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第50話 中の人などいない!

 晩秋の風が、ビルの谷間をすり抜けて色褪せたミリタリージャケットの襟元を不規則に揺らしている。

 任三郎は両手をポケットの奥深くに突っ込んだまま、駅前の雑踏をゆっくりとした歩調で進んでいた。

 吐く息はすでにうっすらと白みを帯び、道行く人々の多くは厚手のコートやマフラーに身を包んで足早に家路を急いでいる。


 交差点を見下ろす位置に設置された巨大な壁面ビジョンからは、数週間前に行われた「ギャラクシー・ライブ」の大規模3Dライブの映像が、大音量とともに繰り返し街に降り注いでいた。

 システムダウンによって音声とモーションの補正アルゴリズムが完全に剥がれ落ちた状態での、生々しい息遣いと軋むような筋肉の連動。仮想空間のノイズすらも呑み込み、全世界のトラフィックを物理的に停止させたあの一夜の熱狂は、冬の気配が濃くなる現実の街角でも未だに燻り続けている。

 画面の中で完璧なステップを踏む金髪の王子様を見上げながら、すれ違う若者たちがスマートフォンを掲げ、興奮気味に言葉を交わしていく。海の向こうの国々でも、世界中のメディアとアナリストたちが血眼になって「天ノ川シリウスの魂」の正体を割り出そうと躍起になっているはずだ。


 だが、その映像の中心にいる男は今、少し伸びた無精髭を撫でながら、夕暮れの路地を一人で歩いている。

 彼が重い足を踏み出すたび、すれ違う人々は無意識のうちに道を譲る。そこに向けられる視線は、ただのむさ苦しい男に対する警戒や無関心だけであり、憧憬や熱狂の欠片もない。彼らは気づかない。自分たちの視界の端を通り過ぎていった男の骨格の動きと、極限まで落とした重心の低さが、頭上のビジョンで歓声を浴びている王子様の滑らかなステップの土台であることを。


 大通りから一本外れた薄暗い路地裏に入った時、鼻腔を強い匂いが突いた。

 熱せられた鉄板の上で、たっぷりと引かれたラードが焦げる特有の重い匂い。それに混じる、昆布と鰹の出汁が効いた生地と小麦粉が焼ける、甘く香ばしい香りだ。

 赤提灯をぶら下げた古びた軽トラの屋台だった。ねじりはちまきをした親父が、千枚通しを鮮やかな手つきで操り、鉄板の上の半球を次々とひっくり返している。ジュージューと生地が焼ける音と立ち上る白い湯気が、底冷えのする路地の空気をそこだけ丸く温めていた。


 胃の腑が、条件反射のように鋭く収縮した。

 コンマ数秒の呼吸制御とミリ単位の視線移動を強いられる長時間のモーションキャプチャー収録は、細胞の隅々からカロリーを凄まじい速度で絞り尽くす。ライブから数週間が経ち、ようやく筋肉の強張りが抜けてきた肉体は、失われた質量を急激に取り戻すように常に獰猛な飢えを抱えていた。


「親父、24個入り。舟で頼む」


 任三郎が低く声をかけると、親父は無言で短く頷き、手際よく経木の舟に熱々の大玉を山盛りにした。たっぷりの甘辛いソースとマヨネーズ、青のり、そして熱気で踊る大量の鰹節を乗せて差し出す。

 ずっしりとした重みと、紙袋越しに手のひらへ伝わってくる強烈な熱。

 任三郎はそれを受け取り、アパートへの家路を急いだ。


★★★★★★★★★★★


 外階段の錆びた鉄を軋ませ、2階の角部屋の前に立つ。

 ポケットから鍵を取り出そうとした手が止まった。ドアの隙間から、微かに話し声と、甘く洗練された香水の匂いが漏れ出ている。

 短く息を吐き、ノブを回す。立て付けの悪いドアが開くと、四畳半の部屋の空気は、晩秋の外気とは完全に断絶された異質なものになっていた。


「遅いわよ、平野さん。待ちくたびれたわ」


 ささくれた畳の上に置かれた安いコタツ机。その一番良い位置に陣取っていたエレナが、タイトなスーツのジャケットを脱いだ姿で不満げに口を開いた。彼女の傍らには、ステンレスのボウルに氷水が張られ、よく冷えた白ワインのボトルが斜めに刺さっている。手元のスマートフォンには、未読のメッセージを示す赤いバッジが異常な桁数で点灯し続けていたが、彼女はそれを一瞥しただけで画面を裏返した。


 その対面では、クラシカルなブラウス姿の由希子が、赤いインクで真っ黒に染まった分厚い台本を睨みつけながら、万年筆の尻でコツコツと机を叩いている。


「……平野さん。次回の配信ですが、冒頭のモノローグでの息継ぎのタイミングを、さらに0.2秒削りました。あなたの今の肺活量なら、この摩擦音を維持したまま、ひと息でいけるはずです」


 彼女の手元には、コルクを抜かれたずんぐりとした黒いポートワインのボトルと、華奢なグラスが置かれていた。


 コタツの端では、英子がノートPCの画面に視線を固定したまま、青軸のキーボードを高速で叩いている。


「左足の接地圧、正常値に戻ってる。前回のライブの疲労は抜けたみたいね。でも、まだ肩甲骨の可動域にコンマ数ミリの遅れがある。今日のウォーミングアップで修正して」


 彼女のあぐらの上には、灰色のスコティッシュフォールド・スズが丸まり、完全にリラックスした低い喉の鳴りを響かせていた。


 そして、万年床のスペースを陣取るように座っていた真が、傍らに置かれた黒いジュラルミンケースをバンと叩いた。


「ほら、これ。あんたのあの重苦しい重心移動と背筋のタメを完全に再現できるように、ボーン設定から組み直した特注のスーツ。私の絵を最高に輝かせるんだから、これくらい当然でしょ。ミリ単位のズレも許さないからね」


「なぜ、お前たちは当然のように俺の部屋の鍵を開けている」


 任三郎の静かな問いに、エレナが事もなげに言い放つ。


「物理的なセキュリティが一番高い場所がここだからよ。ギャラクシー・ライブの社内は今、世界中からの問い合わせでまともに仕事ができないの。アマンダのところの連中も、まだ諦めずに直通回線を鳴らし続けてるしね」


 任三郎は短く息を吐き、ミリタリージャケットを壁のパイプハンガーに掛けた。そして、大きな紙袋をコタツの中央にドンと置く。

 ソースとラードの強烈なジャンクの匂いが、高級な香水や古い畳の匂い、そしてインクの匂いを一瞬にして上書きした。


「……たこ焼き?」

「24個ある。食うだろう」


 任三郎は流しの戸棚から、いつものニッカウヰスキーの瓶と分厚いロックグラスを取り出し、胡座をかいた。


 エレナは手早くたこ焼きを小皿に取り分け、自身のグラスにシャブリを注いだ。由希子も無言でポートワインを注ぐ。PCから顔を上げた英子と、タブレットを置いた真も、不器用な手つきで割り箸を割った。


「いただきます」


 任三郎は爪楊枝ではなく割り箸で、大玉のたこ焼きを一つ掴み、そのまま口に放り込んだ。

 外側のカリッとした食感を破ると、中から火傷しそうなほど熱いトロトロの生地と、大ぶりのタコの歯ごたえが弾けた。生地に練り込まれた紅生姜の微かな辛味と天かすの香ばしさ、昆布出汁の強い旨味に、スパイシーでフルーティーなドロソースの酸味、そしてマヨネーズのコクが混ざり合う。

 熱さに顔をしかめながら数回咀嚼し、すかさずニッカを煽る。

 ピートの香りをまとった荒々しいアルコールが、口の中にまとわりついたラードの重さを強烈な熱量で洗い流し、胃の腑に熱い塊となって落ちていく。


「……信じられない。このジャンクなソースの酸味と、シャブリのミネラル感が妙に合うわ」


 エレナが目を丸くして白ワインのグラスを傾けていた。キリッとした辛口の白ワインが、青のりの磯の香りとソースの果実味を見事に調和させている。


「ポートワインの重厚な甘みも、悪くありません。出汁の塩気とソースのスパイスが、黒糖のような甘みを引き立てます」


 由希子が妖艶な笑みを浮かべ、ルビー色の液体を舌の上で転がした。


「……タコ、熱い」


 英子が涙目でハフハフと口を動かしながら、スズの背中を撫でている。

 真は無言で2個目のたこ焼きにマヨネーズをたっぷりとかけ、熱さに身悶えしながらも次々と口に放り込んでいた。


 四畳半の狭い部屋に、箸とグラスの触れ合う音、そして静かな咀嚼音だけが響いた。

 外の喧騒や、世界を巻き込んだ巨大な熱狂など、この空間には一切届かない。ただ目の前にあるカロリーを摂取し、次に来る過酷な稼働に向けて肉体を満たすという、極めてプリミティブな行為だけが存在していた。


「まつさんから、またあなたの個人宛に分厚い封筒が届いていたわよ。どうせまた、どこかの大舞台の台本でしょうけど」


 白ワインを飲み干し、エレナが小皿の上の青のりを箸の先でつつきながら言った。


「クロエのマネージャーからも、日本に来るフライトのスケジュールが送られてきたわ。本当に専用ジェットで乗り込んでくるつもりみたいね」


「……騒々しい連中だ」


 任三郎はニッカのグラスを置き、首の後ろを太い指で揉みほぐした。

 コタツの上に散乱する赤字だらけの台本、複雑なコードが走るPCの画面、特注のモーションキャプチャースーツが入ったジュラルミンケース。そして、空になったたこ焼きの舟。


「食ったなら、仕事だ」


 低く掠れた声で呟き、任三郎は立ち上がった。

 ミリタリージャケットを羽織る必要はない。彼が向かうのは、ここから電車を乗り継いだ先にある、地下深くのスタジオだ。

 冷え切った静電気防止マットを踏みしめ、肌に食い込む特殊繊維のスーツを着込み、レンズの向こう側で息を潜めて待つ観客の前に立つ。


「行くぞ」


 任三郎は真の持ち込んだジュラルミンケースと由希子の台本を掴み、古い鉄の扉を開けた。

 冬の入り口の冷たい風が、彼の熱を帯びた身体を包み込む。

 任三郎は無精髭を一度だけ撫でると、錆びた外階段を静かに降りていった。

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