第29話 復活の配信
ギャラクシー・ライブ地下スタジオ。
分厚い鉛入りの防音扉に閉ざされた密室には、巨大なサーバー群と機材の冷却ファンが放つ低い唸りだけが一定のリズムで響いていた。
数十時間前まで、外の通路からは上層部の怒号や、ドアの物理的なロックを破壊しようとする不穏な駆動音が絶え間なく漏れ聞こえていた。だが、今はその手のノイズは完全に途絶えている。
ガラス張りのコントロールルームに視線をやると、徹夜続きで目を血走らせていたスタッフたちの強張った肩の力が抜け、キーボードを叩く音が正常なタイピングのリズムに戻っているのが見えた。外部からの異常なトラフィック攻撃や、スクリプトによるコメント欄の荒らしが、何らかの形で強制的に沈黙させられたらしい。
任三郎は黒いモーションキャプチャースーツに身を包み、床に貼られた十字のバミリの上に立っていた。額から伸びるアームの先の小型カメラが、冷たいレンズで彼の表情筋の微細な痙攣を捉え続けている。
正面の巨大モニターの右半分。そこには、純粋に「天ノ川シリウス」の言葉を待つ、15万人を超える生きた観客たちの息遣いが、コメントの流れという形で可視化されていた。
譜面台の上には、河野由希子が書き上げた『過去編』の台本が開かれている。
余白という余白が赤いインクの細かい指示で埋め尽くされた、演者を拘束する狂気の設計図。
『肺の奥の空気をすべて絞り出し、声帯の摩擦だけで音を鳴らす。視線はカメラのレンズの奥、見えない誰かの瞳孔へ』
任三郎は指示通りに腹筋をゆっくりと収縮させ、横隔膜を限界まで押し上げた。息を完全に吐き切り、肺が真空に近い状態になる。胸の奥が軋むような苦しさを訴え、脳に回る酸素が急速に欠乏していく感覚。その極限の酸欠状態から、喉の奥のわずかな粘膜を震わせて、搾り出すように言葉を形作る。
「……もう、どこにも行きたくないんだ」
ボイスチェンジャーを通して出力された声は、計算された甘いアイドルの声色とはかけ離れていた。ひび割れ、かすれ、奥底から血の味が滲み出してくるような、生々しい絶望の響き。
モニターの中の天ノ川シリウスが、力なくその場に崩れ落ちる。
任三郎自身の関節の曲がり方、重心の沈み込み、スーツの化学繊維が擦れる微かなノイズまでが、完璧な王子のモデリングに重厚な質感を伴わせていく。倒れ込んだ衝撃でバーチャルな髪の毛が揺れ、表情のトラッキングが、苦痛に歪む口元の動きを精密に再現する。
任三郎は床に片手をつき、もう片方の手を虚空へと伸ばした。
彼は指先の第1関節から第2関節へと、ゆっくりと、架空の熱を確かめるように力を込めていく。掴むべきものが何もないと知っているからこそ、その指の動きはどこまでも虚ろで、切実だった。
モニターの右側で、猛烈な速度で流れていたコメントが、数秒間だけ完全に停止した。
15万の人間が、画面越しに息を呑む気配。それが物理的な圧力となって、冷え切ったスタジオの空気を震わせる。
やがて、堰を切ったように文字の群れが爆発した。
『息ができない』
『泣いてる、シリウスが本当に生きてる』
『鳥肌が止まらない』
『お願い、誰か彼を助けて』
インカムの奥から、エレナの小さく息を吐き出す音が聞こえた。
同接数は16万を超え、なおも上がり続けている。
任三郎は伸ばした指先をゆっくりと握り込み、カメラの奥の数十万の視線を、鋭く、静かに見据え返した。
★★★★★★★★★★★
数日後の午後2時。
表参道のケヤキ並木は、色づき始めた葉が秋の冷たい風に揺れていた。行き交う人々は皆、仕立ての良いコートや質の高いバッグを身につけ、洗練された街の空気に溶け込んでいる。
任三郎は地下鉄の出口付近で、ケヤキの幹に背中を預けて立っていた。
約束の時間の5分前。彼の目の前に、硬質なピンヒールの音が迷いなく近づき、ピタリと止まった。
「相変わらずの格好ね。少しは気を使おうとは思わないわけ?」
プラチナブロンドの髪を風に揺らし、上野真が立っていた。ハイブランドの黒いレザージャケットにスキニーデニムという出で立ちは、通り過ぎる人々の視線を無意識に惹きつけている。
「着ていく服がない」
任三郎は幹から背中を離し、淡々と答えた。
「まあいいわ。今日はあんたの生身のデータを徹底的に抜き取るための日なんだから。この前のビストロで言った通り、今のシリウスの器じゃ、あんたのあの重苦しい芝居のノイズを拾いきれてない。だから、骨格と筋肉の可動域を正確にスキャンして、全面改修する」
「エレナからも聞いている。好きにしろ」
「じゃあ、さっさと歩きなさい。まずはあんたの普段の歩幅と重心を見るわ」
真は踵を返し、歩き出した。
任三郎はその背中を追う。真は前を向きながらも、ショーウィンドウのガラスに映る任三郎の歩き方を観察し続けていた。踵から着地する際の重心の低さ、長い腕の振りの微細な揺らぎ。真の視線は瞬きすら忘れたように、任三郎の肉体の連動を追跡し続けていた。
連れて行かれたのは、大通りから少し入った場所にある、重厚なガラス扉のアパレルショップだった。
間隔を開けて並べられた服には、任三郎には縁のないゼロの数が並んだ値札がついている。店員が任三郎の身なりを見て一瞬だけ怪訝な表情を浮かべたが、真の顔を見ると瞬時に愛想の良い笑顔に張り付いた。
「これと、これ。あとそこのコート。一番大きいサイズで」
真はラックから躊躇いなく数着の服を抜き取ると、任三郎の胸に押し付けた。
「着てみなさい。布を被せた状態での、肩と背中のラインを確認するわ」
任三郎は無言でそれらを受け取り、奥の試着室に入った。
分厚いカーテンを閉め、着古した上着とTシャツを脱ぐ。肩甲骨の周囲には、連日のモーションキャプチャースーツの強い締め付けによる微かな痣が残っていた。疲労は抜けきっていないが、やるべきことは分かっている。手渡された漆黒のタートルネックニットと、カシミヤ混のロングチェスターコート、細身のダークスラックスを身につけ、カーテンを開けた。
試着室の前のソファに浅く腰掛けていた真が、顔を上げる。
「……」
真の視線が、任三郎の全身でピタリと止まった。
計算された上質な布地が、規格外の骨格としなやかな筋肉のラインをより克明に浮き彫りにしている。分厚い肩の筋肉がコートの肩幅をきっちりと満たし、細身のスラックスが長い脚のシルエットを際立たせていた。
「どうだ」
任三郎が低い声で問う。
「……ガワの土台としては、悪くないわね」
真は立ち上がり、任三郎に近づく。彼女の指先が、コート越しに任三郎の肩と背中に触れた。
「ちょっと腕を回して。肩甲骨の連動を見たい」
言われるままに腕をゆっくりと回す。真の指が、布地の下で伸縮する筋肉の動きを正確になぞっていく。
「……やっぱりね。あんたのあの重心の低い動きは、背筋と広背筋の使い方が根本的に違う。前のモデルのボーン設定じゃ、このタメと粘りが表現しきれないわけだわ」
真の指先が、任三郎の背中から腰にかけてのラインを這う。
「呼吸の時の胸郭の膨らみ方も、通常のアイドルのモデリングでは想定していない深さよ。これじゃあ、あんたが息を吸い込んだ瞬間にポリゴンが破綻する」
指先を通して、任三郎の深い呼吸が真に伝わる。
「関節の可動域も、筋肉の連動によるポリゴンの歪みも、全部ゼロから設定し直す。あんたのその生々しい芝居を、完璧な美しさのまま出力する。それが私の仕事よ」
買い物を終えた二人は、近くのカフェのテラス席に向かい合って座っていた。
テーブルには、エスプレッソとブラックコーヒーが置かれている。任三郎はカップに口をつけ、苦味を喉の奥へ流し込んだ。
「炎上の鎮火、あの高校生が良い仕事をしたみたいね」
真がエスプレッソのカップを弄りながら言う。
「ああ。俺は板の上に立っただけだ」
「あんたのそのスタンス、時々本当にイラつくわ」
真は短く息を吐き、タブレット端末をテーブルの上に置いた。画面には、解剖図のように細かく分割された天ノ川シリウスの3Dモデルの設計図が表示されている。
「顔のトラッキング精度も上げるわ。あんたが台詞の裏で意図的に作っている、右の口角だけがわずかに上がる癖。あれも拾えるようにする」
「……そんなことまで見ているのか」
「当然でしょ。私はあんたの芝居を一番近くで監視してるんだから。あんたのノイズを全て取り込んで、私の絵はもっと完璧になる」
真はスタイラスペンを回し、設計図の首のあたりをトントンと叩いた。
「特にこの首から肩にかけてのライン。あんた、感情が高ぶると無意識に右肩が数ミリ下がるでしょ。そういうノイズが、キャラクターに異常なまでの生っぽさを与えてる。だから、センサーの感度を調整して、その数ミリの歪みまで完全にトラッキングさせる」
「……」
「次の収録までに、プロトタイプを上げる。スタジオで限界まで動かして、バグを洗い出すわよ。あんたの息の根が止まるまで、徹底的に付き合ってもらうから」
「好きにしろ。俺はそれに合わせる」
任三郎はカップを置き、真っ直ぐに真を見据えた。
「どんな器を用意されようと、俺は俺の芝居をするだけだ」
「言ったわね。私の最高傑作の器で、ボロを出さないことね」
真は不敵に笑い、伝票を手に取って立ち上がった。
「さあ、次は脚の筋肉の連動データよ。立って。もう1件、回るわよ」




