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第41話 言語の壁

「……信じられない。なぜ私が、東京のこんな場所に足を運ばなければならないの」


 アマンダ・レインは、仕立ての良いチャコールグレーのジャケットの袖口をわずかに引き上げ、四畳半の古い畳の上に敷かれた薄い座布団に浅く腰を下ろした。視線を巡らせるたびに、彼女の形の良い眉が微かに寄る。

 壁紙に染み付いた古いタバコの匂いと、天井の円形蛍光灯が発するジーという微かな羽音。外資系動画配信プラットフォーム「ストリーム・ノヴァ」のアジア統括ディレクターとして、彼女が日常的に身を置く無機質で洗練された高層オフィスの空間とは、あらゆるレイヤーで対極にある場所だった。

 目の前には、天板の縁が剥げかけた安いコタツ机。足元では、灰色のスコティッシュフォールドの子猫が、彼女の高級な革パンプスのつま先に短い尻尾を巻き付け、無防備な寝息を立てている。猫の柔らかな体温が革越しに伝わってくることにすら、アマンダはどこか居心地の悪さを感じていた。


 エレナ・クルスは向かい側に座り、無言のまま手元のスマートフォンの画面をタップしていた。複数立ち上げたメッセンジャーアプリとブラウザを頻繁に行き来し、次々と送られてくる各リージョンからのトラフィック数値を処理している。長い爪がガラス面を叩くカチカチという硬質な音が、静かな部屋に等間隔で響いていた。


「諦めてちょうだい。ストリーム・ノヴァのシステム内にハッキングの痕跡が見られない以上、社内のどこで誰が情報を抜いているか分からない。機密性の高い話をするには、どこかのVIPルームよりも、デジタルな監視の目が行き届かないこの完全にアナログな空間が一番安全だわ」


 アマンダの視線の先、狭い台所では、任三郎が無言でコンロの火と格闘していた。大柄な彼が立つと、ただでさえ狭い台所の天井が不自然に低く感じられる。換気扇は重苦しい唸り声を上げているが、立ち上る油とスパイスの香りを完全には吸い出しきれていない。


「……で。世界市場の初速は、どうだった」


 任三郎は背中を向けたまま、低い声で問うた。手元の包丁は、まな板の上で小気味良いリズムを刻み続けている。舞台上での重心移動を思わせる無駄のない動きで、彼は振り返ることもなく会話に参加していた。


 アマンダは表情を引き締め、手元のタブレットをコタツ机の中央へ滑らせた。

 画面には、青と赤のラインチャートが交差する複雑なアナリティクスのグラフが表示されている。


「結論から言うと、想定を下回っているわ。北米、および欧州リージョンでの離脱率を示すこの赤いラインを見て。配信開始から20分を境に、見事なまでに急降下している」


 任三郎は手を止めず、紫玉ねぎを極薄くスライスし、張っておいた氷水の中に放った。チリッと澄んだ音が鳴り、瞬時に辛味が抜け、鮮やかな紫色が水の中で広がる。くし切りにした冷えたトマトと、手でちぎったみずみずしいレタスをボウルに合わせ、水気を固く絞った紫玉ねぎを乗せる。オリーブオイル、岩塩、レモン汁だけを回しかけ、ガラスの器に移した。彩りのコントラストが、殺風景な台所に一瞬の鮮やかさを生む。


「離脱の原因は?」


 任三郎が短く促す。


「言語の壁よ」


 アマンダが冷徹な声で告げる。


「アナリティクスの感情分析パラメーターは、序盤こそ異常なほどの高い数値を記録していた。でも、言葉のコンテキストが追いつかない」

「リアルタイムの字幕翻訳は入れているはずよね?」エレナがスマホから顔を上げる。

「ええ。最新のAIモデルを組み込んであるわ。精度は極めて高い。でも、彼の芝居は言葉そのものの意味よりも、その裏側にある微細な『間』や『呼吸』、あるいは喉の奥の軋みのようなものに依存しすぎている。英語の字幕が表示されるまでのコンマ数秒のラグが、海外の視聴者にはひどく居心地の悪いノイズとして受け取られているのよ」


 任三郎は小鍋で湯を沸かしながら、隣のまな板でレンコン、牛蒡、人参を手早く千切りにしていく。沸騰した湯に根菜を一気に放り込み、十数秒で引き上げて冷水で締める。固く絞った根菜を、すり鉢で軽く当たった白ゴマ、マヨネーズ、ごく少量の薄口醤油と和え、小鉢に小高く盛り付けた。


「つまり、言葉の意味がリアルタイムで伝わらない連中にとって、俺の芝居はただ重苦しく間延びしているだけに見えるってことか」

「そういうこと。視覚と聴覚、そして意味のズレ。非日本語圏のユーザーはそれに耐えきれずにブラウザを閉じている」


 任三郎は無言のまま、使い込まれた鉄のフライパンを強火にかけた。白煙が上がったところに、ごま油を引き、豚の挽肉を投入する。脂が弾ける激しい音が四畳半に響き渡った。刻んだニンニクと生姜で香りを立たせ、豆板醤、甜麺醤、そして醤油をボトルの口から直接回し入れる。強烈な火力で水分を飛ばしながら一気に炒め上げ、スパイスの香ばしさと肉の脂を極限まで凝縮させる。火から下ろして粗熱を取り、冷水でパリッとさせたレタスの上に、味の濃い挽肉炒めをこんもりと盛り付けた。


「……じゃあ、どうするの」


 エレナがタブレットのグラフを睨む。


「字幕の表示速度の限界なら、システム側じゃどうしようもないわ」

「それか、あなた自身が英語で芝居をするか、ね」


 アマンダが任三郎の広い背中を見る。


「でも、ネイティブの言語感覚がなければ、あのアドリブはこなせないでしょう」


 任三郎は冷蔵庫からマグロの赤身のサクを取り出し、一口大のぶつ切りにする。小鉢に盛り、すりおろしたばかりの粘りの強い長芋をたっぷりとかけ、青のりを散らした。さらに、タッパーから自家製の漬け物を取り出す。塩揉みした白菜に、昆布とスルメが濃厚に絡みついた白菜松前漬けだ。

 最後に、コンロの奥で茹でていた少量の蕎麦をザルに上げる。鍋に残ったとろみのある熱々の蕎麦湯に白だしと少量の塩を加え、生のワカメとモズクを落として火を止めた。


「できたぞ」


 任三郎が振り返り、コタツ机の上に次々と皿を並べていく。

 トマトと紫玉ねぎの洋風サラダ。根菜の和風サラダ。レタスに乗った甘辛い挽肉炒め。マグロの山かけ。白菜松前漬け。そして、蕎麦湯ベースのワカメとモズクの吸い物。

 狭い机の上が、色鮮やかな皿で埋め尽くされた。


 アマンダは机の上の光景を見て、戸惑ったように視線を泳がせた。


「……これは、何?」

「俺の晩飯だ。ついでに二人分も作った。食わないなら下げるぞ」

「いただくわ」


 エレナは慣れた様子で割り箸を割り、マグロの山かけに醤油をひと回しした。


「アマンダ、冷めないうちに食べたほうがいいわよ。この男、芝居と料理だけは異常に手際がいいから」


 アマンダは半信半疑で割り箸を手に取り、まずは洋風サラダのトマトと紫玉ねぎを口に運んだ。

 シャキシャキとした紫玉ねぎの食感と、トマトの酸味を引き立てる絶妙な塩加減。次に、レタスに乗った挽肉炒めを一口。スパイスの複雑な香りと肉の旨味が、みずみずしいレタスで中和され、強烈に食欲を刺激する。

 アマンダは無言で次の箸を伸ばした。椀の縁に口をつけ、白濁した蕎麦湯ベースの吸い物をすする。鰹や昆布の出汁とは異なる、穀物特有の優しく甘い香りと、モズクの微かな磯の匂いが鼻腔へ抜け、強張っていた表情筋が自然と緩むのを感じた。


 狭い部屋にはしばらくの間、箸と皿が触れる音と、咀嚼音だけが響いた。

 外資のエリートと敏腕プロデューサー、そして無精髭の役者は、一切の会話を交えることなく、ただひたすらに目の前の皿を空にしていった。


 食事が一段落し、任三郎が急須で深蒸しの日本茶を淹れた。

 湯呑みから立ち上る濃い緑色の香りが、鼻腔に抜ける。

 アマンダはナプキンで口元を拭い、息を吐いた。それから、傍らに置いていたアイボリー色のレトロなデザインの箱を机の中央に引き寄せた。


「……デザートの提供を。秘書に買わせたの」


 箱を開けると、綺麗にデコレーションされた長方形のケーキが現れた。トップスのチョコレートケーキだ。

 任三郎が包丁を湯で温め、クリームを崩さないよう綺麗に三等分に切り分ける。スポンジの間に砕かれたクルミがたっぷりと挟み込まれ、表面は波打つように滑らかで濃厚なチョコレートクリームで覆われている。フォークで口に運ぶと、クリームの強い甘味とカカオの風味、そしてクルミの香ばしい食感が広がる。そこに少し渋めに淹れた日本茶を流し込む。


「それで」


 任三郎は湯呑みを置き、アマンダを真っ直ぐに見据えた。


「言葉の壁についてだが」

「ええ。アルゴリズムの調整で露出は増やせるけれど、定着させるには表現の方向性を変える必要があるわ。身振り手振りを大きくして、言語に頼らない記号的なリアクションを増やして」


 任三郎は短く鼻を鳴らした。


「断る」

「……どういうこと?」

「俺は役者だ。客に言葉が通じないからって、安易な身振りで媚びて、芝居の芯を薄めるような真似はしない」


 アマンダのダークアイズが険しく細められる。


「あなたのそのプライドが、数百億の市場を捨てることになるのよ。翻訳のラグがある以上、あなたの繊細な間合いは向こうの客には絶対に伝わらない」


 任三郎はコタツに肘をつき、分厚い両手を組んだ。


「……遅れてもいい」


 低い声が、四畳半の空気を重く震わせた。


「言葉の意味なんざ、後からついてくればいい。俺が息を吸い、喉を鳴らし、画面の向こうへ叩きつける『熱』は、コンマ1秒の遅れもなく客の鼓膜を殴っている。……客がその重さに戸惑っているなら、慣れるまで叩き込み続けるだけだ」


 エレナが、小さく笑い声を漏らした。

 アマンダは呆れたように首を振ったが、任三郎を見据えるその口角は微かに上がっていた。


「……正気の沙汰じゃないわ。データに逆らうなんて」


 アマンダは残っていたチョコレートケーキにフォークを突き刺した。カチャリと、陶器の皿に金属が触れる硬質な音が、静かな部屋に響いた。

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