肩甲骨の裏側は鉛のように重く、無理な発声を繰り返した喉の奥には微かな血の味がこびりついている。
『外のパニックは収まるどころか、加速してるわ。親会社の株主からクレームが殺到して、専務は今すぐ配信サーバーの電源を物理的に引っこ抜いてでも、あなたとの契約を白紙に戻す気よ』
「……なるほど。扉が破られれば、俺はまたオーディションに落ちたわけか」
任三郎の口から、自嘲気味な笑みが漏れた。
『諦めないで!』
エレナの声が、スマートフォンのスピーカーから鋭く弾けた。ドリルの駆動音が一時的に止み、ドン、ドンと重い扉を蹴り上げる鈍い衝撃音が室内に響く。
『私がこの部屋のコンソールを死守している限り、回線の主導権はこちらにある。……それに、英子からの連絡で、彼女が構築した防壁プログラムとボットネットが、海外のプロバイダを経由して押し寄せるDDoS攻撃の波を間一髪で逸らし続けているわ。あの子も自宅のサーバー群をフル稼働させて、一人で狂ったような速度で悪意のトラフィックと戦ってる』
任三郎は目を細めた。あの冷ややかな瞳を持った少女が、モニターの光に照らされながらキーボードを叩き続けている姿が脳裏に浮かぶ。見えない場所で、彼女たちもまた戦っているのだ。
『いい? 何があっても、時間までにあなたの配信枠は私が繋ぐ。だから、あなたはマイクの前に立つ準備だけをしておいて』
「……分かった」
任三郎の声は低く、しかし確かな熱を帯びていた。
「俺は、俺のやるべきことをする。いつでも出力できるようにしておく」
『ええ。……必ず』
通話が切れた。
任三郎はスマートフォンから視線を外し、深く息を吐き出した。
外の雨足が強まっている。
足元では、スコティッシュフォールドの子猫が丸まって静かな寝息を立てていた。
★★★★★★★★★★★
極度の集中状態からふっと意識が切り替わった瞬間、胃の底がギリギリと嫌な音を立てて激しく収縮した。
長時間のモーション制御と異常な緊張が、体内から急速にエネルギーを奪い去っていた。細胞のすべてが、強制的にカロリーと塩分を要求している。
任三郎は立ち上がり、狭い台所へと向かった。
立て付けの悪い冷蔵庫を開ける。中にあるのは、昨日安売りで買ってきた塩鮭の切り身、大根の漬物、そしていつ買ったか忘れた梅干しだけ。米は、先ほど古い炊飯器で1合だけ炊き上がったばかりだ。
任三郎は、フライパンにアルミホイルを敷き、塩鮭の切り身を乗せて弱火にかけた。蓋をして蒸し焼きにすることで、身の水分を逃さずふっくらと仕上げる。やがてパチパチと皮が焼ける小気味良い音が響き始め、香ばしい魚の脂の匂いが、冷え切った四畳半の空気を塗り替えていく。
その間に、炊飯器の蓋を開ける。立ち上る分厚い湯気とともに、炊き立ての白米の甘い香りが顔を打った。しゃもじで底から十字に切り込みを入れ、米粒を潰さないように空気を含ませながらさっくりと混ぜ合わせる。
焼き上がった鮭を小皿に移し、箸で丁寧に骨を取り除く。熱い身をほぐすと、ピンク色の繊維の間から透明な脂がジュワリと滲み出し、食欲を刺激する匂いがさらに濃くなった。
茶碗に熱々の白米をよそい、中心に軽く窪みを作る。そこに、ほぐした鮭の身と、冷蔵庫の奥で見つけた賞味期限ギリギリの瓶詰めイクラをたっぷりと乗せる。両手を冷水で濡らし、少量の塩を手のひらに馴染ませた。
茶碗からご飯をすくい取り、両手で包み込む。力を入れすぎず、かといって崩れない絶妙な力加減で、三角形に形を整えていく。熱々の米粒が手のひらを火傷しそうに刺激するが、任三郎は顔色一つ変えずに、手際よく3つの大きなお握りを握り上げた。
鮭とイクラの親子お握り。一つには、中心にすっぱい梅干しを丸ごと忍ばせてある。
古い小皿に、黄色い大根の漬け物を乱切りにして添える。
最後に、マグカップにお湯を沸かし、スーパーで買ってきたフリーズドライの野菜スープの素を入れる。熱湯を注ぐと、乾燥したキャベツや人参が瞬時に広がり、コンソメの豊かな香りが立ち上った。
任三郎は、コタツ机の上にそれらを並べた。
任三郎は胡座をかき、両手を合わせて短く「いただきます」と呟いた。
1つ目の大きなお握りを手に取り、豪快に噛み付く。
パリッとした海苔の磯の風味の直後、熱々の白米の強い甘みと、鮭の強烈な塩気、そしてイクラの濃厚な旨味が口の中で一気に爆発した。米粒の一つ一つが魚の脂でコーティングされ、咀嚼するほどに深い味が舌の上に広がっていく。すかさず大根の漬け物をかじると、ポリポリとした小気味良い食感と、発酵した酸味が、口の中の脂をさっぱりとリセットしてくれた。
マグカップの野菜スープをすする。インスタントとは思えないほど野菜の甘みが溶け出しており、コンソメの熱い液体が食道を通って胃の腑に落ち、冷えていた内臓を芯から温めていく。
2つ目のお握りに手を伸ばす。今度は、中心から梅干しの強烈な酸味が顔を出した。顔をしかめながらも、その酸っぱさが逆にさらなる食欲を掻き立て、残る3つ目のお握りもあっという間に胃袋へと消えていった。
額に滲んだ汗を手の甲で無造作に拭う。
腹の底に、重く、確かな熱が宿った。
机の上のスマートフォンが、短く震えた。
画面には「エレナ」の文字が表示されている。
任三郎は、空になった皿を見下ろし、口元に微かな笑みを浮かべた。
「……ごちそうさん」
短く呟き、通話ボタンをスワイプする。
『平野さん』
エレナの声はひどく息を切らしていたが、先ほどまでの疲弊を跳ね除けるような、確かな力強さを取り戻していた。
『配信枠、強制的に立ち上げたわ。扉の鍵が壊される寸前に、メインサーバーのコンソールに物理ロックをかけて、操作パネルを叩き壊した。これで私が中から扉を開けない限り、誰にも回線は切れない』
「完全に一線を越えたな。クビを賭けたか」
『ええ。だから、絶対に負けられないわよ』
任三郎は立ち上がり、壁に掛けられていたミリタリージャケットを引き寄せた。
「心配するな。極上のガソリンが入ったところだ」
彼は袖を通し、画面の割れたスマートフォンをポケットに突っ込んだ。
足元で丸まっている子猫に短く視線を落とし、玄関へ向かう。金属製の冷たいドアノブをしっかりと握りしめる。
躊躇いなく扉を押し開けると、冷たい秋の雨風が容赦なく顔に吹きつけてきた。濡れたアスファルトの匂いが鼻を突く。任三郎は傘を差すこともせず、重たい雨粒を肩で受けながら、地下スタジオのある街へと無言で踏み出した。
背後で鉄の扉が、鈍く重い音を立てて閉ざされた。




