第51話 狂熱の翌朝、猫と味噌汁
擦り切れた畳の上を這うように、晩秋の重い冷気が忍び寄ってくる。
薄い掛け布団から露出した首筋が冷気に撫でられ、任三郎は浅い眠りの底からゆっくりと意識を浮上させた。壁の向こうからは、出勤のために外階段を慌ただしく降りていく隣人の足音と、遠くの幹線道路を走る大型トラックの低い排気音が、くぐもった振動となって伝わってくる。ひび割れた天井の木目をぼんやりと見つめながら、任三郎はゆっくりと深い息を吐き出した。
四畳半の部屋の空気には、昨夜の狂騒の名残が未だに分厚くこびりついていた。
フルーティーなシャブリと重厚なポートワイン、そして強烈なピート香を持つニッカウヰスキー。それら三種類のアルコールが混ざり合ったツンとした匂いと、ドロソースのジャンクな酸味、鉄板の上で焦げたラードの重い香り。換気扇を夜通し回し続けていても、古びた壁紙とささくれた畳に染み付いたそれらは、四人の女たちが持ち込んだ異様な熱気とともに、確かな痕跡として残っている。
コタツ机の上には、電源の抜かれたたこ焼き器が置かれたままで、丸い窪みの縁には焦げた生地と油がこびりついている。周囲にはソースのついた紙皿や、丸められたティッシュペーパー、中途半端に残ったワインのボトルが無造作に散乱していた。
日付が変わる頃には全員をタクシーに押し込んで追い返したが、嵐が過ぎ去った後のような今の静けさが、かえってこの部屋の本来の孤独を際立たせているようだった。
足元で、丸めて放り出されていた毛布の山が不自然に隆起し、モゾモゾと動いた。
「みやぁ」
短く、ひどく甘えるような鳴き声。灰色のスコティッシュフォールドの子猫、スズが、掛け布団の端から丸い顔を出した。冷え切った部屋の中で、その小さな体だけが不釣り合いなほどの熱を放っている。スズは前足を思い切り伸ばして背中を丸め、大きなあくびをした後、特徴的な折れ曲がった耳をピクピクと動かして、アンバーの瞳で大男を見上げた。
任三郎は重い右腕を持ち上げ、スズの小さな頭を乱暴にならない程度に撫でた。首の付け根を親指で掻いてやると、ゴロゴロという低いエンジン音のような振動が、指の腹を通して直接伝わってくる。手のひらに感じる華奢な骨格の感触が、今ここにある唯一の生きた熱だった。
「……腹が減ったか」
長時間の睡眠で完全に乾ききった、掠れた地声が落ちる。
任三郎は身を起こし、着古したスウェット姿のまま、素足で冷たいフローリングの台所へ向かった。スズが短い尻尾をピンと立てて、まとわりつくように後を追ってくる。
プラスチックの保存容器から、陶器の浅い皿に子猫用のドライフードをざらざらと流し込む。スズが小さな頭を突っ込み、カリカリ、クチャクチャという小気味良い咀嚼音が、静まり返った部屋に響き始めた。
その無心な食事風景をしばらく見下ろした後、任三郎は使い込まれた小鍋に水を張り、コンロの火をつけた。青い炎が小鍋の底を舐め、シューという微かな音を立てる。
昨夜あれだけのジャンクな油と大量のアルコールを胃袋に叩き込んだというのに、目覚めれば肉体は新しい燃料を要求している。限界まで酷使された細胞の隅々が、純粋な水分と塩分を求めていた。
冷蔵庫を開ける。入っていたのは、使いかけの木綿豆腐が入ったタッパーと、プラスチックの容器に入った信州味噌、そして切り口が干からびかけた長ネギだけだった。
沸騰した湯に、少量の顆粒出汁を落とす。本来なら煮干しや昆布から取りたいところだが、今はそんな気力すらない。
まな板の上でネギの乾いた部分を切り落とし、残りを手早く小口切りにする。包丁がまな板を叩くトントンというリズミカルな音が響く。続いて、手のひらの上で賽の目に切った豆腐を鍋へ滑り込ませる。最後に乾燥ワカメをひとつまみ放り込み、火を止めてから、お玉の上で味噌を菜箸で溶き入れた。
古いマグカップに注ぐ。
立ち上る白い湯気とともに、大豆の発酵した豊かな香りと、出汁の優しい匂いが顔を包み込んだ。
縁に口をつけ、ゆっくりとすする。
熱い液体が食道を通り、荒れた胃に落ちていく。
その瞬間、強張っていた内臓がじんわりとほどけ、全身の血流がわずかに温度を取り戻していくのが分かった。豆腐の素朴な甘みと、ワカメの微かな磯の風味、そしてネギの青い辛味。ただそれだけの、ひどくありふれたインスタントに近い味噌汁だ。
昨日までの、鼓膜が破れるようなシステムのノイズと、世界中を巻き込んだ熱狂が、まるで他人の見た質の悪い夢だったかのように錯覚しそうになる。だが、息を吸い込むたびに肺の裏側で細かい砂が擦れるような違和感と、肩甲骨の奥にへばりついている鉛のような疲労感が、すべて現実の出来事であったことを彼に突きつけていた。
任三郎は流しの前に立ったまま、二口目の味噌汁を喉の奥深くに流し込んだ。
スズが食事を終え、念入りに顔を洗った後、任三郎の足の甲に乗り上げて香箱座りを作る。その小さな温もりと柔らかな重みを感じながら、彼はゆっくりと息を吐き出し、マグカップを空にした。
★★★★★★★★★★★
同じ頃。
ギャラクシー・ライブが入る高層ビルのオフィスは、早朝にもかかわらず完全に野戦病院と化していた。
プロデュース部のフロアには、普段の静謐さは欠片もない。鳴り止まないIP電話のコール音、キーボードを力任せに叩く凄まじい打鍵音、そして複数言語が入り乱れるスタッフたちの声が、空間を重く満たしていた。時差のある各国のプラットフォーム担当者と、リアルタイムで交渉を続けているのだ。
エレナ・クルスは、自席のデスクに両手をつき、3枚並んだモニターを充血した目で睨みつけていた。
画面を埋め尽くしているのは、昨夜から今朝にかけて世界中から寄せられたオファーの数々。
『北米最大のVRイベントへのゲスト出演依頼。ギャランティ提示額、150万ドル』
『欧州トップスポーツブランドからのグローバルアンバサダー契約打診』
『中東の王族系ファンドによる、天ノ川シリウス単独ライブの誘致と技術提携』
『南米のメガインフルエンサーによるコラボレーション配信の打診』
メールの受信トレイは、スパムを疑うほどの勢いで未読件数が増殖していく。エレナは次々と送られてくる英文のメールを瞬時に読み飛ばし、フラグを立てるものとゴミ箱へ捨てるものとを機械的な速度で仕分けていた。
「エレナさん、ストリーム・ノヴァのアジア統括、アマンダ・レイン氏からコンタクトです! 『契約の再交渉』と『ハードウェアのテスト稼働』について、今日中にミーティングをセットしたいと……!」
アシスタントが、インカムを片耳から外しながら血相を変えて駆け込んでくる。
エレナは小さく舌打ちをし、前髪を乱暴にかき上げた。
「……あの女、本当に嗅覚だけは異常ね。返信して。『今日の午後はスケジュールが埋まっている。そちらが本気なら、明日の朝一でこのオフィスまで出向いてきなさい』って」
「で、でも相手はあのストリーム・ノヴァの……」
「いいから送って! 向こうはこちらの『魂』が喉から手が出るほど欲しいのよ。主導権は完全に私たちが握っている。法務部には至急、外資対応のライセンス契約のテンプレートを用意させること。それから英子と真に連絡。地下スタジオのシステムを完全に空けておいてちょうだい」
エレナの早口で矢継ぎ早な指示に、アシスタントは青ざめた顔で力強く頷き、自席へと走って戻った。
エレナはこめかみを指で強く押さえた。疲労で頭の芯が痺れている。昨夜、任三郎のアパートでジャンクなたこ焼きとワインを胃に叩き込んだ後、数時間の仮眠をとっただけでオフィスへ直行してこの有様だ。タイトなスーツの下で、肩甲骨が軋むように痛む。
「……プロデューサー。せめて、これを」
別のスタッフが、遠慮がちにエレナのデスクの端に紙袋を置いた。
「差し入れです。広報部から。……食べないと、倒れますよ」
エレナは長く重いため息をつき、視線をモニターから外した。
紙袋から取り出したのは、高級感のある木目の折箱。老舗・浅草今半の牛肉重だった。
蓋を開けると、冷めてもなお食欲を直接鷲掴みにするような、醤油と砂糖、そして上質な牛脂が混ざり合った甘辛い割り下の香りが立ち上った。ご飯の上には、見事なサシが入った薄切りの黒毛和牛が幾重にも敷き詰められ、脇には焼き豆腐と青ネギ、しらたきが添えられている。
エレナは割り箸を割り、肉を一枚、タレの染みたご飯ごと口に運んだ。
冷めた肉の脂が舌の温度でとろけ、老舗特有のキリッとした醤油の塩気と完璧なバランスで混ざり合う。空っぽだった胃の腑に、確かな質量を持った濃厚な旨味が落ちていく。
咀嚼しながら、エレナの左手はすでにキーボードのショートカットキーを弾いていた。
法務部から送られてきたライセンス契約のドラフトファイルを開き、条項の隅々に目を光らせる。少しでもこちら側に不利な記述があれば、容赦なく赤い文字で修正を加えて送り返す。同時に、別ウィンドウで社内のスケジュール管理ツールを立ち上げ、明日の地下スタジオの使用枠を強引にブロックする。考える間も、迷う暇もない。目の前に積まれたタスクを、一つずつ確実に粉砕していく。
エレナは焼き豆腐を噛み切り、冷たい緑茶で一気に流し込んだ。
「……舐められたままじゃ終わらないわよ」
空になった弁当箱をゴミ箱へ放り込み、彼女は再びモニターの光の中へ身を投じた。
★★★★★★★★★★★
四畳半の部屋に、スマートフォンの短い振動音が響いた。
流しでマグカップを洗い終えた任三郎は、コタツ机の上に置かれた画面に目を落とした。エレナからのメッセージが通知されている。
『アマンダが本気で動いてきた。明日、ストリーム・ノヴァから「箱」が地下スタジオに届く。すぐにテスト稼働に入るわ。準備しておいて』
短いテキスト。その裏にあるプロデューサーの殺気立つような多忙さと、休む間もなく次の戦場が用意されたという事実がひしひしと伝わってくる。
任三郎は濡れた手をタオルで拭き、画面をオフにした。
スズが「遊べ」とばかりにスウェットの裾に爪を立てて登ってこようとする。任三郎はそれを片手でひょいとつまみ上げ、畳の上に優しく下ろした。
彼は壁際のパイプハンガーに手を伸ばした。そこには、すっかり着慣れてしまった黒いモーションキャプチャースーツが掛けられている。
首を左右にゆっくりと倒すと、頸椎の奥で乾いた音が鳴った。両腕を前に伸ばし、胸の前で交差させて肩甲骨を左右に開くようにストレッチを入れる。強張っていた背筋が引き伸ばされ、鈍い痛みが走るが、同時に血流が再開して筋肉がわずかに熱を帯びるのを感じた。
さらにアキレス腱を伸ばし、股関節の可動域を広げる。舞台稽古の前のルーティン。どんな大舞台であろうと、やることは変わらない。与えられた台本と環境の中で、自分の肉体を使って最高の出力をするだけだ。
アパートの外では、相変わらずカラスが甲高い声を上げて鳴いている。
任三郎は床に置かれたボストンバッグに、モーションキャプチャースーツとタオル、予備のTシャツを無造作に詰め込んだ。ジッパーを乱暴に引き上げ、ボストンバッグを肩に担ぐ。
「……行くか」
たった一言だけ呟き、彼は玄関の冷たい鉄扉のノブに手をかけた。




