第40話 世界への扉
六本木の外資系高級ホテル、最上階のプレジデンシャル・スイート。
分厚い遮光カーテンによって東京の煌びやかな夜景を完全に遮断した広大なリビングは、今や冷え切ったデータセンターのような異質な空間へと変貌していた。
臨時で運び込まれた無骨な巨大サーバーラックが低い唸りを上げ、幾つもの湾曲モニターが放つ青白い光が、室内に無機質な影を落としている。数名のデータアナリストたちが無言でキーボードを叩く乾いたタイピング音だけが、厚い絨毯に吸い込まれていく。
アマンダ・レインは、モニターの放つ光を正面から浴びながら、指先でコンソールの縁を規則的に叩いていた。普段の隙のない立ち姿とは異なり、モニター越しの獲物に狙いを定める猟犬のように深く身を乗り出している。
画面を占拠しているのは、数日前にギャラクシー・ライブで行われた「天ノ川シリウス」と「野口まつ」によるコラボ配信のトラフィックデータだ。同接数の推移、コメントの流速、各リージョンからのアクセス比率。それらの数値が、彼女の知るプラットフォームの常識を根底から覆す挙動を示し続けている。
「……あり得ないわ。アナリティクスを何度再起動させても、同じ異常値が弾き出される」
アマンダは形の良い唇を微かに歪め、背後に立つエレナ・クルスへ視線を向けた。
「日本のドメスティックなトップ女優との共演よ。本来なら、日本の国内市場のみで完結するはずのトラフィックだわ。それが、配信開始からわずか数分で、アジア圏はおろか、北米、ヨーロッパのサーバーまで巻き込んで急激なスパイクを描いている。それも、一時的なバズじゃない。異常なまでの視聴定着率よ」
「言葉の壁を越えた、ということ?」
エレナが静かに問うと、アマンダは忌々しげに首を振った。
「うちのリアルタイム翻訳アルゴリズムの処理速度すら置き去りにしているの。深夜帯の北米西海岸、早朝のヨーロッパ。時差も文化も異なる地域のユーザーたちは、彼らが交わしている日本語の緻密な意味合いなんて、半分も理解できていないはずよ。それなのに、視聴継続率はほぼ100パーセント。誰もこのセッションから離脱しようとしないの」
アマンダは手元のタブレットを操作し、グラフの上に実際の配信映像を小さなウィンドウで重ねて表示した。
画面の中では、シリウスのアバターがゆっくりと片膝をつき、深い沈黙を落としている。ただそれだけの動作。
「言葉の意味ではなく……呼吸のラグ、視線の微細な揺れ、画面越しに伝わる圧倒的な圧迫感だけで、言語や文化の壁を物理的に突破している。彼という存在そのものが、データ分析の常識を破壊するバグだわ」
そう言いながらも、アマンダの瞳の奥には、未知のエネルギーの鉱脈を見つけたような昏い熱が宿っていた。
エレナは小さく息を吐き、アマンダが用意した重厚な革張りのバインダーを開いた。そこには、ストリーム・ノヴァとギャラクシー・ライブの包括的な業務提携――実質的な「天ノ川シリウス」のグローバル独占配信契約書が挟まれている。
「彼をバグと呼ばないで。それは、圧倒的な質量の『本物』よ」
エレナは備え付けの万年筆を手に取り、迷いなく自身のサインを書き入れた。
「これで合意よ、アマンダ。彼を、世界へ繋ぎなさい」
「賢明な判断よ、エレナ」
アマンダは口角を上げ、サインされた契約書を引き寄せた。
「ストリーム・ノヴァのグローバル回線と、現在開発中のフルダイブVR技術の優先パスポートを彼に付与する。彼のその重苦しい生身のノイズを、コンマ1秒の遅延もなく世界中のデバイスへ叩きつける、最高のインフラを約束するわ」
★★★★★★★★★★★
築40年の木造アパートに、底冷えのする秋の風が吹き込んでいた。
立て付けの悪いアルミサッシがガタガタと鳴る四畳半の部屋で、任三郎は色褪せたTシャツ姿のまま、ささくれた畳の上に仰向けに倒れ込んでいた。
あのコラボ配信から数日が経過しても、任三郎の肉体は自身の重力をうまく処理しきれていなかった。
深い呼吸をしようとするたびに、横隔膜の裏側が固く引きつるような違和感がある。手足を動かせば、見えない糸で骨格を縛り上げられているかのような鈍い抵抗感が全身の関節から返ってきた。脱ぎ捨てたはずのモーションキャプチャースーツの密着感が、幻肢痛のように皮膚の表面にこびりついている。
体温調節もうまくいかず、肌寒い部屋の中にいるというのに、首筋や背中には微かな熱がこもったままだった。脳髄の奥で警鐘が鳴り続けているような、得体の知れない消耗。
「みゃあ」
胸の上で、灰色の小さな毛玉が短く鳴いた。
スコティッシュフォールドの子猫が、任三郎の分厚い大胸筋をベッド代わりにして丸まり、前足で器用に顔を洗っている。
任三郎は鉛のように重い右腕を持ち上げ、子猫の耳の後ろを太い指でゆっくりと撫でた。喉の奥からゴロゴロという低い振動が手のひらを伝わってくる。冷え切った部屋の中で、その混じり気のない柔らかな温もりと鼓動だけが、現在の彼を現実に繋ぎ止める確かな重さを持っていた。
枕元に放り出されていた、画面の割れたスマートフォンの液晶が唐突に明るく点灯した。
短い振動音。画面を見ると、野口まつからのメッセージ通知が表示されている。
『20時。神楽坂の「割烹・柳」。遅れたら殺す』
相変わらずの、有無を言わさぬ傲慢なテキスト。
任三郎は太い息を吐き出し、子猫をそっと畳に下ろして身を起こした。首を回すと、頸椎の奥で乾いた音が鳴る。
断る選択肢がないことは分かっている。かつて同じ小劇場で泥をすすった彼女が、わざわざ直接顔を合わせる場を設けたのだ。
パイプハンガーに掛かったヨレヨレのミリタリージャケットに手を伸ばしかけたが、ふと動きを止めた。相手は国民的トップ女優であり、指定されたのは神楽坂の店だ。さすがにこの風体では入り口で弾かれるか、まつに余計な手間をかけさせることになる。
任三郎は舌打ちをし、ハンガーの端に掛かっていた黒のタートルネックニットと、細身のダークスラックスを引き抜いた。以前、上野真が「ガワの土台」として強引に見立ててくれたものだ。
★★★★★★★★★★★
神楽坂の石畳が続く細い路地の奥。看板すら出していない、古い一軒家を改装した隠れ家的な割烹料理店。
任三郎が重い引き戸を開けると、白木のカウンター席の奥に、すでに野口まつの姿があった。
上質な黒のレザージャケットに、タイトなデニム。装飾を極限まで削ぎ落とした洗練されたカジュアルが、彼女の圧倒的な「華」を逆に際立たせている。周囲に他の客の姿はなく、貸し切りにしているようだった。
任三郎が無言で隣の席に腰を下ろすと、まつはグラスの白ワインを傾けながら、彼を上から下まで値踏みするように見た。
「……少しはマシな服を持っているじゃない。無精髭は相変わらずだけど」
「これしかないからな」
任三郎が短く返すと、厨房の奥から大将が静かに料理を運び出してきた。
まずは先付として出された、車海老と無花果の胡麻クリーム和え。上品な甘さと酸味が胃袋を優しく刺激し、強烈な空腹感を呼び覚ます。
続いて目の前に置かれたのは、分厚い黒毛和牛のヒレ肉の炭火焼きだった。
表面は備長炭の強火で香ばしく焼き上げられ、微かに焦げた醤油と大蒜の匂いが鼻腔をくすぐる。中心部分は美しいルビー色のレアに保たれており、切り口からは澄んだ肉汁がじわりと滲み出していた。添えられているのは、おろしたての本山葵と、粗塩だけだ。
「いただきます」
任三郎は箸を割り、分厚い肉の塊を一切れ持ち上げた。少量の塩と山葵を乗せ、そのまま口に放り込む。
咀嚼した瞬間、香ばしい表面の歯ごたえとともに、赤身肉の強烈な旨味とサラリとした脂の甘みが口いっぱいに弾けた。山葵の爽やかな辛味が、肉の重さを綺麗に拭い去っていく。
枯渇しきっていた肉体が、純粋なタンパク質とカロリーを歓喜とともに吸収していくのが分かった。
まつは、任三郎の無骨だがどこか真剣な食事の所作を横目で見ながら、静かに口を開いた。
「先日の配信。……私の負けよ」
国民的トップ女優の口からあっさりとこぼれた敗北宣言に、任三郎は肉を飲み込み、お茶の入った湯呑みを手に取った。
「俺も、お前の間合いに殺されかけたがな。息を吸うタイミングすら見失うところだった」
「それでも、あなたは一歩も引かなかった」
まつはカウンターに肘をつき、任三郎の横顔を見つめた。
「あんな綺麗なアニメ絵の向こうから、埃っぽい小劇場の匂いがしたわ。……本当に、忌々しいくらいにね」
彼女は自嘲するように小さく笑い、赤ワインのグラスを指先で回した。
「悔しいわ。デジタルのフィルター越しに、ここまで押し返されるなんて。……でも、ひどく興奮した。あんなに息が詰まりそうになる応酬、小劇場時代以来よ」
任三郎は何も答えず、二切れ目の肉に箸を伸ばした。
沈黙が落ちる中、備長炭がパチッと爆ぜる微かな音だけが店内に響く。
「……エレナから聞いたわ」
まつが、トーンを一段落として言った。
「外資の巨大プラットフォームと組むそうね。いよいよ、世界進出というわけだ」
「らしいな」
任三郎は淡々と応じた。
「契約のことはプロデューサーに任せている。俺にはよく分からないし、興味もない」
「相変わらず欲がないのね」
まつは少しだけ呆れたように息を吐いた。
「世界最大のプラットフォームよ。何千万人、何億人という世界中の人間が、あなたの芝居を見るの。……随分と遠くに行っちゃうのね」
任三郎は箸を置き、ゆっくりとまつの方へ顔を向けた。
「行く場所なんてない」
深く、静かな声だった。
「外資がどうこう言おうが、世界中の何千万人が見ようが、関係ない。俺はただ、あの地下の薄暗い防音スタジオのバミリの上に立って、与えられた台詞を吐き出すだけだ。……それ以外に、俺の生きる術はない」
まつのプラチナブロンドの髪が、微かに揺れた。
彼女は任三郎の深く淀んだ碧眼を見つめ返し、やがて、口角をゆっくりと吊り上げた。
「……そうね。あなたはそういう男だったわ」
まつは身を乗り出し、任三郎に顔を近づけた。彼女のつけている高級な香水の香りと、ワインの甘い匂いが任三郎の鼻先をかすめる。
「世界中の人間が、あなたの芝居に熱狂するでしょうね。でも、忘れないで」
まつの少しハスキーな声が、任三郎の鼓膜を直接震わせた。
「あなたがどれだけ完璧なガワを被って世界中を騙そうとも……あなたのその芝居の本当の恐ろしさを一番理解しているのは、私よ」
「……宣戦布告か」
任三郎が低く問うと、まつはグラスの残りのワインを飲み干した。
「ええ。いつでも、あなたのその薄っぺらいオモチャの箱を、内側から壊しに行ってあげるわ」
「俺は、板の上で与えられた役割を全うするだけだ。それが現実の舞台だろうと、仮想空間だろうと変わらない」
「その言葉、忘れないでね」
二人の視線が、至近距離で鋭く交錯する。
白木のカウンターには、ひどくヒリヒリとした沈黙が降りていた。厨房の奥で備長炭が再び短く爆ぜ、二人の間にある張り詰めた空気をわずかに揺らした。




