第52話 外資からの特大の箱
晩秋の曇天が太陽の光を分厚く遮り、築40年の木造アパートは外気とほとんど変わらない底冷えの中にあった。
断熱材など入っていない薄い壁と、建て付けの悪い窓枠。結露で曇った窓ガラスの向こう側から、どんよりとした灰色の空気が室内の温度をじわじわと下げていく。吐く息がうっすらと白みを帯びるほどの物理的な寒さが、四畳半の空間を這い回っていた。数日前に4人の女たちが持ち込んだ酒の匂いや、換気扇の処理能力を超えていた熱気は、すでに跡形もなく消え去っている。部屋には再び、古びた畳の匂いと、微かな埃っぽさだけが沈殿していた。
任三郎は、色褪せたグレーのスウェット姿で、ささくれた畳の上に胡座をかいていた。
首にタオルを巻き、手元には野口まつから手渡された分厚い商業演劇の台本が開かれている。活字の羅列を目で追いながら、任三郎は脳内で無意識に骨格の重心を移動させ、呼吸の深さをミリ単位で調整していた。役者として、板の上に立つための基礎的なチューニング。極限まで追い込まれた数日間の稼働を終え、ようやく得られた空白の時間の中で、自身の筋肉の収縮と弛緩を確かめるような静かな作業だった。長時間のモーションキャプチャーで酷使された肩甲骨の裏側には、まだ微かな強張りが残っている。
だが、その視線の動きは、不意に足元から伝わってきた小さな振動によって中断された。
「みゃあ」
短く、甘えるような声。
視線を落とすと、灰色のスコティッシュフォールド――スズが、任三郎の太ももの横にぴったりと身を寄せ、丸く大きなアンバーの瞳で見上げていた。
任三郎が台本を持ったまま動きを止めると、スズは少しだけ前傾姿勢になり、任三郎のスウェットの生地越しに、太ももの筋肉に両方の前足を乗せた。
そして、右、左、右、左と、交互にゆっくりと足踏みを始めた。
小さなピンク色の肉球が、交互に押し付けられる。力がこもる瞬間に、細く鋭い爪がわずかにスウェットの生地を貫き、任三郎の太ももの皮膚をチクリと刺激する。痛いというほどではない。それよりも、スズの小さな身体から発せられる熱と、喉の奥から絶え間なく響く「ゴロゴロ」という低いエンジン音のような振動が、冷え切った四畳半の中で、ひどく鮮烈な温かさを持っていた。
任三郎は台本をコタツ机の上に伏せて置き、空いた右手でスズの頭を軽く撫でた。
スズは心地よさそうに目を細め、フミフミという足踏みのリズムをさらに規則的に、そして少しだけ力強くしていく。母猫の母乳を飲む時の名残だというその純粋な本能の動きが、無骨な大男の身体に遠慮なくぶつけられてくる。
指先から伝わってくる柔らかな毛並みと、小さな命の重み。ただひたすらに自分の体温を分け与えようとしてくるその規則的な律動を感じていると、強張っていた背筋の緊張が少しずつ解れ、血流がわずかに温かさを取り戻していくのが分かった。任三郎は目を細め、自身の呼吸のペースを足元の小さな生き物のそれにゆっくりと合わせていく。
コタツ机の上に放り出されていたスマートフォンが、短く、鋭く振動した。
ヒビの入った画面には、エレナの名前が表示されている。
任三郎はスズの足踏みの邪魔をしないように気をつけながら、左手でスマートフォンを拾い上げ、通話ボタンをタップした。
「……平野だ」
『おはよう。休んでいるところ悪いけれど、今すぐ地下スタジオに来てちょうだい』
エレナの声は、日常の挨拶とは程遠い、ひどく冷たく張り詰めた緊張感を帯びていた。
「次の収録は明日のはずだが」
『ストリーム・ノヴァが、予告なしに乗り込んできたわ』
インカム越しではない、スマートフォンのマイクが拾う生音の向こう側から、複数人の足音と、重い荷物を床に置くような鈍い金属音が漏れ聞こえてくる。
『とんでもないものを持ってきた。……あなたの、新しい器になるかもしれない』
★★★★★★★★★★★
ギャラクシー・ライブの地下特設スタジオ。
分厚い鉛入りの防音扉を開けて中に入ると、普段の収録前やテスト稼働時の慌ただしさとは全く違う、ひどく重苦しい静寂が空間を支配していた。
天井の赤外線カメラが赤いランプを微かに点滅させ、壁際では何十台もの排熱ユニットと巨大な冷却ファンが低い唸り声を上げている。
その無機質な空間の中央、十字のバミリが貼られたスペースに、それは置かれていた。
大人二人がかりでなければ持ち上がらないような、黒い巨大なジュラルミンケース。防湿・耐衝撃のミリタリースペックを思わせるその特大の箱の周囲を、エレナ、上野真、藤本英子の3人が囲んでいる。
そしてその対面に、仕立ての良いタイトなテーラードスーツを着こなしたアマンダ・レインが立っていた。
アマンダは任三郎の姿を認めると、腕を組んだまま微かに口角を上げた。
「待っていたわ、平野任三郎」
「……何だ、あれは」
任三郎はジュラルミンケースを一瞥し、ゆっくりと歩み寄った。
「先日のシステムダウン。原因のアナリティクスは当然見ているわよね?」
アマンダの視線が、エレナへ向けられる。エレナは不快そうに眉をひそめたまま、短く頷いた。
「ええ。同接数の異常な跳ね上がりに加えて、彼のアバター制御アルゴリズムが、処理の限界を超えた」
「その通り」
アマンダは高いヒールを鳴らし、ケースの横に歩み寄った。
「でも、それはあなたたちのサーバーが貧弱だからというだけの理由じゃないわ。根本的な問題は、彼が出力するデータ量が、既存のモーションキャプチャーの規格の許容範囲を遥かに超えていることよ」
アマンダはケースの分厚いロックに指をかけ、ガチャン、と重い金属音を立てて解除した。
「コンマ数秒の重心移動、発声直前の肺の拡張、筋肉の微細な強張り。それらすべてを、既存のシステムは『エラー値』として処理しようとして、パンクしたのよ」
プシュッ、と密閉されていた空気が抜ける音が響き、アマンダがケースの蓋を両手で静かに持ち上げた。
内部には、分厚いウレタンの緩衝材に守られるようにして、一着のスーツが横たわっていた。
「だから、私たちが用意した」
スタジオの無機質な白色光の下に晒されたそれは、任三郎が普段着用している黒い化学繊維のスーツとは、全く次元の違う代物だった。
色は、光を完全に吸い込むような深い漆黒。しかし表面はのっぺりとした布地ではなく、極小の六角形のパターンが鱗のように緻密に編み込まれており、見る角度によって鈍い光沢を放っている。関節部には見たこともない形状の薄型のセンサー群が配置され、生地の裏側には、人間の血管や神経網を模したような極細の配線が走っているのが透けて見えた。
「ストリーム・ノヴァのラボが極秘に開発していた、『完全同期型フルダイブ・スーツ』のプロトタイプよ」
アマンダの言葉に、真っ先に反応したのは上野真だった。
彼女は無言でケースに顔を近づけ、震える指先で漆黒の生地にそっと触れた。
「……なにこれ」
真の口から、掠れた声が漏れる。
「布じゃない。……人工の皮膚みたい。引っ張っても、反発の仕方が人間の筋肉の繊維とそっくり……」
真のブルーグレーの瞳孔が、極限まで見開かれていた。
彼女はスーツの肩から背中にかけてのラインを指でなぞりながら、ひどく熱っぽい、猟奇的とも言える笑みを浮かべた。
「これなら……前のスーツみたいに、関節の可動域でラグが起きない。この男の泥臭い筋肉の軋みも、重心の重さも、1ミリのノイズもなく私の絵に直結できる……!」
「その通りよ、マコト」
アマンダは真の執着を肯定するように頷き、隣に立つ英子へ薄いタブレット端末を差し出した。
「仕様書よ」
英子は無言でタブレットを受け取り、画面に視線を落とした。
数秒後、彼女の顔色が変わった。
普段の冷徹な彼女の目が、信じられないものを見るように画面の文字列とスーツを交互に往復する。
「……嘘でしょ。各センサーのサンプリングレート、既存の100倍? これ、ただのモーションセンサーじゃない。筋電位、発汗量、皮膚の伸縮率までリアルタイムで取得する気?」
「ええ。でも、最大の特徴はそこじゃないわ」
アマンダはスーツの胸部のあたりを指差した。
「このスーツは、ただ着用者の動きを『吸い上げる』だけじゃない。仮想空間の環境負荷を、着用者の肉体に直接『返す』のよ。触覚フィードバック、それに筋肉への電気的な負荷システム……つまり、痛覚すらも完全に同期するわ」
英子が息を呑む音が、静かなスタジオに響いた。
「そんなの……狂ってる。人間の肉体が耐えられる情報処理量じゃない。長時間の着用は、神経に深刻なダメージを残すわ」
「ええ、並の人間ならね」
アマンダは英子の警告を冷たく切り捨て、真っ直ぐに任三郎を見据えた。
「でも、彼は違う。彼は、既存のシステムでは自分の芝居を十全に出力できず、システムそのものを破壊してしまった規格外のバグよ。このオーバースペックな異常なスーツこそが、彼という役者を世界市場に届けるための、唯一の器だわ」
アマンダの言葉が、重い沈黙となってスタジオに落ちた。
エレナは腕を強く組み、真はスーツの生地を撫で続け、英子はタブレットの画面を凝視したまま固まっている。
任三郎は無言のまま、ジュラルミンケースの前に立った。
任三郎は右手を伸ばし、スーツの胸元の生地を厚く掴み上げた。
ズシリと、予想以上の重さが手首に伝わってくる。化学繊維の軽さはない。それは確かに、もう一つの「肉体」としての物理的な質量を持っていた。
生地の表面に編み込まれた微細な六角形のパターンが、指先の皮膚に奇妙な摩擦を返す。そのひんやりとした無機質な感触の奥底に、人間の神経を直接ハッキングするための緻密な電子回路が眠っているのが分かった。
任三郎は右腕の筋肉を微かに収縮させ、分厚い胸板に直接作用するその重さを正確に推し量る。
「……着てみるかしら?」
アマンダが静かに問う。
任三郎はケースの中の漆黒を見下ろしたまま、短く応じた。
「電源を入れろ。俺の身体に合うか、試す」




