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第48話 俺が「魂」だ

 視界の端で、空間の輪郭が不規則にブレた。


 メインサーバーの冷却限界による処理落ち。それは、コンマ数秒のラグと、アバターのポリゴンに走る微細なブロックノイズとなって、壁一面を覆う巨大なモニター群に可視化された。赤と緑のRGB値がわずかにズレ、完璧なはずの仮想空間の境界線がノコギリの歯のようにギザギザに乱れ、ノイズの波紋が画面全体に不気味な脈動のように波及していく。

 同時に、任三郎の耳に深くねじ込まれたイヤーモニターから、普段なら「天ノ川シリウス」の甘く完璧な声へと変換されているはずの自身の声が、わずかに地声の掠れを伴って返ってきた。ボイスチェンジャーのフィルター強度が、システム保護のために強制的に引き下げられたのだ。


「補正率、60パーセントまで低下! モーションの平滑化アルゴリズム、一部停止!」


 インカム越しに、藤本英子の切迫した声が飛ぶ。普段の冷徹な彼女からは考えられないほどに上ずった、微かな焦燥を隠しきれない声だった。青軸のメカニカルキーボードを凄まじい速度で叩く硬質な打鍵音が、まるで悲鳴のようにマイクに混じり込んでいる。複数のモニターの光が彼女の顔を青白く照らし出し、赤く点滅する温度エラーのアラートが画面上に次々とポップアップしては、目にも留まらぬ速さで消されていく。


「サブへの完全移行まで、あと32秒……!」

「配信は止めない! そのまま繋いで!」


 エレナの怒号がコントロールルームの分厚いガラス越しに響き渡る。飛び交うスタッフたちの切羽詰まった声と、何十台もの大型排熱ユニットが立てる唸るような重低音が、スタジオの極度に乾燥した空気を限界まで圧迫していた。巨大な空調システムがフル稼働しているにもかかわらず、高負荷の機材群から吐き出される熱が室温をじわじわと押し上げている。焦げたような埃の匂いと、電子機器特有の微かなオゾンの匂いが混ざり合い、息をするだけで喉の粘膜がヒリヒリと乾くような不快感が漂い始めていた。


 だが、フロアの中央、黒いバミリのテープの上に立つ任三郎の意識は、背後のパニックとは完全に切り離された次元にあった。


 彼は焦ることも、動きを止めることもなかった。

 肌に密着する特注のモーションキャプチャースーツの下で、彼自身の生身の肉体は悲鳴を上げていた。コンマ数秒単位の緻密な身体制御を強いられ続けた肩甲骨や太ももの裏の筋肉は、潤滑油を完全に失った重機の歯車のように重く軋んでいる。少し肩を動かすだけで、筋繊維が細かく引きちぎられそうな強張りが走り、密閉された重いヘッドギアの下では、頭皮からとめどなく汗が湧き出していた。

 しかし、彼を縛り付けていた「アイドルとしての美しい補正」という名のデジタルの拘束衣が緩んだ瞬間。その重苦しい疲労の奥底から、小劇場の薄暗く埃っぽい舞台で長年飼い慣らしてきた、獰猛な役者のエゴが音を立てて鎌首をもたげた。


(……ちょうどいい)


 額から流れ落ちる汗が目元のセンサーを掠め、無精髭の生えた顎を伝ってスーツの首元へじっとりと吸い込まれていくのも構わず、任三郎は両足を肩幅よりわずかに広く開いた。

 足の裏のラバーを床にピタリと密着させ、足首、膝、そして太ももへと連なる筋肉の余分な緊張を解く。そのまま骨盤を深く沈め込み、上半身のブレを完全に殺した。アイドル特有の軽やかで計算された姿勢から、重力に従って空間の底にどっしりと根を張るような、無骨で圧倒的な重心の低さへ。


 モニターの中のシリウスのシルエットが、任三郎の骨格の生々しい動きに引っ張られるように、ガクンと不自然に沈み込んだ。再びブロックノイズが走り、一瞬、その計算し尽くされた美しい顔の輪郭が崩れる。


 任三郎はゆっくりと息を吸い込んだ。

 その瞬間、彼の脳裏に、数時間前、あの築40年のアパートを出る時の鮮明な記憶がフラッシュバックした。


 冷え切った玄関の土間で、くたびれたスニーカーの紐を結ぼうとしゃがみ込んだ時のことだ。

 灰色のスコティッシュフォールド、スズが、どこからともなく足元にすり寄ってきた。スズは特徴的な折れ曲がった耳をペタンと伏せ、任三郎のジーンズの裾に短い前足をかけて、立ち上がるようにして見上げてきた。アンバーの丸い瞳が、ただひたすらに一点の曇りもなく大男を射抜いていた。

 任三郎が少しだけ膝を落とし、その小さな頭に大きな手のひらを乗せた途端、スズの喉の奥から、小さなエンジンのような激しい振動音が鳴り始めた。


『ゴロゴロゴロゴロ……ッ!』


 スズは任三郎の手のひらに自身の頭を力一杯押し付け、そのまま器用に頭をこすりつけるようにして回転した。少しざらついた指先で耳の後ろを掻いてやると、気持ちよさそうに目を細め、短い前足で任三郎の太ももをふみふみと交互に押し始めた。


 全身から溢れ出るその純粋な欲求が、任三郎の荒れた手のひらに直接ぶつかってくる。柔らかな毛並みの奥にある、驚くほど真っ直ぐな生命の温もり。撫でる指の腹にわずかに伝わってくる、骨の華奢な感触と、早鐘のような小さな心臓の鼓動。ひどく冷え込んだ玄関の古い空気の中で、そこだけが異常なほどの熱を放っていた。


 任三郎はマイクとの距離をミリ単位で測りながら、腹直筋を引き締め、横隔膜を限界まで押し下げた。

 肺の底に溜まった熱い空気を、声帯の縁に強く擦り付けながら、重く、ゆっくりと押し出す。


「……息をするのも、忘れるくらいに」


 フィルターを通しきれなかった、任三郎の生々しい吐息。

 喉の奥がかすかに鳴る摩擦音。ひどく重く、燻っていた命そのものを燃やすような地声の響きが、シリウスの甘い声の輪郭を突き破って、全世界のスピーカーから放たれた。


 コントロールルームのエレナが、無意識に息を呑む音がインカムに拾われる。


 画面の右側を猛烈な速度で流れていた多言語のテキスト群が、一瞬にして凍りついたように停止した。

 数秒前まで弾幕のように視界を埋め尽くしていた無数の文字が、まるで最初から存在しなかったかのように完全に流れを止めている。特設スタジオを満たしていた何十台ものPCから漏れる微かな電子音すらも、その完全な静寂に飲み込まれていくようだった。壁一面の巨大モニターには、不気味なほどに静止した空白のコメント欄と、ノイズにまみれて輪郭をブレさせるシリウスの姿だけが青白く発光している。


 何万マイルも離れた地球の裏側から、日本国内の深夜のワンルームまで。数え切れないほどの人間が、それぞれのモニターの前で、突きつけられた声の質量に圧倒され、キーボードを叩く指を物理的に硬直させていた。


 任三郎は視線を落とし、伏し目がちにカメラを見据えた。

 額のセンサーが、彼の眉間に刻まれた深い皺と、瞬きを忘れた眼球の微細な揺れをそのままデータとして拾い上げる。首筋を伝って胸元へと流れ落ちた汗が、密着したスーツの化学繊維に黒い染みを作っている。引き絞られた筋肉の軋み、肺の底から押し出される荒い呼吸の震えが、ノイズの混じるポリゴンの輪郭を通して空間に広がっていく。


「……僕の奥まで、見てくれ」


 任三郎が右手をゆっくりと前に差し出す。

 空間を掴み取るように伸ばされた太い指の先が、微かに、しかし確かに震えていた。


『Oh my god』

『息が……』

『なんだこれ、震えが止まらない』

『シリウス……!』


 数秒の完全な空白を破り、コメント欄が再び爆発した。それは先ほどまでの歓声とは違う、恐怖すら入り混じった、本能的な熱狂の叫びだった。文字の群れが処理限界を超え、白濁した光の帯となって画面を猛烈に流れていく。何万、何十万という人間が、それぞれの場所で一斉にキーボードを叩き、あるいはスマートフォンの画面をタップする物理的な衝動が、光の帯となって押し寄せる。


「……サブサーバー、移行完了! 冷却システム再起動、補正フィルター、正常値に戻ります!」


 英子の報告が響いた直後、モニターの中のシリウスからノイズが消え去り、再び完璧な王子のシルエットが復活した。ブロックノイズは一掃され、乱れていたRGBのズレも綺麗に統合される。

 空白の40秒間。


 任三郎は額の汗を拭うこともせず、カメラのレンズを真っ直ぐに見据えたまま、さらに深い間合いへと踏み込んでいく。息を吸い込む彼の周囲の空気が、底なしの熱を帯びて渦を巻き始めていた。

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