第30話 最強のチーム結成
木造アパートの薄い壁を抜け、遠くを走る私鉄の金属的な摩擦音が四畳半の部屋に低く響いていた。
傾き始めた秋の陽射しが、ガタつく窓枠の隙間から差し込み、空気中を舞う埃をキラキラと照らしている。普段であれば、任三郎が1人、小劇場の薄暗い台本と向き合うか、敷きっぱなしの万年床で泥のように眠るだけの孤独な空間だ。昨夜の配信による極限の疲労を抱えた身体は、本来なら数日間は目を覚まさないほどの休息を要求している。関節の奥には鉛が沈澱したような重さがあり、ミリ単位の身体制御を強いられた肩甲骨の裏側はひどく強張っていた。
しかし今日、この狭くくたびれた部屋は、ひどく密度の高い、そして異質な熱気に満ちていた。
「……なぜ、俺の部屋に全員集まる必要があるんだ」
任三郎は狭い台所に立ち、使い込まれた大きな中華鍋を火にかけながら低く呟いた。
背後の四畳半には、ささくれた畳の上に置かれた安い折りたたみテーブルを囲むように、4人の女がひしめき合っている。
タイトなパンツスーツ姿で、2台のスマートフォンの画面を交互に凄まじい速度でスワイプし続けるプロデューサーのエレナ。
オーバーサイズのパーカーのフードを目深に被り、ノートパソコンの青軸キーボードをリズミカルに叩き続けている藤本英子。
深いグリーンのヴィンテージ・ワンピースを身に纏い、持ち込んだ分厚い台本の束に赤いペンで執拗に書き込みを続ける河野由希子。
そして、ハイブランドのレザージャケットを着崩し、眉間に皺を寄せながらタブレット端末にスタイラスペンを走らせている上野真。
数万人の熱狂を操作し、ギャラクシー・ライブという巨大企業の屋台骨を揺るがした張本人たちが、家賃数万円のボロアパートで膝を突き合わせている図は、ひどくシュールだった。
「仕方ないでしょ。会社の上層部には一応の落とし前をつけたけど、まだ社内の空気はピリピリしてるの。それに、このメンバーが揃って密会できるセキュリティの高い場所なんて、ここくらいしかないわ」
エレナが2台のスマートフォンをテーブルに置き、顔を上げずに答える。
「……セキュリティ?」
「ええ。玄関の物理ロックの脆弱性はともかく、ネット回線は英子が完全なファイアウォールを組んでくれたから。会社の会議室よりよっぽど安全よ」
任三郎はそれ以上反論するのを諦め、目の前のコンロに向き直った。
5人分の昼食。しかも、それぞれの分野で一切の妥協を知らないクリエイターたちの腹を満たさなければならない。空っぽの胃袋が強烈なエネルギーを要求しており、疲労困憊のはずの身体は不思議と正確に動いた。
任三郎が火にかけている中華鍋には、昨夜遅くに仕込んでおいた特製のミートソースが、赤茶色のマグマのようにふつふつと重い泡を立てていた。
『復活の配信』の後、極限まで張り詰めた神経の昂ぶりを物理的な作業で鎮めるため、任三郎は深夜の台所で無心になって玉ねぎ、人参、セロリをみじん切りにし続けた。それらをたっぷりのオリーブオイルで飴色になるまでじっくりと炒め、スーパーの特売で買った合い挽き肉を加え、肉の脂が完全に透明になるまで火を入れる。そこへ潰したトマト缶と安物の赤ワインを注ぎ、水分が飛ぶまで煮詰めたものだ。半日以上寝かせたことで肉の旨味と香味野菜の甘みが完全に調和し、角の取れた深いコクを生み出している。
隣のコンロでは、もっとも大きなアルミ鍋でたっぷりの湯が激しく沸騰している。1掴みの粗塩を放り込み、5人分の乾麺のスパゲッティを扇状に広げて沈めた。長い菜箸で麺がくっつかないように手早くかき混ぜる。
問題はスープだ。
エレナが「最近不規則な食生活だったから」とコンビニで買ってきた、お湯を注ぐだけの『9種の野菜が入ったヘルシースープ』。フリーズドライの四角い塊が5つ、それぞれ絵柄の違う小さなマグカップの底に転がっている。ただお湯を注いだだけでは、人工的な旨味だけが浮いた薄っぺらい味にしかならないことは明白だった。
任三郎は小さな冷蔵庫を開け、奥に残っていたベーコンの端材と、銀紙に包まれた使いかけのバターを取り出した。
小さなフライパンにオリーブオイルを引き、細かく刻んだベーコンを弱火でじっくりと炒める。パチパチとはぜる音とともに、豚の脂と燻製の香ばしい匂いが台所に立ち込めた。そこに、すりおろしたニンニクをほんの少しだけ加える。
ニンニクの香りが立ったところで、規定量よりわずかに少なめの熱湯をフライパンに直接注ぎ込む。ジュワッという激しい音とともに、フライパンの底にこびりついていた旨味が湯に溶け出した。それを、フリーズドライの塊が入ったそれぞれのマグカップに注ぎ分ける。
乾燥していたキャベツやほうれん草が瞬時に広がり、鮮やかな緑色を取り戻す。任三郎は最後に、各カップに微量のバターを落とし、粗挽きの黒胡椒を強めに挽いた。
ただのインスタントスープが、ベーコンの燻製香とニンニクのパンチ、そしてバターの乳化による深いコクを纏い、濃厚な野菜スープへと変貌を遂げた。
「茹で上がるぞ」
任三郎が短く声をかけると、タイマーが鳴る数秒前にトングでパスタを引き上げ、隣のミートソースの海へ放り込んだ。お玉1杯分の茹で汁を加え、鍋を大きくあおる。でんぷん質とソースの脂が乳化し、麺の1本1本にテリの強い赤茶色のソースがねっとりと絡みついた。
5つの深い皿に山盛りのパスタを盛り付け、コタツ机の上に並べる。
狭い部屋の中に、トマトの酸味と肉の脂、そして黒胡椒の鮮烈な香りが充満した。
真がタブレットを置き、疑わしげな目で皿を見下ろす。
「……スーパーの安物の挽肉でしょ、これ。脂の質でわかるわ」
「文句があるなら残せ。俺が食う」
任三郎が胡座をかきながら言うと、真は無言でフォークを手に取り、パスタを巻き取って口に運んだ。数回咀嚼し、ピタリと動きを止める。
「……腹立つわね。美味しいじゃない」
悔しそうに呟きながら、真は2口目を勢いよく口に運んだ。
隣では、英子がスープを1口飲み、少しだけ目を見開いていた。彼女の視線がマグカップの底と任三郎を交互に往復する。それから無言でパーカーの袖を少しだけまくり、パスタの山にフォークを突き立てた。
由希子は余白が赤字で埋め尽くされた分厚い台本を開いたまま器用にフォークを操り、エレナもスマートフォンの画面から目を離さずに次々と口へ運んでいく。狭い部屋には、フォークに巻き取られたパスタから立ち上る熱気と、ただひたすらにカロリーを摂取する微かな摩擦音、咀嚼音だけが重なっていた。
「……で」
皿が半分ほど空になった頃、エレナがナプキンで口元を拭い、静かに口を開いた。
その声には、先ほどまでの砕けた空気とは違う、プロデューサーとしての冷たくも熱い芯が通っていた。
「会社の上層部には、今回の同接数とスーパーチャットの収益データを見せて完全に黙らせたわ。外部からの不審なトラフィックを物理的に遮断した件も、事後承諾で押し通した。ストリーム・ノヴァをはじめとする外資のプラットフォームから、すでに3件の引き抜きオファーが来ているけど、すべて保留か蹴ってやったわ。主導権は完全に私たちが握っている」
エレナはコタツ机を囲む3人の女たちと、最後に任三郎を見た。
「これからが本番よ。昨日の熱狂を一過性のものにしないために、すぐに次の手を打つ」
その言葉を合図にしたように、真が自分のタブレットを任三郎の顔の前に突きつけた。画面には、筋肉の連動を可視化した複雑な3Dのボーン構造が表示されている。
「アバターのボーン設定、根本から組み直すわ。昨日のあんたの動きのデータを見て分かったけど、あの重苦しい重心移動と背筋のタメ、既存のアイドル用のモデリングじゃラグがコンマ数秒発生して気持ち悪いのよ。今日中にあんた専用の筋肉の連動モデルを叩き込むから、明日の夕方にモーションの再調整に付き合いなさい」
任三郎が頷くより早く、由希子が分厚い台本の束を机の中央にドンと置いた。
「次回の配信の修正稿です。……昨日のあなたの芝居を見て、もっと深く、もっと残酷に追い込めることが分かりました。肺の奥の悲鳴を、もっと聞かせてちょうだい」
英子はフードを被り直し、画面から目を離さずにボソリと言う。
「……海外のVPNを経由した不自然なトラフィック、まだ完全に死んでない。アンチを装った同業者の監視ツールもいくつか動いてる。全部、私が潰す」
任三郎はフォークを置き、無言で視線を落とした。
腹の奥底で、昨日とは違う、別の種類の飢餓感が目を覚ますのを感じる。それは、演者としての本能。これほどまでに狂気じみた共犯者たちから、限界を超えた芝居を要求され、板の上に立つことを強要されるという、背筋の凍るような歓喜だった。生半可な熱量では即座に見限られるという血の味がするような緊張感。
「……台本は、明日の朝までに頭に入れておく。モーションの調整はいつでも構わない」
任三郎の低い声に、由希子と真の口角がわずかに上がった。
食後。
任三郎が流しで5人分の皿を洗い終え、コタツ机に5つのマグカップを並べた。注がれているのは、スーパーで買ってきた安い粉をドリップしただけの黒いコーヒーだ。
部屋の隅に置かれた古い液晶テレビからは、BSで放送されているヨーロッパのサッカー、チャンピオンズリーグの再放送が流れていた。外国語の乾いた実況と、スタジアムのざわめきが、狭い部屋にBGMとして溶け込んでいる。
英子がキーボードを打つ手を止め、任三郎の膝の上で丸くなっている灰色の毛玉――子猫の背中を、指先でそっと撫でた。子猫は微かに「ゴロゴロ」と喉を鳴らし、さらに任三郎の体温に身を沈めていく。
真がタブレットにスタイラスペンを走らせる乾いた摩擦音。由希子が台本のページをめくる衣擦れの音。エレナがスマートフォンを2台同時に操作する微かなタップ音。
任三郎はブラックコーヒーの苦味を舌の上に転がしながら、テレビ画面の中で躍動する選手たちの残像をぼんやりと目で追っていた。
窓の外では、また遠くの電車の音が響き、秋の陽射しがささくれた畳を四角く切り取っている。
マグカップの底に残った黒い液体を飲み干し、任三郎は小さなあくびを1つ、噛み殺した。




