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第46話 大規模3Dライブの開幕

 ブロンドの髪から漂う、海外特有の甘く重い香水の匂い。そして、遠慮なく首に巻きつけられたしなやかな腕の力。

 徹夜明けで思考が鈍った任三郎の脳に、その情報が処理されるまで数秒のタイムラグがあった。


「Unbelievable... You are so hot!(信じられない、あなた最高よ!)」


 胡座をかいた任三郎の分厚い胸板に頬を擦り付け、クロエ・ヴァン・アールトは興奮しきった高い声を上げた。甘く、どこか暴力的なフローラル系の香りが四畳半に充満し、先ほどまで部屋を支配していたいりこ出汁の匂いを一瞬で上書きしていく。足の間に挟まれていたスコティッシュフォールドの子猫が、突然の騒ぎに驚いて「にゃあっ」と短く鳴き、コタツ机の下へと逃げ込んだ。


 任三郎は左手に讃岐うどんのどんぶりを持ったまま、大きく息を吐き出した。そして、首に回されたクロエの細い腕を右手で掴み、乱暴にならない程度に引き剥がす。高身長の彼女がのしかかってくる物理的な重量感は、華奢な外見に反して驚くほど重かった。


「……悪いが、言葉がわからん。それと、狭い部屋で大声を出すな。近所迷惑だ」


 低く掠れた地声。言葉の意味は通じていないはずだが、骨伝導で響くようなその声の重さに反応したのか、クロエは一瞬ビクッと肩を震わせ、そしてさらに目を輝かせた。

 背後の折りたたみテーブルでは、キーボードに突っ伏していた藤本英子が跳ね起き、目を白黒させている。足元にはエナジードリンクの空き缶が散乱していた。その横で、エレナ・クルスは崩れかけたメイクも気にせず、ヒールを脱いだ足を揉みほぐしながら重い溜息をついた。


「平野さん……彼女はクロエよ。ストリーム・ノヴァのメガインフルエンサー」


 エレナの声は長時間のトラフィック監視によってひどく掠れていた。


「まさか、本人が日本のこんなボロアパートに直接突撃してくるなんて、どのデータからも予測不能だったわ」

「インフルエンサーだろうが何だろうが、人の家に土足で上がり込んでいい理由にはならん」


 任三郎は短く返し、どんぶりに視線を落とした。

 限界まで神経をすり減らした徹夜明けの身体が、強烈な塩分と炭水化物を要求している。彼はクロエの熱を帯びた視線を完全に無視し、箸でうどんを持ち上げ、ズズッと音を立てて豪快にすすり込んだ。いりこ出汁の強い旨味と、太い麺の弾力が空っぽの胃の腑に落ちていく。

 クロエは状況が読めずに首を傾げていたが、大男が狭いコタツ机に向かって不器用に太い麺をすする所作を、瞬きもせずにじっと見つめ始めた。彼女は任三郎の真横に胡座のまま擦り寄り、どんぶりから上がる強い出汁の湯気と、絶え間なく続く咀嚼音の一つ一つに、まるで未知の楽器の演奏でも聴くかのように耳を傾けている。


「……で、時間の見込みは」


 うどんを平らげ、冷水を一気に飲み干した任三郎が静かに口を開いた。


 エレナは手元のタブレットで時刻を確認する。疲労の底から、鋭いプロデューサーの顔へと切り替わっていた。


「本番は19時よ。ギャラクシー・ライブ最大のイベントになる」

「事前の待機ページだけで、同接がすでに30万を超えてる。本番が始まれば、100万は軽く突破するわ」


 英子が充血した目をこすりながら、青軸キーボードを叩いてモニターの数字を読み上げた。


 100万人の観客。

 パイプ椅子を並べたキャパ50人の小劇場でくすぶっていた役者が対峙するには、あまりにも非現実的で、途方もない数字だ。

 だが、任三郎は空になったどんぶりを机に置き、短く息を吐き出しただけだった。


「板の大きさが変わるだけだ」


 極めて平坦な声だった。気負いも、過剰な興奮もない。

 任三郎は立ち上がり、そのまま万年床へと倒れ込んだ。数時間後に控えた極限の稼働に向けて、肉体の電源を強制的に落とす。


 ★★★★★★★★★★★


 16時。

 木造アパートの薄い壁を抜け、遠くを走る電車の摩擦音が響いていた。

 数時間の泥のような眠りから覚めた任三郎は、洗面所の冷水で顔を洗い、狭い台所の前に立った。

 モーションキャプチャーの稼働は、普段の舞台稽古とは全く異なる疲労を肉体に刻み込む。首の付け根から肩甲骨の裏側にへばりついた鈍い痛みをやり過ごしながら、任三郎は深く息を吸い込んだ。これから向かうのは、ミリ単位の身体制御と異常な呼吸法を強いられる戦場だ。スタジオに入れば、水一滴すら自由に飲むことは許されない。細胞の隅々にまで長時間燃え続けるためのガソリンを叩き込んでおく必要があった。


 使い込まれた小さな焼き網をコンロに乗せ、太い生のタラコを置く。完全に火は通さず、表面の薄皮がチリチリと縮んで香ばしい匂いが立った瞬間に火から下ろした。

 冷蔵庫から、数日前に仕込んでおいた豚粗挽き肉の肉みそと、白菜の松前漬けのタッパーを取り出す。

 炊飯器を開けると、強い米の香りが四畳半に広がった。両手を冷水でサッと濡らし、粗塩をまぶす。茶碗によそった熱々の白米を手に取り、中心に肉みそをたっぷり詰めて、米粒を潰さない絶妙な力加減で三角形に結んでいく。立て続けに、表面だけ炙った半生の焼きタラコ、そして大粒の梅干しを丸ごと忍ばせたもの。無骨な手のひらから、大ぶりなお握りが次々と生み出されていく。


 小鉢には、昆布の強い粘りと柚子の香りが効いた白菜の松前漬けを盛る。

 椀にはアマノフーズの『エノキの赤出汁』を割り入れた。沸騰直後ではなく、ほんの少しだけ温度を落ち着かせた湯を注ぎ入れることで、八丁味噌の鋭い香りと鰹出汁の風味が爆発的に広がる。仕上げに粉山椒をほんのわずかに散らした。


 仮眠から起き出してきたエレナと英子、そして興味津々に覗き込んでいたクロエの前に、湯気を立てる食事が並べられた。

 無言のまま、それぞれがお握りにかぶりつく。

 熱々の白米の中から溶け出した肉みその濃厚な旨味が、徹夜明けの彼女たちの胃袋を力強く満たしていく。クロエは赤出汁を一口すすり、山椒の鮮烈な刺激に肩をわずかに震わせた。彼女は目を丸くして自身の親指についた米粒を見つめ、それを舐めとると、すぐに二口目へと食らいつく。無精髭の男が生み出した無骨な食事を前に、持ち前の陽気な英語すら発するのを忘れ、ひたすらに目の前の熱と塩分を飲み込み続けていた。


「行くぞ」


 最後のお握りを腹に流し込み、熱い茶で喉を潤した任三郎が、静かに立ち上がった。


★★★★★★★★★★★


 17時。

 都内近郊の地下に設営された、ギャラクシー・ライブの特設スタジオ。

 普段使用している部屋とは比べ物にならない広大な空間は、異様な緊張感に包まれていた。天井の暗がりには数え切れないほどの赤外線カメラが設置され、虫の目のように赤いランプを微かに点滅させている。

 フロアの隅には何十台もの排熱ユニットが絶え間なく稼働し、室内の空気を極限まで乾燥させていた。飛び交うスタッフたちの足音や、多言語が入り乱れるインカムの音声が、無機質な壁に反響し続けている。


 任三郎は、専用の更衣室で新しいモーションキャプチャースーツに腕を通していた。

 上野真が徹夜で仕上げてきた、新しいアバターのボーン設定に完全同期する特注品だ。各関節に配置されたマーカーの密度がこれまでの倍以上あり、スーツ自体の伸縮性が異常なほどに強い。着用するだけで肩甲骨が正しい位置に強制的に引き寄せられ、胸が大きく開かれる。

 任三郎は首を左右に倒して関節を鳴らした。肌に食い込むほどの極端な張力を持った特殊繊維が、彼の骨格の可動域を『天ノ川シリウス』のプロポーションへと物理的に補正していく。少し腕を上げるだけでも分厚いゴムの壁に逆らうような重い負荷がかかり、無意識の筋肉のブレすらも一切許容しない。


 スタジオの片隅に置かれた譜面台には、河野由希子が持ち込んだライブ用の分厚い台本が開かれていた。

 歌の合間のMC、コンマ数秒単位で指定された視線の動き、そして余白を埋め尽くす赤いインクの書き込み。生身の演者の生理的な限界を一切考慮せず、感情の揺れや呼吸の深さまでを秒数でプログラミングしようとするその赤い文字の群れは、元の黒い活字すら読み取るのが困難なほどにページ全体を激しく侵食していた。


 コントロールルームの分厚いガラス越しに、エレナが任三郎を見て深く頷いた。彼女の手元には、六本木のホテルからアマンダ・レインがリアルタイムで監視しているトラフィックデータが流れ込んでいるはずだ。


『同接、90万突破。……95万。間もなくミリオン到達』

『各リージョンのサーバー、負荷安定。映像のディレイ、規定値内クリア』


 インカムから流れる無機質な報告の声が、秒読みに入ったことを告げていた。

 任三郎は床に貼られた十字のバミリの上に立ち、ゆっくりと目を閉じた。


 周囲のノイズを意識の外へ追いやる。

 空調の気流音も、スタッフたちの足音も、耳の奥から遠ざけていく。

 へその下に重心を沈め、極度に乾燥した空気を鼻腔からゆっくりと引き入れる。横隔膜を深く押し下げ、肋骨の裏側から肺を限界まで膨らませる。四肢の末端から体温がスッと引き、代わりに心臓の鼓動だけがやけに鮮明に鼓膜を打ち始めた。

 無頓着な歩幅や、骨格の歪みといった『平野任三郎』の物理的なノイズを、強靭な背筋の力で内側から完全に封殺していく。極端な張力を持つスーツの締め付けに肉体を適応させ、自身の存在を、純粋なデジタルデータを生成するための完璧なインターフェースへと変質させていく。


『配信開始まで、5秒前。4、3、2……』


 目を開く。

 スタジオのメイン照明が落ち、バミリの上だけを強烈なスポットライトが照らし出した。

 静電気を帯びたような乾燥した空気の中、任三郎は足の裏全体でマットの沈み込みを感じ取りながら、静かに最初の一歩を踏み出した。

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