第39話 届いた熱量
互いの言葉と言葉の間に落ちるわずかな静寂が、異様なほどの密度を持ってスタジオの空気を圧迫していく。スピーカーからは、互いの浅い呼吸音と、衣擦れの音だけが途切れ途切れに流れ出ていた。
まつがモニター越しに仕掛けてくる間合いは、生身の肉体による生々しい暴力だった。彼女がわずかに視線を逸らすタイミング、言葉の端に滲ませるかすかな鼻音、そして、台本の余白を自身の存在感で強引に塗りつぶしていくような息の浅さ。ポリゴンで作られた完璧なガワの奥から、「野口まつ」という一人の女優の細胞に深く刻み込まれたエゴが、じわりと、しかし確実に滲み出している。
任三郎は両足を肩幅に開き、足の裏全体で床の静電気防止マットを掴むように立ち、膝の微かなクッションで上半身のブレを完全に殺している。極限まで落とした重心を1ミリも動かすことなく、その重い圧力を真正面から受け止めていた。
防音ブースの冷え切った空気の中で、任三郎は腹式呼吸によって横隔膜を深く押し下げた。酸素が肺の底まで満たされ、肋骨の裏側が内側からゆっくりと押し広げられる。モーションキャプチャースーツの下で、強靭な背筋がゆっくりと収縮し、肩甲骨が中央に寄る。分厚い胸板が限界まで膨らみ、肌に密着した化学繊維がかすかに擦れる。その極めて微細な物理音すらも、顔の前に伸びたアームの先の高性能なマイクは容赦なく拾い上げていた。
モニターの中のまつが、最後の決定的な台詞を放とうと、大きく息を吸い込んだ。画面越しでもはっきりと伝わる、彼女の肩甲骨の微かな強張り。そして、唇がわずかに開かれ、喉の奥が震える直前の、ひどく濃密な一瞬。
「……『どれだけ深いか』ですって? ふざけないで。アンタの底なんて、私が全部……っ」
まつの声が頂点に達し、すべてを呑み込もうとするその寸前。
任三郎は、肺の底まで溜め込んだ呼気を、声帯の摩擦を最小限に抑えながら静かに、しかしすさまじい質量を持たせて吐き出した。
「……もう、言わなくていい」
画面の向こうで、まつの息が不自然に止まったのが分かった。
彼女の大きな瞳が、わずかに見開かれる。台本になかった沈黙。
まつの表情筋がピクリと動き、何かを言い返そうと唇が震える。瞬きすら忘れ、画面の向こう側の存在を探るように眼球がわずかに揺れた。トラッキングカメラが彼女の動揺による微細な筋肉の痙攣を拾いきれず、アバターの表情が一瞬だけ不自然に強張る。視線が泳ぎ、モニターの端から端へと忙しなく動いた。だが、音は出てこない。開かれた唇からかすかな吸気音が漏れ、上下の歯が微かに触れ合う音がマイク越しに伝わってくるだけだった。
15万人という視聴者が接続する配信の枠の中で、二人の間に数秒間の沈黙が落ちた。
『……』
『やばい、息止めてた』
『なに今の空気』
『鳥肌立った』
コメント欄の猛烈な流速すらも、その一瞬だけは完全に鈍っていた。数十台のサーバーを経由して絶え間なく流れ込んでいた文字の奔流がピタリと止まり、画面の向こう側で無数の人間が同時に息を呑む気配が、データとして伝わってくる。
やがて、まつは深く、重い息を吐き出した。
数秒前まで纏っていた圧倒的な存在感が、ふっと霧散していく。画面の中のアバターではなく、その奥にいる任三郎を真っ直ぐに見据え、彼女はゆっくりと唇を噛み締めた。いつものカメラに向けた完璧な笑顔ではない。ほんの少しだけ口角を歪め、不器用な悔しさと、どこか清々しさすら入り混じったような表情で短く息を漏らす。
「……本当に、敵わないわね」
まつが低く呟き、それが配信の終幕の合図となった。
★★★★★★★★★★★
配信の終了処理が終わり、巨大なモニターから視聴者のコメント群が暗転して消え去った。
防音ブースの中でヘッドギアを外した任三郎の首筋から、どっと汗が噴き出す。密閉された空間の冷たい空気が、火照った肌に触れてじわりと冷えていく。首に巻き付いていたタオルで顔の汗を粗く拭い、重い防音扉の金属ハンドルに手をかける。
扉を開けてスタジオに出ると、機材の冷却ファンの低い唸り音が耳を打った。
コントロール卓の向こうで、エレナがヘッドセットを首にかけたまま、立ち尽くしていた。壁一面のモニターには、処理限界を超えたコメントの流速を警告する赤いアラートがいくつか点滅しているが、誰もマウスに触れようとしない。いつもなら収録が終わるや否や駆け寄ってきて、早口で労いの言葉や今後の展開をまくし立てるはずのエレナが、手に持ったタブレットをデスクに置いたまま、口を半開きにしていた。周囲の若手スタッフたちも、キーボードから手を離し、暗くなったモニターの光に照らされたまま無言で任三郎に視線を向けている。デスクの上に置かれたブラックコーヒーの紙コップの縁から、水滴が一つ滑り落ちて机を濡らした。
パイプ椅子に置かれた任三郎のスマートフォンが、短く振動した。
画面に表示された名前に目を落とし、任三郎は周囲のスタッフから少し離れた巨大なサーバーラックの裏へと歩いてから、通話ボタンをタップして耳に当てる。
『……ズルい』
スピーカーの向こうから聞こえてきたのは、少し掠れた、疲労の滲むまつの声だった。どこか静かな室内にいるのか、遠くでかすかに車の走行音と、ウィンカーの規則的な電子音が聞こえる。
『……アンタの、あの声。……ズルいじゃない』
「……」
『私の芝居が、なんだかすごく騒がしいものに……野暮ったく感じたわ。あんなの、卑怯よ』
言葉を探しながら吐き出される不器用な声。鼻をすするような微かな音と、車内のレザーシートが擦れる音がスピーカーのホワイトノイズに混じって伝わってくる。
「……言ったはずだ。俺の芝居が一番純粋に届くのは、ここだと」
『……ええ』
まつは短く息を吐き、自嘲するような笑い声をわずかに漏らした。
『思い知らされたわ。……認めるしかないわね。あんな完璧なアニメ絵の奥から、アンタの息遣いが……寸分違わず届いてきちゃったんだから』
「……」
『アンタの選んだ場所、ただの逃げ道でも、オモチャ箱でもなかった』
まつの声から、先ほどまでの震えが少しずつ消えていく。大きく息を吸い込む音が聞こえ、彼女が姿勢を正した気配が伝わってくる。
『今回は、身を引くわ。……商業舞台のオファーも、私の独断で蹴っておく』
「そうか」
『でも、忘れないで』
まつの声が、一段階低く、鋭さを帯びた。
『こっちでは、私がずっとトップよ。アンタがその箱に飽きて這い出してきた時は、いつでも引きずり下ろしてやるから』
「……楽しみにしている」
任三郎が短く返すと、通話は一方的に切れた。
耳からスマートフォンを離す。通話終了を知らせる短い電子音が鳴り、やがて液晶画面が真っ暗に落ちた。任三郎は画面を伏せるようにして膝に置き、パイプ椅子の背もたれに体重を預けて、深く、長い息を天井に向かって吐き出した。
★★★★★★★★★★★
翌日の夕方。
どんよりとした厚い雲が日差しを遮り、築40年の木造アパートの室内は日没前にもかかわらず薄暗かった。外を走る私鉄の金属的な摩擦音が、薄い壁をすり抜けて容赦なく響き渡る。
任三郎は、ささくれた畳の上に胡座をかき、手元の台本を閉じた。
立ち上がろうと腰を浮かせた瞬間、太ももの裏から背筋にかけての筋肉が硬く引きつり、思わず短い息を漏らす。足の裏から伝わる床の冷たさが、感覚の鈍った神経をチクチクと刺激した。長時間の極限の緊張状態を解かれた肉体は、自身の重さを支えることすら億劫に感じている。息を深く吸い込むと、肺の底に冷たい空気が触れ、微かな咳が出そうになった。
コタツ机の上に放置された空のマグカップを持ち上げようとして、右手の握力が一瞬抜け、陶器が机に当たってゴトッと鈍い音を立てた。指先の神経がうまく繋がっていないような感覚。冷え切った部屋の中で、自身の肉体だけが不自然な熱を持ち、呼吸をするたびに肺の奥がかすかにヒューと鳴る。
だが、休む暇はない。今日はこれから、スタジオへ向かわなければならない。河野由希子が新たに書き上げた次回のボイスドラマの台本は、紙の束というよりも鈍器のような重みを持っていた。ページを繰るたびに、異常な筆圧で刻まれた指示の跡が指先にザラザラと触れ、強いインクの匂いが鼻を突く。
任三郎は重い腰を上げ、ヨレヨレのTシャツの上に色褪せたミリタリージャケットを羽織った。ジッパーを引き上げ、少しだけ冷気を遮断する。
玄関の土間に降り、くたびれたスニーカーに足を入れようとした時だった。
「みやぁ……」
ひどくか細い、甘えるような鳴き声が足元から聞こえた。
視線を落とすと、灰色の小さな毛玉が、任三郎の足首にまとわりついていた。
任三郎が靴紐を結ぼうと屈むと、子猫はそれを阻止するように、スニーカーのつま先に短い前足をちょこんと乗せた。丸い瞳が、巨漢の顔をじっと見上げている。
「……邪魔だ。どけ」
任三郎は低い声で言い、軽く足を揺すった。
だが、子猫は退かない。それどころか、スニーカーに乗せた前足に力を込め、任三郎のミリタリージャケットの裾に向かって、小さな爪を立ててよじ登ろうとしてきた。
ズルズルと不格好に滑り落ちながらも、必死に布地に食らいつこうとする。シャカシャカとナイロン地が擦れる音が、静かな玄関に響く。
「おい、服が破れる」
任三郎がしゃがみ込み、子猫の背中を片手で掴んで引き剥がそうとした。
その瞬間、子猫は任三郎の太い指先に短い両前足をしっかりと巻きつけ、ざらついた小さな舌で指の腹を舐め始めた。鋭い小さな歯が微かに皮膚に当たる。そして、喉の奥からモーターのような低い振動音を鳴らしながら、任三郎の分厚い手のひらに自分の額や頬を何度も強く擦り付けてきた。ミリタリージャケットの袖口の硬い布地に、柔らかな灰色の毛が数本付着する。
驚くほど真っ直ぐで、混じり気のない生命の温もりが、冷え切った任三郎の手のひらから伝わってくる。微かなミルクの匂いが鼻先をかすめた。
「みゃあ……みゃあ」
鼻を鳴らすような、切実な声。
任三郎は動きを止め、子猫を掴もうとしていた右手の力をスッと抜いた。
薄暗く、底冷えのする四畳半の玄関。
外の冷たい空気とは対照的な、その小さく確かな体温が、強張った任三郎の指先の神経を少しずつ解きほぐしていく。
任三郎はため息を一つ吐き、そのままの姿勢で、太い指の腹を使って子猫の耳の後ろをゆっくりと撫でた。
「……すぐ帰る。飯はそこに置いてあるだろう」
子猫は任三郎の指の動きに合わせて目を細め、さらに強く頭を押し付けて喉を鳴らした。喉の振動が、任三郎の指先から手首へと微細な震えとなって伝わってくる。
数十秒の触れ合いの後、任三郎は子猫をそっと床に降ろし、立ち上がった。
重い鉄の扉を開けると、秋の冷たい風が容赦なく顔を打つ。
任三郎はドアを閉め、ポケットに右手を突っ込んだまま、カンカンと金属音を響かせて外階段を降りていった。




