第42話 野生のメガインフルエンサー
外資系プラットフォームのエリートと敏腕プロデューサーの間で静かな火花が散った夜から一夜明け、古い木造アパートには底冷えのする晩秋の朝が訪れていた。
薄っぺらい壁の向こう側から、早朝のゴミ収集車の重いエンジン音と、カラスの甲高い鳴き声が聞こえてくる。結露で曇った窓ガラスの表面を水滴がゆっくりと滑り落ち、ささくれた畳の上には、薄暗く頼りない四角い光が落ちていた。暖房器具をつけていない室内は、吐く息がうっすらと白みを帯びるほどに冷え切っている。
任三郎は色褪せたスウェット姿で、安いコタツ机の前に胡座をかいていた。手元には、河野由希子から新たに送られてきた分厚い台本が開かれている。ページの余白という余白が、赤いインクの狂気的な指示で真っ黒に埋め尽くされているテキストだ。秒単位で指定された視線の動き、微細な喉の開き方、横隔膜の震え。生身の人間を極限までコントロールするその緻密な設計図を前に、脳の処理速度がひどく低下していくのを感じる。
昨夜、アマンダ・レインが提示した世界市場という途方もないスケールの話や巨額の契約金は、彼の脳内からすでに完全に締め出されていた。今の彼にとって最も重く、そして確実に対処すべき現実は、数日後に迫った次回配信の台本を自身の筋肉と神経にインストールし、寸分の狂いもなく出力することだけだ。
長時間の配信と収録が続いた代償は、単なる筋肉痛とは質の異なる深刻な消耗として肉体に刻み込まれていた。全身の神経が極度に張り詰めた状態から急激に弛緩したことで、指先の感覚がわずかに遅れて脳に届くような不気味なラグが生じている。息を深く吸い込もうとすると、横隔膜の奥で古いゴムが引き伸ばされるような鈍い抵抗感があった。頭蓋骨のすぐ内側で微弱な電流がショートし続けているような耳鳴りが止まず、視界の端が時折白く明滅する。
痛みを誤魔化すように太い首をゆっくりと回し、電気ケトルで沸かした湯をマグカップに注ぐ。インスタントコーヒーの粉を溶かし、立ち上る湯気と安っぽい焙煎の匂いを吸い込んだ。一口飲むと、苦味と熱が食道を下っていくのがわかるが、疲労の底に沈んだ肉体を覚醒させるには至らない。熱を逃がさないように両手でマグカップを包み込み、机に置こうとした時だった。
視界の下の方で、フローリングを擦る小さな音がした。
足首に、モフッとした柔らかな感触がぶつかる。見下ろすと、灰色の毛玉が短い前足をスウェットの裾に引っ掛け、よじ登ろうと必死に細い爪を立てていた。布越しに小さなチクチクとした刺激が伝わってくる。
「……飯なら、さっき食っただろう」
任三郎は視線を台本から外さずに、低く掠れた声で呟いた。
だが、灰色の毛玉は諦めなかった。おぼつかない足取りで任三郎の胡座のくぼみへとよじ登り、そのまま太ももを伝って、コタツ机の上へと大胆に侵攻を開始する。
コタツ机の縁に短い前足をかけ、懸垂のようにして器用に登り切る。机の上に並べられたペンや付箋には目もくれず、真っ直ぐに任三郎の広げた台本の中央へと向かった。
「おい」
任三郎が制止しようと手を伸ばすより早く、毛玉は最も赤い書き込みが密集している重要なト書きの上に陣取った。短い前足を体の下に綺麗に折りたたみ、喉の奥から「ゴロゴロ」と低いエンジン音を鳴らし始める。
丸く大きなアンバーの瞳が、任三郎の顔を真っ直ぐに見上げていた。台本の文字を完全に覆い隠すように丸まると、勝ち誇ったように尻尾をパタンと一度だけ振る。
任三郎は短く息を吐き出し、文字を隠している灰色の背中を、ゴツゴツとした手でそっと撫でた。
指先から伝わる、驚くほど柔らかく滑らかな感触。掌の下で休まず脈打つ、小さな鼓動。撫でられるたびに、毛玉は目を細め、頭を任三郎の掌に力強く押し付けてくる。
張り詰めていた任三郎の肩の力が、少しだけ抜けていく。
「そういえば」
任三郎はあごの下を指の腹で掻きながら、ふと呟いた。
「お前の名前、まだ決めていなかったな」
両手を脇に入れ、自分の目の高さまでゆっくりと持ち上げる。空中にぶら下げられた毛玉は、短い足の肉球をパーに開いたまま、キョトンとした顔で大男の無精髭を見つめ返している。
銀色、というほど輝かしい毛並みではない。少し煤けたような、落ち着いた鈍色の灰色。
任三郎の頭に浮かぶのは、小劇場のセットの裏側に転がっているような、無骨で飾り気のない単語ばかりだった。
やがて、彼は背中の滑らかなグラデーションを見て、一つの金属の名前を思い浮かべた。
「スズ、だ」
古くから酒器などに使われる、柔らかく、わずかにくすんだ銀色の金属。派手さはないが、手によく馴染み、温もりを長く保つ。華やかなスポットライトとは無縁の場所で生きてきた自分たちの生活には、よく似合う色だった。
「今日から、お前の名前はスズだ」
任三郎が低い声でそう呼ぶと、まるで自分の名前を理解したかのように、「みゃあ!」と高く応えた。
任三郎の口角が、ほんのわずかに持ち上がる。
彼はスズを膝の上のくぼみに下ろし、再び台本へと視線を戻した。今度はスズも大人しく丸まり、大男の体温に包まれながら静かな寝息を立て始めた。
★★★★★★★★★★★
日本から遠く離れたヨーロッパ。ベルギーの首都、ブリュッセル。
時刻は午後8時を回ったところだった。
全面ガラス張りの窓の向こうには、歴史的な石造りの街並みと中世の教会の尖塔が、オレンジ色の街灯に照らされて広がっている。だが、室内は外の静謐な景色とは完全に断絶していた。
モダンなペントハウスの最上階では、大音量のEDMが重低音を響かせている。広大なリビングルームは、プロの放送局とクラブを融合させたような空間だった。天井を這うRGBライトが音楽に合わせて明滅し、壁一面の巨大な湾曲モニターには、FPSゲームのプレイ画面と、世界各国の言語が入り乱れるコメント欄が凄まじい速度で流れている。
その空間の中心で、高価なゲーミングチェアに深く腰掛け、両手を高く突き上げて大声で笑っている少女がいた。
クロエ・ヴァン・アールト、18歳。
輝くようなブロンドのロングヘアを無造作にポニーテールにまとめ、自国のサッカーチームの赤いユニフォームを着こなしている。程よく日焼けした健康的な肌と、透き通るようなブルーの瞳。彼女がカメラに向かって満面の笑みを向けるだけで、画面の向こう側にいる数千万人の視聴者の心拍数が跳ね上がる。
画面内では、彼女の操るキャラクターが市街地マップを縦横無尽に駆け回っていた。手首のスナップだけでマウスを弾き、スナイパーライフルで次々と正確なフリックショットを決めていく。彼女の反射神経と動体視力は、プロのeスポーツ選手にも引けを取らない。
「オーケー、みんな! 今夜のキル数はこれでトップよ! 私のエイム、最高だったでしょ!」
クロエがヘッドセットのマイクに向かって叫ぶと、英語、フランス語、スペイン語、アラビア語など、あらゆる言語の歓声と絵文字がコメント欄を埋め尽くした。
エナジードリンクの缶を開け、息つく間もなく喉に流し込んだ時。コメント欄の言語の波の中に、特定の単語が異常な頻度で混じり始めていることにクロエは気づいた。
『Chloe, you have to watch this! (クロエ、これ見なよ!)』
『The Japanese VTuber is crazy. (日本のVTuberがヤバい)』
『StreamNova's algorithm is broken because of him. (彼の影響でストリーム・ノヴァのアルゴリズムが壊れてる)』
次々と投げつけられるURLのリンク。
クロエは形の良い眉をひそめ、不満げに唇を尖らせた。
「ジャパニーズ・VTuber? なあんだ、2Dのアニメ絵でしょ? 私はリアルな人間の汗とか、フィジカルな動きの方が好きなのよね」
彼女は画面の向こうの作られたガワには興味を持っていなかった。現実の肉体が放つ熱量と躍動こそがエンターテインメントの真髄だと信じている。
「でも、みんながそこまで言うなら、ちょっとだけ見てあげる」
クロエはマウスを大きく振り、コメント欄に貼られていたリンクの一つをクリックした。
別ウィンドウが開き、動画の再生が始まる。
それは、数日前に日本のプラットフォームで行われた、「天ノ川シリウス」と女優・野口まつとのコラボ配信のアーカイブ映像だった。
画面に映し出されたのは、金髪で白い軍服を着た美青年の3Dモデル。
クロエはつまらなそうに頬杖をつき、別のゲームを立ち上げようと視線を外しかけた。
だが、次の瞬間。
動画の音声から、深く、重い吸気音が響いた。
そして、画面の中のキャラクターが、わずかに重心を落とし、視線を横へ流した。
「……Wait (待って)」
クロエの口から、無意識のうちに呟きが漏れていた。頬杖をついていた右手が滑り落ち、マウスを握ろうとしていた左手が空中でピタリと止まる。
言語の壁があるため、彼らが日本語で何を話しているのか、クロエには1ミリも理解できない。
しかし、彼女の視線は、モニターの中のキャラクターに強引に縫い付けられていた。
コンマ数秒の間合い。腹部が深く沈み込むような呼吸のリズム。床の摩擦を足の裏全体で感じ取っているかのような、重たい体重移動。
相手の挑発的な台詞を受け止める瞬間、シリウスのアバターの肩がごくわずかに沈み込んだ。ただのアイドル的な身振りではない。質量を持った物体が重力に引かれ、次の瞬間にバネのように跳ね返すための、物理的なタメだ。
動画の中で、シリウスがゆっくりと瞬きをする。
マイクが拾った微かな衣擦れの音が、静寂の隙間を埋めるように響く。
クロエは、自分の呼吸が止まっていることに気づいた。
透き通るような青い瞳孔が、限界まで見開かれている。彼女は無言のまま画面に顔を近づけ、モニターの表面を食い入るように見つめた。
EDMの重低音も、流れるコメント欄も、今の彼女の意識には全く入ってこない。ただ、アバターの肩の沈み込み、視線の流し方、画面越しに伝わってくるその異様な筋肉の連動だけが、彼女の感覚を完全に支配していた。
「……Oh, my god. (オーマイガッ)」
クロエはヘッドセットを乱暴に外し、ゲーミングチェアから跳ね起きた。
「なによこれ! ねえ、みんな見てる!? このジャパニーズ・VTuber!」
彼女はモニターを指差し、マイクに向かって叫んだ。
「動きが、なんか……ヤバい!」
興奮のあまり、デスクを両手でバンバンと叩く。
「ねえ、これ本当にただのアニメ!? 中に本物の人間が入って、汗だくで動いてるみたい! クレイジーよ、最高にクール!」
クロエは息を荒くしたまま机の上のスマートフォンを引っ掴み、凄まじい速度でタップし始めた。航空会社のアプリを立ち上げ、ブリュッセル発東京行きの直行便のチケットを躊躇いなくカートに放り込む。
「決めた! 私、日本に行く!」
数千万人のフォロワーが見守る配信の真っ只中で、彼女は最高にハッピーな笑顔を浮かべ、カメラに向かってウインクをした。
「みんな、来週の配信はトーキョーからよ!」




