第47話 絶体絶命のシステムダウントラブル
――最初の一歩が、仮想空間の重力を完全に書き換えた。
モニターの中の「天ノ川シリウス」が滑り出すようにステージを前進した瞬間、画面の右側を埋め尽くすコメントの流速が、システムの処理限界を超えて白濁した光の帯へと変貌した。
放たれた第一声、それに続く完璧なステップ。ただ歩き、言葉を発し、視線を流す。そのすべての所作に、数十万の観客が息を呑み、圧倒され、そして底なしの熱狂へと突き落とされていく。その巨大な感情のうねりが、目に見えるデータの数値となってコントロール卓のモニターに弾き出され続けている。画面を埋め尽くす多言語のテキストは、国境も文化も飛び越え、ただ一つの絶対的な存在への渇望で統一されていた。
地下深くの特設スタジオは、鼓膜を圧迫するような大型排熱ユニットの重低音と、フロアを駆け回るスタッフたちのインカムの声で混沌としていた。壁一面を覆う巨大なサーバーラックからは、目を開けているのすら辛いほどの熱気が淀みなく吐き出され、極限まで乾燥していたはずの空気にじっとりとした不快な湿り気が帯び始めている。肌にまとわりつくその熱は、ここが世界中から注がれる視線の中心点であることを物理的に証明しているようだった。何本もの太いケーブルが床を這い、幾つもの電源タップが赤いランプを点灯させている。スタッフたちは誰一人として言葉を発する余裕すらなく、ただモニター群と睨み合いながらキーボードを叩き続けていた。
任三郎は、床に貼られた十字のバミリの中央で、極度の張力を持つ特注のモーションキャプチャースーツに全身を締め付けられながら、淀みなく次のターンのモーションへ移行した。
化学繊維の極端な反発力が、ただ立っているだけでも大腿四頭筋や広背筋を強く引っ張り、関節の隙間に重い摩擦を生じさせている。額から滲み出た汗が目元のセンサーをかすめて顎へと滴り落ちる。しかし任三郎は、その肉体に食い込むような負荷を顔に出すことも、呼吸のリズムを乱すこともなく、ただミリ単位の重心移動によって完璧なアイドルのシルエットを維持し続けていた。
その凄まじい熱狂の渦の中心で、任三郎の脳裏にはふと、昨夜の底冷えする静寂がよぎっていた。
★★★★★★★★★★★
ライブ前夜。
築40年の木造アパートの薄い壁は外の冷気を防ぎきれず、四畳半の部屋の隅には晩秋の重い空気が沈殿していた。古びた窓ガラスは結露で曇り、外の世界とこの狭い空間を隔絶している。
ささくれた畳の上に置かれた安いコタツ机を挟んで、任三郎とエレナ・クルスは向かい合って座っていた。
机の上には、ひどくアンバランスな品々が並んでいる。数日前にアマンダ・レインから「グローバル市場への手土産」として現場に差し入れられたという、重厚な木箱に入った分厚いバームクーヘン。任三郎の私物である特売品のインスタントコーヒーの粉末瓶。エレナが持ち込んだカリフォルニア産の赤ワインのボトルと、「ニッカ」のシングルモルトウイスキーの黒い瓶だ。
色褪せたスウェット姿で胡座をかいた任三郎は、無言で木箱からバームクーヘンの塊を取り出し、無造作に大きく手でちぎった。
何十層にも薄く焼き重ねられたしっとりとした生地を口に放り込む。上質なバターの芳醇な香りと、脳の芯が痺れるような分厚い砂糖の甘さが一気に舌の上に広がる。任三郎はそれを十分に咀嚼する前に、縁の欠けたマグカップに注いだ熱く苦いインスタントコーヒーで胃の腑へと一気に流し込んだ。焦げたような安っぽい豆の匂いが湯気とともに立ち上る。極端な甘さと鋭い苦味が、連日の過酷なリハーサルで麻痺しかけていた神経を直接刺激し、空っぽの身体にカロリーが強制的に叩き込まれていく。胃袋が急激な熱量を受け止めて小さく脈打ち、ようやく生きているという実感が泥のような疲労の底から浮かび上がってくる。
エレナは脚のない安物のグラスに赤ワインを注ぎ、一口含んだ。カリフォルニアワイン特有の、ジャムのように煮詰まった濃厚な果実味が口内に広がる。
彼女はワイングラスをテーブルに置き、まっすぐに任三郎を見た。
「システム部門が徹夜で最終調整をかけているけれど、明日のトラフィックは完全に未知の領域よ。何が起きてもおかしくない」
エレナの切れ長の瞳には、プロデューサーとしての強い覚悟と、隠しきれない緊張が混ざり合っていた。ストリーム・ノヴァをはじめとする海外プラットフォームからの監視の目。世界中のコミュニティからの膨大な流入。彼女の両肩には、一つの企業を背負う以上のとてつもない重圧がのしかかっているはずだった。彼女の指先が、テーブルの縁を無意識のうちに微かに叩いている。
任三郎はマグカップを置き、分厚いロックグラスにニッカのモルトをストレートで注いだ。
琥珀色の液体を口に含む。ピートの重い煙の香りと、アルコールの鋭い熱が食道を下っていく。胃の奥から確かな熱が広がり、こわばっていた肩甲骨の裏側の筋肉がわずかに緩むのを感じた。足元では、スコティッシュフォールドのスズが任三郎の足の甲に丸まり、静かな寝息を立てている。小さな命の規則的な鼓動が、薄いスウェットの生地越しに伝わってくる。
「……板の上のことは俺がやる。あんたたちは、裏を頼む」
低く掠れた声で短く返し、任三郎は残りのモルトを静かに飲み干した。余計な励ましも、大仰な約束もない。ただ、それぞれの持ち場を全うするという役者としての確かな誓いだけが、冷え切った四畳半に落ちた。
★★★★★★★★★★★
暗闇の中の静かな決起は、今、限界を突破するほどの巨大な熱狂となって目の前のモニターで弾け飛んでいる。
『――だから、今日は最後まで僕から目を離さないで』
ライブ中盤のMCパート。
任三郎の腹の底から押し出された息が、声帯の縁を微かに震わせ、ボイスチェンジャーを通して甘い声となってスタジオのスピーカーから響く。額から大粒の汗が絶え間なく湧き出し、肌に密着したスーツを重く湿らせ、目元のセンサーをかすめて顎へと滴り落ちていた。
だが、その直後だった。
「……ッ! メインの演算サーバー、温度アラートがレッドゾーン!」
インカムの向こう側で、藤本英子の鋭い叫びが飛んだ。普段の冷徹な彼女からは想像もつかない、切迫したトーン。キーボードを叩く凄まじい打鍵音が、マイク越しにノイズとして混じり込んでくる。
「冷却が追いついてない!」
「サブへ回して! 切り替えは!?」
エレナの怒号が間髪入れずに重なる。
「やってる! でも完全に切り替わるまで最短で40秒! その間、補正アルゴリズムとボイスフィルターの強度、落ちるよ!」
英子の悲痛な報告と同時に、任三郎の視界の端で、モニターの中のシリウスのシルエットがわずかにノイズを帯びてブレた。
機械による「補正」が剥がれ落ちた。
任三郎が息を吸うためにわずかに肩を動かした瞬間、アバターの上半身が、アイドルのそれとは程遠い、重く鈍重な揺れ方をした。189センチ、78キロの巨漢が持つ生々しい質量の移動。それが、一切のフィルターを通さずに二次元のポリゴンへと直結してしまう。
さらに、喉の奥から漏れた微かな吸気音が、いつもの甘く調整された音色ではなく、任三郎本来の低く掠れたノイズを含んで出力された。
コメントの流速が、一瞬だけ淀む。
数十万の視線が、画面の中の微かな違和感に気づきかけた。
任三郎は、足の裏全体で床の静電気防止マットを鷲掴みにするように踏み込んだ。
両足のスタンスを数ミリだけ広げ、膝と足首の関節を限界まで柔らかく曲げる。強靭な大腿部にすべての重力を乗せ、上半身の上下動を完全に殺した。関節への負荷が劇的に跳ね上がり、太ももの筋肉が焼け付くような熱を持つ。まるで重力そのものが倍増したかのような錯覚。しかし、画面の中のシリウスの歩みからは、任三郎の生々しい重さが完全に消え失せ、滑るような美しいステップだけが残された。
さらに自身の喉仏を限界まで押し上げ、腹式呼吸で横隔膜を深く沈め、肺の底から押し出した空気を口蓋垂の奥で共鳴させる。
「……ごめん。君たちの熱気が凄すぎて、少し酔ってしまったみたいだ」
意図的に呼吸のノイズを多めに混ぜ込み、語尾をかすれさせる。
ボイスチェンジャーの機能低下によって漏れ出した低い地声の成分と、切羽詰まった発声が重なり合い、スピーカーから出力される。
違和感を抱きかけたコメント欄は、直後に出力された声の生々しい響きによって、瞬く間に狂信的な悲鳴の束へと塗り替えられていった。
だが、危機は去っていない。
10秒、15秒と経過していく。システムからの復旧のアナウンスはまだない。
膝を曲げたままの異常な姿勢維持により、任三郎の足の筋肉は小刻みに痙攣を始め、浅い呼吸しか許されない状況下で肺の奥から徐々に酸素が奪われていく。視界の端が白く明滅し始めていた。額から顎へと伝い落ちる汗の量が限界を超え、目に入って鋭い痛みをもたらす。
それでも任三郎は表情筋一つ動かさず、カメラのレンズの奥に向けて、完璧な王子の微笑みの形を保ち続けていた。




