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第38話 異次元のコラボ配信

 築40年の木造アパートに、底冷えのする冬の足音が確実に忍び寄っていた。

 ガタつくアルミサッシの隙間から吹き込む冷気が、四畳半の部屋の温度を容赦なく奪っていく。外を走る私鉄の乾いた摩擦音が薄い壁をすり抜けて響く中、任三郎は万年床の中で重い瞼を開いた。冷たい空気が肺に吸い込まれるたび、酷使された肉体が目覚めを拒絶するように重く沈み込んでいくのを感じる。

 長時間のモーションキャプチャー収録で酷使された肉体は、ただ数時間眠った程度では到底回復しない。肩甲骨の裏側から脊椎にかけての筋肉は芯まで冷えて収縮し、呼吸のたびに軋むような重苦しい張りがこびりついていた。首を動かそうとするだけで、頸椎の奥から乾いた音が鳴る。瞬きの間すら自身の生活の癖を殺し、架空のキャラクターの骨格に合わせて筋肉を制御し続けるという異常な稼働。それはただ汗を流すだけの舞台稽古とは全く異なり、細胞の隅々にまで深刻な疲労物質を沈殿させている。息を吸い込むたびに、肺の裏側に細かい砂が擦れるような違和感があり、深い呼吸を無意識に躊躇ってしまっていた。

 重い息を吐き出し、掛け布団を引き上げようとした時、右腕と胴体の隙間に奇妙な重みを感じて視線を落とした。

 毛布の皺が重なるくぼみの中に、灰色の完璧な球体が一つ、すっぽりと収まっていた。

 寒さを凌ぐためか、短い四肢も、ペタンと折れ曲がった耳も、細長い尻尾も、すべてを自身の柔らかな毛皮の奥に隠し、文字通り一つの丸い毛玉と化している。わずかに外に覗かせた小さなピンク色の鼻先だけが、スースーという微かな寝息とともに一定のリズムで動き、球体全体が呼吸に合わせて微かに膨らんだり縮んだりを繰り返していた。

 冷え切った部屋の中で、その小さな毛玉だけが、驚くほど真っ直ぐな生命の熱を放っている。

 任三郎は動かそうとした右腕の力を抜き、布団から出した太い指の背で、その球体の表面をそっと撫でた。指先から伝わる微細な振動と、混じり気のない温もり。それが、強張った背筋の痛みをほんの少しだけ和らげてくれる気がした。小さな命の規則的な鼓動が、荒れ果てた部屋の静寂の中で、唯一の安らぎとして機能していた。


 のそりと身体を起こし、冷たいフローリングを裸足で歩いて狭い台所へ向かう。

 立て付けの悪い冷蔵庫を開けると、中には半分残ったミネラルウォーターのボトルと、消費期限の近い卵が二つ、安売りの納豆が一パックだけ転がっていた。

 使い込まれた鉄のフライパンをコンロに置き、火をつける。換気扇が低い唸りを上げ、冷え切った空気を吸い込んでいく。フライパンにわずかに油を引き、チリチリという音と共に油が波打ったところへ、卵を二つ落として目玉焼きを作る。白身の縁がカリッと焦げて香ばしい匂いが立ち上り、黄身が半熟の状態で火を止めた。炊飯器の底に残っていた、少し黄ばみかけた保温の白米を茶碗によそう。納豆のパックを開けて付属のタレと辛子を力強く混ぜ込み、粘り気が出たところで目玉焼きと一緒に白米の上に乗せた。

 半熟の黄身を箸の先で崩し、醤油をひと回し垂らす。熱によって焦げた醤油の香りが微かに立ち上った。任三郎は茶碗を持ち上げ、無言のまま手早く胃の腑へと詰め込んでいく。カリカリに焼けた白身の食感と、納豆の粘り気が混ざり合う。冷え切った四畳半に、咀嚼音と、嚥下に伴って喉を鳴らす音だけが単調に響き続けていた。

 空になった茶碗を流しに置き、蛇口をひねって冷水で口をゆすぐ。熱いほうじ茶を淹れ、マグカップを持って万年床の前に戻る。

 子猫はまだ丸まったまま、幸せそうに寝息を立てている。

 枕元のスマートフォンを手に取ると、画面には、エレナから一行だけのメッセージが表示されていた。


『今日の19時、スタジオ入り。手加減は無用よ』


★★★★★★★★★★★


 ギャラクシー・ライブ地下スタジオ。

 分厚い鉛入りの防音扉に閉ざされた密室は、いつになく異常な緊張感に包まれていた。

 本日は「天ノ川シリウス」の妹分となる、大型新人VTuberの初お披露目コラボ配信である。機材の熱暴走を防ぐために極端に設定温度が下げられた室内には、巨大なサーバーラックの冷却ファンが放つ低い唸りだけが一定のリズムで響いている。

 コントロール卓の前に座るエレナは、腕を組んだまま一切の言葉を発さず、ただガラス越しにスタジオの中央を射抜くような視線で見据えていた。高いピンヒールを履いたつま先が、無意識のうちに床を一定のテンポで叩き続けている。彼女の周囲だけ、空気が数度下がっているかのような冷徹な集中力が漂っていた。

 そしてその後ろでは、上野真が目の下に濃い隈を作った顔で、手元のタブレットを乱暴にデスクに放り出した。彼女が着ているオーバーサイズのスウェットには、徹夜作業の証拠であるコーヒーの染みがいくつか跳ねている。


「……言っとくけど、あのガワ、組み上げるの死ぬほど面倒だったんだからね」


 真が、準備運動をしている任三郎の背中に向かって、ひどく掠れた声で忌々しげに言い放つ。


「ただのアイドルのボーンじゃ、あの女の動きは絶対に破綻するのよ。生身の泥臭い体重移動をアニメ絵の重心に落とし込むのに、徹夜でパラメータの数値を全部手作業でいじり倒してやったわ。……マジで、二人揃って私の絵をなんだと思ってるのよ」

「お疲れ様だ」


 任三郎は短く返し、黒いモーションキャプチャースーツのジッパーを喉元まで引き上げた。

 各関節に配置されたセンサーの固定バンドを一つひとつ締め直し、トラッキングのズレが生じないようケーブルの遊びを微調整する。手足の曲げ伸ばしを行い、キャリブレーション用のモニターに映るボーンの動きが、自身の肉体の重心移動と完全に同期しているかを慎重にチェックしていく。足裏の重心の掛け方、膝の抜き方、肩甲骨の開き。生身の泥臭い挙動を、二次元のアニメ絵の枠内に収まるよう、自身の筋肉の出力を意識的に制御していく。ミリ単位の骨格のズレが、画面の向こうでは取り返しのつかない違和感となって出力される。息を吐きながら肩の力を抜き、脳内にキャラクターとしての完璧な重心を設定した。

 最後に、額から小型カメラが伸びた重たいヘッドギアを装着し、床の十字のバミリの上に立った。足の裏から伝わる防静電気マットの硬い感触が、これから始まる異常な空間へのスイッチとなる。深く息を吸い込み、先ほどの設定を身体の芯に作動させた。

 スタジオのメイン照明が落ち、無数のモニター群が放つ青白い光だけが空間を照らし出す。

 インカムから、スタッフの業務的なカウントダウンが聞こえてきた。

 同接数は、配信開始の5分前で、すでに30万人を超えている。


「星の海から君に会いに来た、天ノ川シリウスだよ。……今日はみんなに、紹介したい子がいるんだ」


 任三郎の低く滑らかな声が、ネットワークを通じて数十万の端末へ届けられる。

 モニターの右側を埋め尽くすコメントが、期待と興奮の入り交じった凄まじい速度で流れていく。


「入っておいで」


 任三郎の呼びかけとともに、画面の左側に新たな3Dモデルがインサートされた。

 プラチナブロンドのショートボブ。少し垂れ下がった、しかし意志の強い三白眼。ハイブランドのドレスをデフォルメしたような、身体のしなやかなラインを異常なほど生々しく拾うタイトな衣装。


「はじめまして。……よろしくね、シリウスお兄ちゃん」


 少しハスキーで、しかし鼓膜の裏側を直接撫で上げるような、強烈な質量を持った声。

 ボイスチェンジャーのフィルターを通し、高音域をいじってある。だが、発声の直前の短い吸気、声帯の摩擦、そして言葉の語尾に粘りつくような独特の余韻。ただの挨拶に込められた情報量の多さが、素人とは決定的に違っていた。たった一言で、デジタル空間の空気を一瞬にして自身の支配下に置いてしまう、底なしの引力。

 任三郎の奥歯が、スーツの下で強く噛み合わさった。

 野口まつ。

 彼女が今、モーションキャプチャースーツを着て、自分と同じ「オモチャの箱」の中に入り込んできている。

 由希子が徹夜で書き上げた台本によれば、ここは「緊張して少し上ずった声で、初々しく挨拶をする妹」というト書きが指定されているはずだった。

 だが、画面の中の「妹」の瞳には、初々しさなど微塵もない。腹の底からこちらの力量を値踏みし、呼吸の端のわずかな隙を突いて間合いを詰めてくる、生々しい役者の気配が、プログラムされたポリゴンの表面から露骨に滲み出していた。


「ああ、よろしく。……ずいぶんと、堂々としているね」


 任三郎は台本の一行目を完全に脳内から消去し、自身の重心をミリ単位で深く沈めた。


「だって、ずっとあなたを見ていたから」


 まつが、画面の中でゆっくりと一歩前に出る。上野真が精魂込めて調整したモデリングが、まつの滑らかな体重移動を一切の遅延なくトラッキングし、二次元の絵として完璧に出力する。


「あなたがどんな風に息をして、どんな風に笑って、どんな風に……嘘をつくのか。全部、知ってる」


 任三郎の広背筋が、スーツの下で大きく膨張する。


「……そうか」


 ヘッドギアのマイクに、わずかな吐息が乗る。


「なら、僕がどれだけ容赦しないかも、知っているはずだ」


 言葉の応酬が加速する。

 まつは、台本上の無邪気な質問の隙間に、生々しい吐息や、粘着質な視線の動き、相手の呼吸のリズムを強制的に狂わせる変則的な間合いをねじ込んでくる。彼女のアバターがわずかに首を傾け、伏し目がちに視線を流すだけで、その背後にいる生身の女優の挑発的な笑みが透けて見えるようだった。一呼吸置くタイミング、言葉の語尾の抜き方。その一つ一つに、小劇場時代から積み上げてきた彼女の技術が詰め込まれている。バーチャルのフィルターを通してもなお隠しきれない、野口まつという役者の圧倒的なエゴ。

 任三郎は一歩も引かない。相手が放った感情の圧力を、自身の深い吸気と極限まで落とした重心で受け止め、さらに重い質量の言葉にして撃ち返す。腹式呼吸で横隔膜を押し下げ、声帯の摩擦を意図的にコントロールすることで、ただの言葉に物理的な重みを持たせる。喉の奥の開き具合をミリ単位で調整し、相手の言葉の波に自分の音を乗せていく。

 声を張り上げるわけではない。大袈裟な身振りもない。

 ただ、互いの言葉と言葉の間に落ちるわずかな静寂が、異常なほどの密度を帯びていく。声帯の細かな震え、息を吸う音、視線の交錯。

 まつが半拍食い気味に台詞を被せてくれば、任三郎は瞬時に言葉のトーンを半音落とし、空気を強制的に鎮静化させる。逆に任三郎が長い瞬きで間合いを外そうとすれば、まつは吸気音だけをマイクに乗せ、次の言葉への渇望を視聴者の耳元に直接植え付ける。互いの技術と経験のすべてを動員した、生々しい応酬が絶え間なく続いていた。


 コントロール卓のガラス面に、河野由希子が両手をついていた。

 彼女は抗議の言葉を発することも、自身が徹夜で書き上げたプリントアウトの束を床に落としたことにも気づかないまま、ただモニターを凝視し続けていた。その目は微かに見開かれ、口元は細かく震えている。


 英子のモニタリング画面でも、異変が起きていた。

 30万人以上が見ているにもかかわらず、コメントの流速が明らかに落ちている。


『なんか、息ができない』

『この新人、何者? シリウスと互角に殴り合ってる』

『ただの雑談なのに、舞台のクライマックス見てるみたいだ』


 英子自身も、解析ツールを操作する手を止め、青軸のメカニカルキーボードの上に指を置いたまま完全に硬直していた。


「ねえ、お兄ちゃん」


 まつが、声のトーンを限界まで落とし、マイクに吐息を吹きかけるような距離感で囁いた。


「ずっとここで、こんな狭い場所で、作り物の星空を見上げて生きていくつもり?」


 静かな問いかけが、密室のスタジオに響き渡る。

 任三郎は、静かに目を閉じた。

 足の裏から伝わる防静電気マットの硬い感触。肌に密着する化学繊維の窮屈さ。そして、頭部のヘッドギアの重み。それらすべての物理的な制約を、自身の深く静かな呼吸の中へと溶かしていく。

 ゆっくりと目を開き、任三郎はカメラのレンズを真っ直ぐに射抜いた。


「……この箱の底がどれだけ深いか、君はまだ知らないだけだ」


 低く、一切のブレがない声が響いた。

 一瞬の完全な静寂。

 その直後、画面の右側を埋め尽くす文字の群れが、システムの上限を突破する凄まじい流速となって、真っ白な光の帯へと変貌した。

 エレナはコントロール卓の椅子に深く背中を預け、腕を組んだまま、口角を釣り上げて低く笑った。

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