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第45話 クロエの来日

 PCモニターの向こう側で、地鳴りのような歓声が響いていた。


 スペインのスタジアムを埋め尽くす9万人の熱狂。世界最高のライバル関係にある2つのクラブが激突する「クラシコ」の、試合終了を告げる長いホイッスル。青と臙脂のユニフォームと、純白のユニフォームを着た選手たちが、芝生の上で崩れ落ち、あるいは抱き合っている。


 東京・八王子の築40年の木造アパート。四畳半の部屋には、地球の裏側の熱狂とは対極にある、底冷えのする晩秋の静寂が広がっていた。


 時刻は午前6時を回ったところだ。

 任三郎は、胡座をかいた脚の間に灰色の毛玉――スコティッシュフォールドのスズを挟み込んだまま、ブラウン管代わりの古いモニターを見つめていた。

 背後の折りたたみテーブルでは、徹夜でストリーム・ノヴァのグローバルトラフィック監視を行っていた藤本英子が、青軸キーボードの上に突っ伏して微かな寝息を立てている。その横では、エレナ・クルスが充血した目をこすりながら、タブレット端末で各リージョンからの最終レポートの数字を目で追っていた。


「……終わったな」


 任三郎は低く呟き、ゆっくりと瞬きをした。

 何時間もモニターのブルーライトを浴び続けた眼球は、裏側に細かい砂が入り込んだようにざらつき、重く熱を持っている。ここ数日の常軌を逸したバズに伴う過酷なモーションキャプチャー収録に加えて、今日の徹夜。長時間同じ姿勢を保っていたせいで、腰椎から背筋にかけての筋肉が分厚いゴムのように強張り、指先には微かな痺れすらあった。冷え切った胃の腑は完全に空っぽで、喉の奥には徹夜特有の奇妙な苦味がこびりついている。


 任三郎はスズをそっと畳に下ろし、重い腰を上げた。

 狭い台所へ向かい、使い込まれたアルミの雪平鍋をコンロに火にかける。


 まずは出汁だ。保存容器から取り出したいりこの頭を指先で捻り切り、黒い腹ワタを丁寧にえぐり出していく。無言で、ただ機械のように正確な手つきで下処理を終えたいりこと昆布を水に入れ、弱火にかける。

 じわじわと水温が上がり、鍋肌に小さな気泡がつき始めた絶妙なタイミングで、音もなく昆布を引き上げる。湯が沸騰する直前に鰹節をひとつかみ放り込み、火を止めてそれが静かに鍋底へ沈むのを待った。


 キッチンペーパーで濾した出汁は、照明を反射して透き通った美しい黄金色をしていた。薄口醤油、少量の塩、そしてみりんで味を調える。立ち上るいりこの力強い香りと鰹のふくよかな風味が、冷え切った四畳半の澱んだ空気をゆっくりと塗り替えていく。


 別の大きな鍋でたっぷりの湯を沸かし、乾麺の讃岐うどんをパラパラと投入する。

 麺が白い湯の中で踊っている間に、具材の準備にとりかかる。ボウルに入れた塩蔵ワカメを冷水でもみ洗いし、熱湯にさっとくぐらせる。茶色がかっていたワカメが、湯に触れた瞬間に鮮やかな深い緑色へと変色した。それを素早く横に用意した氷水に落とし、一口大に切る。

 次に、和歌山産の大粒の南高梅。蜂蜜漬けではない、昔ながらの塩気と酸味の強い梅干しだ。種を取り除き、包丁の刃で果肉を細かく叩いてねっとりとしたペースト状にする。


 茹で上がったうどんをザルにあげ、冷水で一気にぬめりを洗い流す。11月の水道水は指先が凍りつくような冷たさだが、任三郎は表情を変えずに両手で力強く麺を揉み洗った。

 冷やした麺を再び熱湯にくぐらせて温め直し、どんぶりへ移す。

 熱々の黄金色の出汁をたっぷりとかけ、鮮やかな緑のワカメと、真紅の叩き梅、そして小口切りにした青ネギを中央に高く盛る。


「……食うぞ」


 任三郎の声に、エレナが顔を上げ、英子がビクッと肩を震わせて目を覚ました。


 コタツ机の上に並べられた3つのどんぶりから、出汁の圧倒的な香りと、梅干しの鼻腔を突く爽やかな酸味が立ち上っている。

 英子は無言で箸を割り、スープを一口飲んだ。徹夜で神経をすり減らした内臓に、いりこ出汁の滋味深い旨味と、梅のクエン酸が直接染み渡っていく。彼女は小さく息を吐き、うどんを啜った。ワカメのキュッとした力強い歯ごたえが、疲弊した脳を心地よく刺激する。


 エレナもまた、無言で麺を口に運んでいた。タイトなスーツを着崩した敏腕プロデューサーの顔から、険しさが抜け落ち、ただどんぶりの熱気に顔を綻ばせている。


 任三郎が自分のどんぶりに箸を伸ばそうとした、その時だった。


 外の鉄階段を、信じられないほど軽いステップで駆け上がる足音が響いた。

 直後、立て付けの悪い玄関のドアが、ドンドン!と無遠慮に叩かれる。


 エレナと英子が同時に手を止め、顔を見合わせた。時刻は午前6時半。常識的な訪問者ではない。

 エレナが警戒しながら立ち上がり、ドアチェーンをかけたまま、数センチだけ隙間を開けた。


「Who are you?(誰ですか)」


 冷たく問い詰めたエレナの視界に飛び込んできたのは、晩秋の薄暗い空気を切り裂くような、輝くブロンドヘアと透き通るブルーの瞳だった。

 スポーティーなナイロンジャケットに身を包んだその人物は、ドアの隙間から満面の、そして一切の悪意を含まない太陽のような笑顔を向けた。


「Hi! Sirius is here, right?(やあ! シリウスはここよね?)」


 エレナの表情が強張った。

 ベルギーから世界中を熱狂させるメガインフルエンサー、クロエ・ヴァン・アールト。なぜ彼女が、日本の、それも八王子のボロアパートのドアの前に立っているのか。


 クロエはエレナの戸惑いなどお構いなしに、チェーンの隙間から無理やり手をねじ込み、強引にラッチを外してドアを押し開けた。


「ちょっと! 勝手に入らな――」


 エレナの制止をすり抜け、クロエは土足のまま上がろうとして直前でスニーカーを脱ぎ捨て、四畳半の部屋へと踏み込んだ。

 彼女のブルーの瞳が、部屋の奥でどんぶりを持ったまま固まっている大男を捉えた。


 ヨレヨレのスウェット姿に、手入れのされていない無精髭。徹夜明けの深い疲労が、目元に濃い影を作っている。


 英子が息を呑んだ。この野生のインフルエンサーに現実の姿を見られれば、すべてが終わるかもしれない。


 だが、クロエの反応は、彼女たちの想定を完全に裏切るものだった。


「Oh my god...」


 クロエは両手で口を覆い、瞳孔を開いて任三郎を凝視した。

 彼女の視線は、無精髭や着古したスウェットではなく、その下にある肉体の質量に吸い寄せられていた。

 分厚い胸板、広く強靭な背筋、そして、胡座をかいて座っているだけでも周囲の空間を圧迫するような、圧倒的に低く重い重心。


 クロエはゆっくりと任三郎に近づき、その大きな背中と肩のラインに熱を帯びた視線を這わせた。

 あの配信で見た、言葉の壁を越えて彼女の細胞を震わせた異常なまでの身体表現。それが、目の前にあるこの分厚い肉体の骨格と筋肉の連動から生み出されていたのだという確信が、彼女の直感を貫いた。


「Unbelievable... This physical, this weight... So sexy!!(信じられない……この肉体、この重さ……最高にセクシーじゃない!)」


 クロエは歓声を上げ、任三郎の首に勢いよく腕を回して抱きついた。

 柔らかなブロンドの髪が任三郎の顔にかかり、海外特有の甘く爽やかな香水の匂いが鼻腔を突く。クロエは任三郎の太い腕に触れ、その筋肉の張りを確かめるように何度も撫でた。


「I love your expression! It’s the real deal!(あなたの表現、最高よ! 本物だわ!)」


 エレナが、無言でクロエの背後に立ち、その肩を強く掴んだ。


「……気安く触らないでくれる? ここはプライベートな空間よ」


 英子がどんぶりを乱暴にテーブルに置き、立ち上がった。


「IP追跡して凸してくるなんて、どこの厄介ファンよ。通報されたくなければ、今すぐそのゴリラみたいな腕を離しなさい」


 その時、外階段を激しく駆け上がる別の足音が響き、開け放たれたままの玄関から、息を切らした上野真が飛び込んできた。

 肩で大きく息をする真は、任三郎に抱きつく金髪の美女を見て、数秒間完全に言葉を失った後、顔を真っ赤にして叫んだ。


「な……ちょっと、私の……私のシリウスのガワに、何発情してるのよ! 離れなさい!」


 四畳半の狭い空間で、三人の女たちの冷ややかな怒りと殺気が、クロエ一人に向けて真っ直ぐに放たれた。

 しかし、クロエは全く怯むことなく、むしろ挑発的に笑って任三郎の腕にさらに身を寄せた。


「What? I just found the best performer in the world!(何よ? 私は世界一のパフォーマーを見つけただけだわ!)」


 女たちの視線がバチバチと火花を散らし、ヒリヒリとした沈黙が部屋の空気を極限まで張り詰めさせる。


 その修羅場の中心で、任三郎は深く、ひどく面倒くさそうに息を吐いた。


 彼は自分に張り付くクロエの腕を、力任せに引き剥がすことはしなかった。ただ、極限まで落とした重心を1ミリも動かすことなく、手元にあるどんぶりを見つめた。


「……伸びる」


 低く、静かな声が落ちた。


「伸びる前に、食っていいか」


 任三郎は女たちの視線も、世界トップのインフルエンサーの熱狂も完全に無視して、箸でうどんを持ち上げた。

 ズズッという、無骨だがどこか心地よい咀嚼音が、張り詰めた四畳半に響く。

 出汁の香りと梅干しの酸味が、再び冷え切った部屋の空気を満たしていった。

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