第27話 裏返る狂信
分厚い防音扉の向こう側から、鈍い衝撃音が等間隔で響き続けていた。ギャラクシー・ライブの上層部が、物理的にサーバールームのドアを破壊しようと工具を打ち付けている音だ。 だが、地下スタジオの密室に立つ任三郎の意識は、背後の喧騒から完全に切り離されていた。
冷え切った空気の中、黒いモーションキャプチャースーツに身を包み、床のバミリの上に仁王立ちになる。額から伸びるアームの先のカメラが、無精髭の生えた顔の筋肉のわずかな動きも逃さず捉えていた。 正面の巨大モニターの右半分。そこには、数万人の視聴者がリアルタイムで叩きつける文字の雪崩が、凄まじい速度で下から上へと流れている。
『偽物』
『消えろ』
『シリウスを返せ』
『詐欺運営』
無機質なテキストの形をとった暴力的な悪意が、画面を完全に埋め尽くしていた。距離も物理法則も無視して直接神経に突き刺さってくる、何万もの敵意の暴風。
インカムからは、別室のコントロール卓にいる若手スタッフたちのパニックに陥った声が漏れ聞こえてくる。
『だ、駄目です! NGワードのフィルターをすり抜けて、別のアカウントで連投されてます!』
『同接12万突破。システム負荷が限界です!』
だが、任三郎の腹の底には、出掛けに胃袋へ放り込んだ鮭とイクラの熱い塊が、確かな熱を放っていた。 どんなに理不尽な石を投げられようと、板の上に立った以上、逃げるという選択肢は役者にはない。 任三郎は深く目を閉じ、自身の肉体に染み付いた生活の癖を削ぎ落とす。重心を整え、呼吸の深さを調整し、由希子から叩き込まれた異常な解像度のテキストを脳内で起動させる。 目を開いた瞬間、碧眼には鋭い刃のような光が宿っていた。 正面のカメラのレンズ越しに、15万人の怒れる群衆の顔を正確に思い描く。
「……だから、言ったはずだ」
マイクに乗せた声は、弁明の焦りや怯えとは無縁の、氷のように冷たく、しかし奥底に灼熱を秘めた低いテノールだった。ボイスチェンジャーのフィルターを突き破り、声帯の微かな摩擦音がスタジオの空気を震わせる。 由希子の台本が要求する、初手からの『完全な拒絶と絶望の提示』。 モニターの右側を流れる文字の速度が、ほんのわずかに遅くなった。
「僕がこの手を離せば、君は二度と元の場所には戻れないと」
任三郎はバミリの上を滑るように歩き、カメラに向かって距離を詰めた。 『何言ってんの』『誤魔化すな』という棘のあるコメントを見つめ、任三郎は指定された通りに0.5秒の沈黙を置き、横隔膜をわずかに痙攣させた。まるで、画面の向こう側の愚かさを嘆くように、小さく、乾いた笑いをマイクに乗せる。 睫毛の影が落ちる角度、首の傾げ方。極限まで練り上げられた芝居の圧力が、ネットワークの遅延すら飲み込んで放たれる。
「君が選んだ道だ。どんなに足掻いても、もう遅い」
腹の底から響かせる太い声。 指定された『肺の3割だけを満たす浅い呼吸』。 その生々しい吸気音が、視聴者の鼓膜に直接届く。
『え……』
『なんか……』
『何この演技』。
怒号で埋め尽くされていたコメント欄に、戸惑いの言葉が混じり始める。
任三郎は、台本のト書きにある通り、静かに右手を伸ばした。 だが、その手はファンに救いを求めるためのものではない。見えない相手の首筋に触れ、そのまま深く絶望の底へと引きずり込むような、残酷で優雅なモーション。 指先の関節の曲がり具合、腕を伸ばす速度。すべてが由希子の緻密な計算と、任三郎の肉体の躍動によって完璧に立ち上がる。
「一緒に堕ちようか。果ての底まで」
直後、モニターの右側を埋め尽くしていた悪意の壁が、完全にひび割れた。
『ヒィッ』
『怖い怖い怖い』
『ゾクッとした』
『ヤバい、なんだこれ』
『引き込まれる』
『ごめんなさい』
罵声の連なりが、次々に別の色へと塗り替えられていく。赤外線カメラの赤い光だけが点滅するスタジオで、任三郎は表情筋の微細な強張りを維持したまま、15万人の感情のうねりを冷徹に見下ろしていた。
★★★★★★★★★★★
同じ頃、ギャラクシー・ライブが入る高層ビルの24階。 第3サーバールームでは、分厚い金属扉の内側から物理ロックをかけたエレナが、メインコンソールの前に立っていた。扉の外からは、専務ら上層部が警備員を怒鳴りつけ、工具でドアノブを破壊しようとする暴力的な音が響き続けている。 エレナは冷え切ったブラックコーヒーを胃に流し込み、モニターに表示されるトラフィックデータを血走った目で睨みつけていた。徹夜で専務ら上層部と怒鳴り合い、なんとか防衛線を維持しているが、状況は首の皮一枚で繋がっているに過ぎない。
「なら、さっさと根本の火元を絶てばいいじゃない」
不意に、背後から冷ややかな声が落ちた。 エレナは振り返る。サーバールームの奥、空調ダクトのメンテナンスハッチが外され、オーバーサイズのパーカーを目深に被った少女が立っていた。藤本英子だ。
「あなた……どうやってここまで」
「清掃業者のIDクローンと、セキュリティシステムのバックドア。そんなことより」
英子は悪びれる様子もなくエレナの隣に歩み寄り、自分のタブレット端末をコンソールの上に滑らせた。そこには、異常な速度で更新され続けるグラフと、無数のIPアドレスの羅列が表示されている。
「……単なるアンチの暴走じゃないわね」
「海外プロキシを経由したボットネット。資金の入った工作業者が動いてるわ」
英子は画面をタップし、秒間数千単位で生成されるスクリプトのログを表示した。
「目的はシリウスというIPの破壊と、ここの株価の操作。炎上ビジネスの連中よ」 「会社の上層部は完全に日和っているわ。明日にでも彼を切り捨てて、事態を収束させようとしている」
「バカみたい。炎上は対象を切り捨てても止まらない。むしろ運営が非を認めたとして、次のターゲットに延焼するだけ」
英子は舌打ちをし、パーカーのポケットからUSBメモリを取り出してコンソールの上に置いた。
「反撃する。奴らが使っているサーバーの脆弱性は特定したわ。あとは、拡散されている『偽物』というワードの矛盾を突いて、世論をひっくり返す爆弾を投下する。公式アカウントのAPIキーと、配信サーバーのバックドア権限を貸して」
「会社のシステムの中枢を、部外者のあなたに渡せと?」
エレナが眉をひそめる。一歩間違えれば、プロデューサーとしての責任問題どころか、完全な犯罪の片棒を担ぐことになる。
「あんたにその覚悟があるかどうか、試しに来たの」
英子は一歩も引かず、エレナの目を真っ直ぐに射抜いた。
「さっきの配信、あんたも見ていたでしょ。あの男が吐き出した、血の滲むような本物の芝居を」
英子の手が、わずかに震えていた。
「あんなくだらない工作業者のスクリプトや、顔も見えない連中のノイズで……あの才能を潰させるわけがないでしょ」
数秒の沈黙が落ちた。 エレナは英子の震える手と、その奥にある熱っぽい瞳を見つめ、静かに息を吐き出した。
「……私がシステム管理部に無断でアクセス権限を発行したとバレれば、間違いなく懲戒解雇ね」
「ビビったのなら、別にいいけど」
「舐めないで」
エレナの大きな瞳に、鋭い光が宿った。
「自分の演者が最高の板に立てるためなら、自分のクビくらい安いベット・マネーだわ」
エレナはキーボードを乱暴に引き寄せ、パスワードを打ち込み始めた。権限の付与コードを生成し、英子のタブレットへ直接転送する。
「権限は渡したわ。でも、失敗は許さない。この炎上のベクトルを、明日の『復活の配信』までに完全にひっくり返しなさい」
「言われるまでもないわ」
英子はタブレットを掴み取り、コンソールの空きスペースに陣取って凄まじい速度でキーボードを叩き始めた。外の扉を叩く鈍い衝撃音を背に、二人は無言のままそれぞれの戦線を死守し続けていた。
★★★★★★★★★★★
翌朝。雨上がりの光が、窓の隙間から埃の舞う四畳半に斜めに差し込んでいた。 薄い万年床の中で、任三郎は全身の骨がきしむような鉛色の疲労感とともに目を覚ました。分厚い雨雲が去った後の澄んだ空気が、木造アパートの隙間風となって部屋の温度を一段階下げている。 昨夜の長時間のモーションキャプチャーによる疲労は、単なる筋肉痛とは次元が違った。コンマ数秒単位で身体の動きを制御し、横隔膜を痙攣させるような異常な発声を連続させた代償として、関節の奥に重い泥が詰まったような気怠さが残っている。
首の後ろを揉みほぐしながら身を起こそうとした時、胸のあたりにじんわりとした温かい重みを感じた。 視線を落とすと、灰色の縞模様をした小さな毛玉が、任三郎の胸板の上で丸まっていた。数日前に拾ったスコティッシュフォールドの子猫だ。任三郎のわずかな身動きで目を覚ましたのか、特徴的な折れ曲がった耳をピクッと動かし、丸く大きな瞳で見上げてくる。
「……みゃあ」
短い鳴き声とともに、子猫が短い前足で任三郎の顎をトントンと軽く叩いた。肉球の柔らかな感触が、無精髭の生えた皮膚に触れる。さらに、小さな顔をすり寄せてきて、ザラザラとしたピンク色の舌で任三郎の鼻の頭を舐め上げた。
「……おはようさん」
任三郎は低く掠れた声で返し、大きな手のひらで子猫の背中をそっと撫でた。喉の奥から微かに「ゴロゴロ」とモーターのような音が振動として伝わってくる。
布団から這い出し、台所で子猫の浅い陶器の皿にドライフードを注ぎ込む。カラカラと音を立てて食べる小さな背中を見下ろしながら、任三郎はスマートフォンを開いた。 SNSのトレンドには、未だに不穏なワードが並んでいる。 任三郎は画面を暗くし、首の関節を鳴らした。ネットの底で何が起きていようと関係ない。次の出番が来るまで、この四畳半で牙を研ぎ続けるだけだった。




