第53話 0.001秒のレイテンシ
ギャラクシー・ライブの地下深く。広大な第1スタジオは、普段の収録やテストの際とは全く異なる、ひどく無機質で張り詰めた空気に支配されていた。
壁一面を覆うように急造で増設されたストリーム・ノヴァ製の漆黒のサーバー群が、地鳴りのような重い排熱音を絶え間なく立てている。天井付近に設置された何十台もの大型冷却ファンが高速で回転し、空気を切り裂くような風切り音を響かせていた。フロアを這う何十本もの極太のケーブルは、まるで脈打つ黒い血管のようにコントロール卓へと集約され、巨大な機材群が吐き出す熱気が、極限まで下げられたはずの冷房の冷気を相殺するほどにスタジオの温度を狂わせていた。その鈍い駆動音の渦の中で、数名のエンジニアたちが血走った目でモニターと睨み合い、硬質なタイピング音だけを響かせている。
スタジオの中央に立つ任三郎は、自身の肉体を包み込む未知の感覚に、深く息を吐き出した。
アマンダ・レインが持ち込んだ「完全同期型フルダイブ・スーツ」のプロトタイプ。
それは、これまで任三郎が着用していた化学繊維のモーションキャプチャースーツとは、根本的に概念が異なっていた。着用するというよりは、第二の皮膚を全身に直接移植されたような感覚に近い。極限まで薄い特殊素材は、任三郎の強靭な背筋の隆起から、太ももの裏に走る微細な血管の脈動すらも逃さず密着している。各関節部に仕込まれた目に見えないほど薄いセンサー群は一切の物理的な干渉を生まず、むしろスーツ自体の張力が、筋肉の収縮と弛緩を外部から強制的に読み取ろうと待ち構えているようだった。大きく息を吸い込むと、肋骨の膨張に合わせて素材が生き物のように伸縮し、わずかな抵抗感とともに胸を締め付ける。
「キャリブレーション完了。全センサー、正常にリンクしています。データ欠損、ゼロ」
分厚い防音ガラスの向こう側で、藤本英子が青軸キーボードから手を放し、マイク越しに告げた。普段はどんな事態にも動じない冷徹な彼女の声に、未知のテクノロジーの精度に対する微かな震えが混じっていた。
「レイテンシ、0.001秒以下。……事実上、遅延ゼロです。任三郎さんの細胞の動き一つひとつが、システムと完全に直結しています」
英子の報告を受け、アマンダが腕を組みながらモニターを冷徹に見つめる。
「始めてちょうだい。あなたの肉体のすべてを、私たちのシステムに乗せて。あなたが持つあらゆる情報が、この世界市場を制するアバターの駆動をどう書き換えるのか見せてもらうわ」
任三郎は小さく首を鳴らし、静かに目を閉じた。
防音スタジオの床から、静電気防止マットの冷たい感触が足の裏に伝わってくる。そこから骨盤へと重心を引き上げ、己の内に染み付いた数十年の生活の垢を意識的にミュートしていく。肩の力を抜き、背筋を真っ直ぐに伸ばし、「天ノ川シリウス」という完璧な王子様の器へと、自身の骨格の稼働域を合わせていく。
視線の角度、顎の引き方、指先のわずかな曲がり具合。それらすべてを、モニターの向こう側にいるであろう見えない観客のために最適化する。過酷な演劇の世界で培ってきた、自己の解体と再構築のプロセス。
息を、吸う。
目を開き、バミリの上で一歩、右足を踏み出した。
その瞬間、コントロールルームにいた全員が、息を呑んでモニターに釘付けになった。
画面の中の「天ノ川シリウス」が、滑り出すように歩き出した。
だが、その姿は、誰もが知るトップVTuberのそれとは決定的に異なっていた。
「……え」
上野真の口から、ひどく間抜けな声が漏れた。
任三郎自身は、いつも通りにシリウスの優雅な歩幅で歩こうとしていた。背筋を伸ばし、踵から柔らかく着地する、王子様としての理想的な歩行。
しかし、システムが拾い上げたのは、彼が「意図して作った動き」だけではなかった。
足を上げる直前、長年の舞台稽古で酷使してきた右膝の関節が無意識に行う、コンマ数ミリの痛みを逃がすような微細なクッション。
腕を振る際、肩甲骨の裏側にへばりついた慢性的な疲労からくる、わずかな重さ。
そして、息を吸い込むときの、30歳を過ぎた男特有の、深く、どこかくたびれたような横隔膜の沈み込み。
それらすべてを、0.001秒のレイテンシを誇る新型スーツは、一片のノイズキャンセリングも挟むことなく、そのままアバターのボーンへと直結させてしまったのだ。
モニターの中の金髪の王子様は、歩くたびに妙に重心が低く、肩をわずかに丸め、まるで安い居酒屋のカウンターで仕事の愚痴をこぼしながらため息をつく直前のような、ひどく生々しい「疲労感」を漂わせていた。
完璧な美貌を持つアニメの絵が、どう見ても「人生に疲れ果てた男」の挙動でスタジオを歩き回っている。足の運びの一つひとつから、四畳半のボロアパートの埃っぽい匂いが漂ってくるような錯覚すら覚えるほどだ。
「……ッ!!」
コントロールルームの沈黙を破ったのは、真の鼓膜を劈くような絶叫だった。
彼女はコントロール卓を両手でバンッと叩き、充血した目で立ち上がった。
「ちょっと! なにこれ!! 私の! 私の綺麗なシリウスが!!」
「真、落ち着いて」
「落ち着けるわけないでしょ! どっからどう見ても、ただの疲れたオッサンじゃない!!」
真はガラス越しに任三郎を指差し、半狂乱で叫んだ。
「あんたの生活のノイズが全部モロに乗ってんのよ! 首の回し方も、重心の低さも、全部『平野任三郎』そのまま! 私が完璧にデザインしたガワの美しさを、中身のオッサン臭さが完全にぶち殺してる!」
エレナもまた、額を押さえて深い溜め息をついていた。
「……恐ろしいシステムね。感度が良すぎて、演者が削り落とそうとしている『無意識の癖』まで全部拾い上げてしまう。これじゃあ、アイドルとしての偶像が成立しないわ。完璧なトラッキングが、逆にエンターテインメントのフィルターを破壊している」
アマンダだけが、想定外の出力結果に微かに眉をひそめつつも、手元のタブレットの数値を食い入るように見つめていた。
「システム自体は完璧よ。彼が発する身体的情報の100%を、完全にデジタルへ変換している。ラグはゼロ、データの欠損もゼロ。……ただ、人間の肉体がこれほどまでに雄弁に年齢や生活を語るとは、計算外だったわ。彼がどれだけ完璧にアイドルを演じようとも、肉体の奥底にある疲労という物理現象までは隠しきれない」
真のヒステリックな抗議により、テストは一時中断となった。英子がセンサーの感度と補正アルゴリズムのパラメータを根本から組み直すための時間を要求したためだ。
任三郎は深い息を吐き、スタジオの隅に置かれたパイプ椅子に重い腰を下ろした。
全身に張り付くスーツは、座るという動作に伴う大腿四頭筋の脱力すらも精密に読み続け、モニターのアバターに反映させている。パイプ椅子の冷たさが、薄い素材越しに直接肌に伝わってきた。
「みやぁ……」
不意に、足元からひどく甘えた声がした。
任三郎が視線を落とすと、パイプ椅子の横に置かれたプラスチック製のキャリーケースの中で、灰色の毛玉が鼻先を格子に押し付けていた。
一人でアパートに残すわけにもいかず、エレナの許可を得て連れてきていたスズだった。
慣れない地下スタジオの無機質な空気と、先ほどの真の絶叫に驚いたのか、スズは特徴的な折れ曲がった耳をペタンと伏せ、短い前足でケージの扉をカリカリと引っ掻いている。ピンク色の肉球が、助けを求めるように押し付けられていた。
「……悪かったな、うるさくして」
任三郎は低く掠れた声で呟き、ケージのロックを外した。
扉が開くや否や、スズはよろよろと這い出し、迷わず任三郎の足首へとすり寄ってきた。
スーツの特殊繊維に体を擦り付け、ゴロゴロと低いエンジン音のような喉の鳴りを響かせる。
「おい、爪は立てるなよ。何億するスーツか分からんからな」
任三郎は苦笑しながら、大きな右手でスズの小さな頭をそっと撫でた。
スズは撫でられる手に自分から頭を押し付け、短い尻尾をピンと立てて機嫌よく足の間を歩き回る。
やがて、かまってほしいアピールがエスカレートし、任三郎の膝によじ登ろうと、両方の前足をスーツの太ももに引っかけた。
「こら、ダメだ」
任三郎は慌ててスズの脇の下に両手を入れ、ひょいと持ち上げた。
宙吊りになったスズが、きょとんとしたアンバーの丸い目で巨漢を見下ろす。任三郎はその小さな命の純粋な温もりと重さに、思わず目尻を下げ、ひどく無防備で、優しい顔つきになった。
――しかし。
スーツのシステムは、まだスリープモードに入っていなかった。
コントロールルームのモニター群は、0.001秒のレイテンシで、任三郎の筋肉の連動、呼吸の深さ、そして表情筋の微細な緩みをすべてアバターへと流し込み続けていた。
画面の中央。
金髪の美しい王子様が、パイプ椅子にドカッと脚を開いて座り、虚空に向かって何かを抱き上げるような姿勢をとっている。
そして、その顔には、30代の独身男がペットの猫を溺愛する時の、ひどくデレデレとした、生活感丸出しの微笑みが浮かんでいた。
キラキラとしたアイドルのオーラは完全に消え失せ、ただ「休日に猫を愛でるお父さん」の哀愁と温もりが、完璧なポリゴンの表面からじゅわっと滲み出している。
真は言葉を失い、コントロール卓に置かれた液晶タブレットを両手で握りしめたまま、わなわなと肩を震わせていた。
怒りを通り越し、深い絶望に染まった目でモニターの惨状を睨みつける。
「私の絵に……そんな情けない顔させないで……」
英子は無言でキーボードを叩き、その「猫を撫でる30代の男」の異常な挙動データを、後で密かに分析するためにローカルフォルダへと保存した。
防音ガラスの向こう側では、任三郎がスズを両手で抱えたまま、自身の視界の端で赤く点滅し続ける収録ランプに気づき、わずかに眉をひそめていた。




