第28話 反撃の狼煙
正面右側の大型モニターでは、現在進行形で「天ノ川シリウス」の配信が流れている。画面の中では、無精髭の巨漢が完璧な王子様のモデリングを被り、荒れ狂っていたコメント欄を相手に一歩も引かずに立ち向かっていた。
そして左側と中央のモニターには、無数のターミナルウィンドウが開かれている。緑色の文字列が、瞬きをする隙も与えないほどの異常な速度でスクロールし、画面を上書きし続けていた。
「……馬鹿みたい。こんな杜撰なスクリプトで、あの男の芝居を潰せると思ったわけ?」
藤本英子は充血した目で画面を睨みつけ、忌々しげに呟いた。
彼女の手元にあるのは、今回の炎上を主導しているアカウント群のIPアドレスと、アクセスログの解析データだ。最初の告発スレッドが立ってからの拡散スピード。SNSでの特定のハッシュタグの異常な増殖。それらは明らかに自然発生的なものではなかった。
単なるアンチの暇つぶしや、正義感をこじらせた野次馬の集まりではない。明確な資金源を持ち、海外のVPNサーバーを経由して自動化されたボットネットを操る、プロの工作業者の手口だ。
英子は手元のマグカップに残っていた冷めたコーヒーを煽り、青軸のメカニカルキーボードに両手を置き直した。
この規模の炎上を止めるには、一つ一つのアカウントをブロックしたり、運営側からお飾りの声明を出したりしても全く意味がない。火元にいる業者の「構造」そのものを破壊し、世論のベクトルを強制的にねじ曲げる必要があった。
「プロバイダの経由地は……ロシア、台湾、ブラジル。でも、リクエストのパケットサイズと送信間隔が完全に一致してる。同一のコントロールサーバーから指示が出てるわね」
英子は独り言をこぼしながら、独自のクローラーを走らせてボットネットの脆弱性を突いた。
業者が使用しているコメント投下用のスクリプトは、過去に別の案件で使われたものの使い回しだった。セキュリティの甘い裏口はすぐに見つかる。英子は数分でそのコマンド&コントロールサーバーのIPを割り出し、バックドアから音もなく侵入した。
「ビンゴ」
英子の薄い唇が、冷酷な弧を描いた。
業者のサーバー内には、今回の「シリウス炎上工作」の依頼ログだけでなく、過去に行われた仮想通貨の詐欺プロジェクトや、悪質なペニーオークションのサクラ工作のデータが大量に残されていた。
彼女はすぐさま、それらの決定的な証拠データをひとまとめにして暗号化ファイルに圧縮した。
そして、巨大匿名掲示板の中でも最もアクティブで、かつて自分が入り浸っていた「特定班」のコミュニティに、Torブラウザを経由してそのアーカイブを投下した。
『シリウス炎上を扇動してる連中の正体。中身はただの詐欺業者。IPと過去の工作履歴、全部置いておく』
たった一行のテキストと共に投下されたその爆弾は、数万人が監視する掲示板に絶大な効果をもたらした。
『うわ、IP完全に一致してるじゃん。過去に仮想通貨詐欺やってた業者だぞこれ』
『俺ら、詐欺集団のボットネットに踊らされてたのかよ』
『運営の隠蔽とか言ってた奴ら、全員業者の自作自演ってマジか』
レスの勢いが爆発的に加速していく。ネットの群衆は、騙されることと、見えない敵に操られることを何よりも嫌う。正義の皮を被っていた怒りの矛先が、一瞬にして見えざる工作業者へと向き直った。
数分のうちに、炎上のベクトルが劇的に反転し始めた。
SNSのトレンドから「シリウス偽物」というワードが急速に失速し、代わりに「アンチ工作業者」「詐欺集団の自作自演」といったワードが急浮上する。まとめサイトのコメント欄も、業者を特定し叩く内容で埋め尽くされ始めた。
英子はさらに、自分が保有する数千の裏アカウントを稼働させ、任三郎の過去の舞台映像の骨格データとシリウスのモーションを比較した「賞賛」の切り抜き動画を、アルゴリズムの隙を突いてタイムラインのおすすめに大量に流し込んだ。
『なんか炎上してるけど、今日のシリウスの動き、めっちゃ舞台俳優っぽくて凄くない?』
『アンチの自作自演らしいよ。てか、今の声の出し方ヤバいから一回聞いてみ』
世論の波が、完全に業者の手を離れ、シリウスを支持する方向へ雪崩を打って傾いていく。
英子はキーボードから手を離し、椅子の背もたれに深く体重を預けた。
右側のモニターに視線を移す。
画面の中では、あの男が静かにカメラを見据えていた。画面越しの10万を超えるリスナーを真っ向から受け止め、一切の媚びも怯えも見せない気高い立ち姿。
『一緒に堕ちようか。果ての底まで』
その言葉が、スピーカーから重く、生々しい熱を持って響き渡る。
英子の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
「……私の推しを、勝手に潰させたりしないわよ。泥棒のくせに、芝居だけは本物なんだから」
英子は誰に聞こえるでもない声で呟き、赤く充血した目をこすった。
★★★★★★★★★★★
同時刻、ギャラクシー・ライブの第3サーバールーム。
分厚い金属製の扉の内側で、エレナ・クルスは壁に背中を預けたまま、ずるずると床に座り込んでいた。
空調の轟音だけが響く密室。
数十分前まで、扉の外では専務が「警察を呼ぶぞ」「今すぐ電源を落とせ」とドアを蹴り上げ、しまいにはセキュリティ業者のドリルが金属を削る不穏な音が響いていた。だが、今はもう何の音もしない。騒ぎ立てていた上層部の人間たちは、急速に反転していくネットの世論と数字を前に、口を閉ざすしかなかったのだろう。
エレナの膝の上に置かれたノートパソコンの画面には、信じられないような数値が並んでいた。
同接は15万3千人を突破。ネガティブコメントの比率は全体の1パーセント未満にまで激減し、代わりに処理上限を超えるスーパーチャットの嵐が吹き荒れている。
さらに、親会社の株価は時間外取引でストップ高の気配を見せ、スポンサー企業に殺到していた抗議の電話も、いつの間にかピタリと止んでいた。
「……勝ったわね」
エレナは大きく息を吐き出し、タイトなスカートの裾を直して立ち上がった。
全身の力が抜けていくような疲労感と、それらをすべて上書きするような強烈な高揚感。
彼女はノートパソコンを閉じ、扉のロックを解除するためにコンソールへ向かった。
明日からの上層部との会議は、完全にこちらが主導権を握れる。役員たちが何を喚こうが、突きつけられたこの莫大な利益とエンゲージメントのデータの前にはひれ伏すしかない。明日からの上層部との会議は、完全にこちらが主導権を握れる。分厚い扉のノブに手をかけ、エレナは迷いなくラッチを外した。
★★★★★★★★★★★
翌朝。
築40年の木造アパートに、薄い秋の陽射しが斜めに差し込んでいた。隙間風が古びた窓枠を微かに揺らす乾いた音が、静まり返った四畳半に響いている。
任三郎は、ミリタリージャケットを脱ぎ捨てる気力すらなく、Tシャツにヨレヨレのジーンズという姿のまま、敷きっぱなしの万年床の上に仰向けに倒れ込んでいた。 目は閉じられているが、眠りは浅い。
昨夜、10万人を超える群衆の悪意を正面から受け止め、それを狂熱へと反転させた代償は、肉体の限界をとうに超えていた。ミリ単位の重心移動と、秒単位で指定された異常な呼吸制御。自身の肉体を解体し、架空の存在として再構築する作業は、細胞の奥底まで鉛のような疲労を沈殿させている。
指先をわずかに動かすだけで、関節がキシキシと悲鳴を上げる。耳の奥には、荒れ狂うコメントのスクロール音と、その後の熱狂のざわめきが幻聴のように張り付いていた。
泥のような疲労の底に沈んでいく感覚の中で、ふと、右腕と胴体の隙間に、わずかな重みを感じた。
「……ん」
かすれた声を漏らし、任三郎は重い瞼をわずかに持ち上げた。
ちょうど体温がこもっている布団のくぼみに、灰色の小さな毛玉がすっぽりと収まっていた。
特徴的な折れ曲がった耳をペタンと伏せ、小さな体を限界まで丸めている。前足を自分の鼻先にギュッと押し当て、規則的なリズムで小さく上下する背中からは、微かな寝息が漏れていた。
任三郎は動かそうとした右腕の力を抜き、そのままの姿勢を保った。
子猫の柔らかな体毛が、Tシャツ越しの皮膚に触れている。そこから伝わってくるのは、驚くほど真っ直ぐで、混じり気のない生命の温もりだった。
かすかに「スースー」と鼻を鳴らす音と、喉の奥から漏れる「ゴロゴロ」という低い振動。それが、任三郎の腕を伝って、強張った肩から胸の奥へと静かに浸透していく。
子猫が微かに身じろぎし、丸い頭を任三郎の腕により深く埋めてきた。
小さなピンク色の鼻先から、ミルクのような甘い匂いがふわりと漂う。
任三郎は左手をゆっくりと動かし、親指の腹で、子猫の背中をそっと撫でた。驚くほど柔らかく、絹のように滑らかな毛並み。撫でられた子猫は目を覚ますこともなく、ただ安心したように喉の振動を少しだけ大きくした。
「……こんなボロ屋で、よく眠れるな」
ひどく掠れた低い声が口からこぼれた。
子猫の規則的な温もりと振動が、任三郎の体内に残っていた緊張を少しずつ溶かしていく。
と同時に、強烈な空腹感に襲われた。
昨夜の尋常ではないカロリー消費を思えば当然のことだった。エレナからの特別報酬のおかげで、明日の飯代を気にする底辺の生活からは抜け出せた。だが、腹が減れば飯を食い、次の台本に向き合うという役者の根源的な日常は何も変わらない。
「……起きるか」
任三郎が布団の中で身じろぎすると、腕の中の毛玉が「みゃあ」と短く鳴いて顔を上げた。丸く大きな瞳が、早く餌をよこせと要求してくる。
任三郎はのそりと起き上がり、軋む体に鞭を打って、狭い台所の棚からアルミのパウチを取り出した。封を切った瞬間、ツナと鶏肉の匂いが四畳半に広がり、足元で灰色の毛玉がせわしなく8の字を描いて歩き始める。
陶器の浅い皿に中身を絞り出し、床に置く。クチャクチャと一心不乱に餌を食べる小さな背中を見下ろしながら、任三郎は冷たい水で顔を洗うため、台所の蛇口をひねった。




