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第43話 グローバル・バズの嵐

 ギャラクシー・ライブ地下の副調整室。

 分厚い防音扉によって外部のノイズから完全に遮断された、冷え切った密室。壁一面を覆う巨大なモニター群が放つ青白い光が、部屋にいる人間たちの顔に濃い影を落としている。ラックに収められたサーバー群の冷却ファンが発する低い唸りだけが、この無機質な空間の底を這うように響き続けていた。

 その光の波と電子音の中で、藤本英子が叩く青軸キーボードの硬質なタイピング音が、不規則に乱れたリズムで鳴り響いていた。普段の彼女の正確無比な打鍵とは明らかに違う、焦燥に駆られた不協和音。

 正面のメインモニターに表示されたトラフィック監視のグラフが、あり得ない角度で垂直に近い跳ね上がりを見せている。サーバーの負荷状況を示すインジケーターが、安全圏の緑から警戒の黄、そして危険領域の赤へと、数秒単位で変色していく。


「……エレナ。ストリーム・ノヴァだけじゃない。全リージョンのアクセスが急増してる」


 英子の声は低く、しかし隠しきれない切迫感を帯びていた。画面から目を離さず、さらに別のウィンドウを次々と展開していく。

 隣で別のコンソールを操作していたエレナが、顔を上げずに鋭く問い返す。


「どこからの流入? 日本の深夜よ。普段ならこの時間の同接は5万前後で落ち着くはず。それが……」

「分速で10万ずつ増えてる……BOTの攻撃じゃない。全部生きたアカウント。全体の約7割が海外IP。北米、ヨーロッパ、南米……トラフィックの起点を探る……」


 英子の指がさらに加速し、ターミナルウィンドウに緑色の文字列が猛烈な勢いで表示されては、瞬きする間もなく上へと押し流されていく。数秒後、彼女は短く息を呑み、モニターの端に固定された一つのURLを指差した。


「……嘘でしょ。ここ、ストリーム・ノヴァの……クロエ・ヴァン・アールトのアカウント……!」

「メガインフルエンサーの?」

「彼女、さっきまでシリウスと野口まつのコラボアーカイブを勝手にミラー配信してて……っ、そこから、数千万人のフォロワーが、一気にこっちの生枠に……!」


 ノイズの混じる英子の言葉が終わる前に、エレナの指先はインカムのチャンネルをシステム管理部へと切り替えていた。


「システム管理部! 第4、第5サーバーを今すぐ解放して。海外からのコメント流速はフィルターをかけずにそのまま流す。スパム判定の閾値も一時的に限界まで引き上げて」

『無茶です! 事前の申請なしでそんなトラフィックを受け入れたら、負荷が一点に集中してサーバーが焼き切れます!』

「落ちたらあなたのクビが飛ぶわよ。死ぬ気で持たせなさい」


 一切の猶予を与えない声で通信を切ると、エレナは即座に手元のスマートフォンを起動した。画面を凄まじい速度でスワイプし、あらかじめ作成してあった多言語対応のプレスリリースを海外メディア各社へ一斉送信する手配に入っていく。インカムの向こうでシステム担当者がサーバーの過負荷を警告する悲鳴に似た声を上げているが、彼女の長い爪は迷いなくガラス面を叩く正確なリズムを崩さなかった。


★★★★★★★★★★★


 防音ガラスの向こう側、薄暗いスタジオの中央。

 任三郎は黒いモーションキャプチャースーツに身を包み、床に貼られた十字のバミリの上に立っていた。頭部に装着されたヘッドギアの重みと、肌に密着する化学繊維の窮屈な感触が、これから始まる異常な稼働を予感させている。

 正面のモニターの右半分、普段は日本語のコメントが流れる領域が、全く見慣れないアルファベットの激流と化していた。


『Chloe sent me』

『What is this anime?』

『Just a 2D drawing?』

『boring』


 見慣れないアルファベットの羅列が、モニターの右半分を異常な密度で埋め尽くしている。単語として認識する前に次の行が下から激しく突き上げ、文字の輪郭は残像のように歪んでいた。画面全体がチカチカと不規則な明滅を繰り返し、スタジオの薄暗い空間に鋭いストロボのような光を断続的に投げかけている。個々の意味を読み取ることすら困難な中、インカムから、エレナの抑え込んだ声が届く。


『海外からのアクセスが異常増殖してる。でも、あなたは気にしなくていい。いつも通り、由希子の台本を板の上で生かしてちょうだい』


 任三郎は短く息を吐き、静かに目を閉じた。

 言語が通じない数百万の観客。言葉の意味など、画面の向こうには伝わらない。ならば、言葉の奥にある感情の振動を、肉体の軋みを通して直接ぶつけるしかない。

 任三郎は足幅をわずかに広げ、両の踵に均等に体重を乗せた。足の裏から伝わる床の硬さを確かめるように、足の指にゆっくりと力を込める。骨盤の角度をミリ単位で前傾させ、背骨の自然なS字カーブを固める。大腿四頭筋に静かな緊張を走らせることで、外部からのノイズを完全に遮断し、自身の肉体を強固な一本の軸へと変換していく。極限まで研ぎ澄まされたその静止状態は、弓の弦をギリギリまで引き絞ったような、不気味なほどの静寂をまとっていた。

 ゆっくりと目を開き、マイクとの距離を測る。

 喉の奥をわずかに開き、肺の底に溜まった冷たい空気を、歯の隙間から細く、長く押し出す。頭部を支える頸椎の角度を数ミリずらし、肩甲骨の間の筋肉をゆっくりと弛緩させる。肌に密着した化学繊維のスーツが、その微細な骨格の変化に合わせて低く軋んだ。

 そして、台本の最初の台詞を、言葉としてではなく、ひどく重く、哀愁を帯びた「音」として空間に落とした。


 任三郎が息を吸い込む微細なノイズ。右腕をゆっくりと持ち上げる際に見せる、肩から指先にかけての滑らかな連動。視線を5度落とし、0.5秒のタメを作った瞬間に生じる、空気が張り詰めるような独特の間合い。

 それらの肉体の生々しい情報が、完璧にモデリングされたアニメ絵の表面を内側から突き破り、デジタル空間の向こう側へと出力されていく。


 コメント欄のアルファベットの性質が、秒単位で変質していった。


『What?』

『Jesus...』

『Look at his movements』

『He is alive』


 任三郎は流れる文字を一切見ず、ただ由希子の台本が要求する感情の起伏を、自身の筋肉と骨格を通して出力し続けた。汗がヘッドギアの縁を伝い、目尻に染みても、瞬き一つしない。関節の奥で小さな悲鳴が上がるのを無視し、指定されたコンマ数秒の呼吸を忠実に繰り返す。

 スタジオの冷たい空気が、言葉を持たない数百万の視線の熱によって徐々に温められていくのを感じながら、彼はただ等間隔の呼吸だけを続けていた。


★★★★★★★★★★★


 深夜。

 狂乱の配信を終えた任三郎は、エレナの手配した渋谷の路地裏にある大衆焼き肉店にいた。


「海外からのオファー対応で、私はこの後すぐにオフィスに戻るわ。今日は好きなだけ食べなさい。経費で落とすから」


 エレナはそう言い残して、大量の肉の皿をテーブルに並べさせた後、スマートフォンを耳に当てながら足早に店を去っていった。

 残された任三郎の目の前には、赤々と熾る七輪の炭火と、皿に山のように盛られた分厚い肉。

 長時間のモーションキャプチャーによる極限の稼働は、肉体から凄まじい速度でカロリーと水分を奪い去っていた。肩甲骨の裏側は強張り、指先はわずかに痙攣している。細胞の隅々が、失われたエネルギーを強烈に欲し、鋭い警鐘を鳴らしていた。


 任三郎は無言でトングを握り、分厚く切られたハラミを網の中央に乗せた。

 肉の脂が真っ赤な炭に落ち、脂が跳ねて弾けるけたたましい音とともに、真っ白な煙が立ち上る。換気扇が唸りを上げて煙を吸い込むが、店内にはすでに強烈なニンニクと焦げた醤油ダレの匂いが充満していた。空腹の胃を直接鷲掴みにするような、強烈な匂い。

 肉の表面がカリッと焼け、中心にまだ赤い肉汁が残る絶妙なタイミングで、任三郎はハラミを引き上げる。それを、コチュジャンをたっぷりと溶かした濃い目のタレにくぐらせ、大盛りの白飯の上にワンバウンドさせた。

 そのまま肉と米を一緒に口の中へ放り込む。


 奥歯で噛み切ると、厚みのある肉の繊維がほどけ、内側に閉じ込められていた熱い肉汁がタレの濃い味とともにどっと溢れ出した。焦げた醤油とニンニクの風味が鼻を抜け、赤身特有の野性味のある鉄分の匂いが舌の上に広がる。熱々の白米がそのすべてを受け止め、混ざり合いながら喉の奥へと落ちていく。

 咀嚼し、飲み込む。

 食道を通り、空っぽだった胃の腑に熱い肉と白米が落ちる。強烈な塩気と脂が舌を麻痺させ、満腹中枢が刺激されるよりも早く、肉体が反射的に次の肉を求めた。

 間に自家製のキムチと冷えたもやしナムルを挟み、味覚をリセットする。そして再び、牛タン、ミノ、カルビと次々に網に乗せ、ただひたすらに焼いては食う。噛み切るたびに溢れる肉汁を、ジョッキに入った冷たいウーロン茶で一気に胃に流し込んだ。


★★★★★★★★★★★


 焼き肉店を出ると、深夜の冷たい風が脂っこくなった顔を撫でた。

 任三郎はアパートへ向かう帰り道、ふと歩みを止め、大通りから一本入った薄暗い地下への階段を見下ろした。

 小劇場でくすぶっていた20代の頃、わずかなギャラが入った時だけ立ち寄っていた古いバーだ。何ヶ月も稽古をして、客席が半分も埋まらなかった夜。打ち上げの金もなく、一人でこの店に来て、一番安い酒を一杯だけ飲んで帰った記憶が、ふと蘇る。


 階段のコンクリートのひび割れを避けながら下り、手垢のついた真鍮のドアノブを引く。重い木製のドアが開くと、微かなジャズのサックスの低音と、古い木材の匂いが漂ってきた。カウンターだけの狭い店内には、客は一人もいない。壁に並んだ琥珀色のボトルが、間接照明を受けて鈍く光っている。

 白髪のマスターは、任三郎の姿を見ても顔色一つ変えず、静かに水とおしぼりを出した。


「ダークラムを。ソーダ割りで」


 任三郎が短く注文すると、マスターは無言で頷き、背後の棚から黒いボトルを取り出した。

 厚みのあるロックグラスに、無骨な氷の塊が入れられる。ボトルから琥珀色の液体が注がれ、続いてよく冷えた強炭酸のソーダが静かに満たされる。最後に、カットされたライムが軽く絞られ、皮ごとグラスの中に落とされた。マドラーで一度だけ、底から持ち上げるようにステアされる。


 炭酸の泡が弾ける微かな音が、静かな店内に響く。グラスの底で氷が触れ合い、カランと鳴った。

 任三郎はグラスを持ち上げ、ゆっくりと一口飲んだ。

 サトウキビの深い甘みと、オーク樽のスモーキーな香りが、炭酸の鋭い刺激とともに喉の奥を滑り落ちていく。ライムの爽やかな酸味が、焼き肉の脂で重くなっていた口内をキリッと引き締めた。


「……美味いな」


 低く呟き、もう一口飲む。

 冷たいグラスの表面に浮かんだ水滴が、指先を濡らす。

 任三郎は薄暗い照明の下で、琥珀色の液体を静かに揺らした。

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