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第37話 女優の執念

 午後1時。築40年の木造アパートの薄い壁を抜け、外を走る私鉄の乾いた摩擦音が四畳半の部屋に響いた。

 冷え込みの厳しい秋の風が、立て付けの悪いアルミサッシの隙間から容赦なく室内の温度を奪っていく。任三郎は色褪せたTシャツにスウェットパンツという姿のまま、狭い台所の前に立っていた。


 足元では、小さな毛玉が任三郎の足首にまとわりつくようにして「みゃあ」と短い声を上げた。


「待て。お前のはさっきやっただろう」


 短く応じながら、任三郎は使い込まれた鉄のフライパンをコンロの火にかけた。


 腹の底から、胃液がせり上がるような鋭い飢餓感が突き上げていた。

 コンマ数秒の呼吸制御と、ミリ単位の視線移動。生身の人間をデータとして最適化し続ける過酷な稼働は、カロリーを凄まじい速度で灰に変え、肉体の芯にひどい空腹感と疲労の残滓をこびりつかせている。関節の奥には細かい砂が詰まったような違和感があり、太ももの裏や背筋は硬く強張ったままだ。

 冷蔵庫を開ける。入っているのは、昨晩の残りの麻婆豆腐が入ったガラスの保存容器と、いくつかの常備菜だけだ。


 任三郎は保存容器を取り出し、熱したフライパンに冷えた麻婆豆腐を滑り込ませた。

 ただの残り物だが、ベースは豆板醤と刻んだ豆鼓を低温の油でじっくりと炒め、豚ひき肉に甜麺醤の甘みをしっかりと吸わせた本格的なものだ。火を入れると、自家製ラー油の鮮烈な赤色が再び艶を帯びて細かい気泡を作り、五香粉の複雑な香りが換気扇の回る狭い台所に立ち上る。任三郎は木べらで焦げ付かないように手早く全体を返し、仕上げに小さな瓶から花椒の粉末を指先でひとつまみだけ振り入れた。途端に、鼻腔を突き抜けるような痺れる香りが弾ける。

 炊飯器を開けると、炊きたての白い湯気が顔に当たる。深めの茶碗に白米を少し少なめによそい、熱々の餡をその上にたっぷりとかける。赤と白のコントラストが目に鮮やかだ。


 だが、強烈にカロリーを欲している肉体には、これだけでは物足りない。

 任三郎は再び冷蔵庫を開け、タッパーに入っていた作り置きの鶏ささみを取り出した。長ネギの青い部分と生姜、少量の酒とともに余熱だけで火を通したもので、中心までしっとりとしている。

 それを太い指先でつまみ、繊維に沿って細かく裂いていく。ボウルに張った冷水に数秒だけサラダ菜を放ってシャキッとさせ、水気を徹底的に切ってから小皿に敷き、その上に裂いたささみを無造作に乗せた。

 小さな器にマヨネーズを絞り、濃口醤油を数滴落とす。箸の先で手早く、ダマにならないよう完全に乳化するまで混ぜ合わせる。油分と塩分が完璧に馴染み、とろりとしたソースに変わったそれを、上から回しかけた。


 最後に、戸棚からマグカップを取り出し、スーパーでまとめ買いしているフリーズドライの中華野菜スープのブロックを放り込む。

 電気ケトルから熱湯を高い位置から注ぎ落とす。お湯の勢いだけで乾燥したキャベツやキクラゲ、人参がふわりと広がり、鶏ガラの豊かな香りが満ちた。任三郎はそこに、純正のごま油を一滴だけ垂らした。


 コタツ机の上に、三つの品を並べる。

 あり合わせの食材で、適当に手を動かしただけのまかない飯だ。任三郎は胡座をかき、両手を合わせて短く「いただきます」と呟いた。

 茶碗を持ち上げ、ミニ麻婆丼をレンゲでかき込む。豆腐の滑らかな食感と、豚ひき肉の強い旨味。その後から、花椒のビリビリとした痺れと自家製ラー油の突き抜けるような辛味が追いかけてきて、胃の腑が熱く燃える。額にじんわりと汗がにじむのを感じながら、任三郎は咀嚼のペースを上げた。

 すかさず、ささみのサラダに箸を伸ばす。しっとりとした鶏肉に、醤油マヨネーズの濃厚なコクとサラダ菜の瑞々しさが絡み合い、麻婆の強烈な辛味を見事に中和した。冷たいサラダが口内の熱を冷まし、すぐさま次の一口を欲するサイクルを生み出す。そして、ごま油の香る熱い野菜スープで食道を洗い流す。乾燥したキャベツの甘みが、疲労した身体に染み渡った。

 静かな四畳半に、ただひたすらにカロリーを摂取する咀嚼音と息遣いだけが響く。足元では、子猫が前足で顔を洗いながら、琥珀色の丸い目でその様子を見上げていた。時折、自分の鼻先をペロッと舐め、また前足を動かす。


 食欲という根源的な欲求を満たしていく中で、任三郎の脳裏には、数日前に下北沢の暗がりで対峙したまつの顔が浮かんでいた。


『戻ってきなさい。あなたの居場所は、オモチャの箱の中じゃない』


 冷たい外気が吹き込む薄暗い路地で、背中に突き刺さった視線の重み。

 レンゲを置き、マグカップのスープを飲み干した任三郎は、小さく息を吐き出した。


★★★★★★★★★★★


 同じ頃。

 ギャラクシー・ライブが入る高層ビルの最上階、分厚い防音扉で閉ざされたプロデューサー専用の応接室は、凍りつくような緊張感に包まれていた。

 壁面の巨大なモニターは電源が落とされ、黒々とした画面が室内の冷たい間接照明を反射している。


「……本気で、おっしゃっているんですか」


 エレナ・クルスは、マホガニーのローテーブルを挟んで向かい側に座る女を見て、絶句したように声を絞り出した。

 タイトなパンツスーツの膝の上で、エレナの両手が指の関節が白くなるほど強く組まれている。わずかに見開かれた瞳と微かに強張った口元に、隠しきれない困惑が浮かんでいた。

 テーブルの上に置かれたエスプレッソのカップからは、一筋の湯気が力なく立ち上っては消えていく。


 野口まつは、首元が大きく開いたオフホワイトのローゲージニットに、ダークグレーの細身のデニムという姿で、革張りのソファに深く身を沈めていた。

 彼女はコーヒーカップには一切手を触れず、顔の半分を覆うようなサングラスを外して、エレナの目を真っ直ぐに射抜いた。プラチナブロンドのショートボブが、わずかな動きに合わせて滑らかに揺れる。


「私はいつでも本気よ」


 まつの少しハスキーな声が、静かな室内に低く響く。


「外資のプラットフォームが、あの男を買い叩こうとしていると聞いたわ。あなたのところの会社も、システムをぶち抜かれて上層部が浮き足立っているんでしょう? 防波堤が必要なんじゃないの」

「……だとしても、です」


 エレナは小さくかぶりを振った。


「国民的な女優であるあなたが、顔も名前も隠して、うちの新人VTuberとしてデビューするなど……万が一、週刊誌にでも嗅ぎつけられれば、あなたのキャリアそのものが終わります。業界のルールを根底から破壊する行為です」


「バレないように完璧な皮を用意するのが、あなたの仕事でしょう?」


 まつは身を乗り出し、口角をわずかに上げた。


「名前も、顔も、私のこれまでのキャリアも、全部いらない。……あいつがノイズが消えて純粋な芝居が届くなんて気取っているあの箱に、私が直接入って、完膚なきまでに叩き潰してやるのよ」


 エレナは、数秒間まつを見つめ返し、やがて深く息を吐いて背もたれに寄りかかった。

 革のソファが低く軋む。

 エレナは手元のタブレットに目を落とした。画面には、昨夜アマンダから突きつけられたストリーム・ノヴァの圧倒的なトラフィックデータと、契約に関する不遜な提案書が表示されたままだ。

 無意識のうちに爪先で画面の端をカチカチと叩く。硬質な音が、重い沈黙の中で等間隔に響く。

 まつは一切急かすことなく、ただ静かにエレナの決断を待っている。組まれた長い脚の先で、黒いレザーのブーツが微かに揺れている。背もたれに深く寄りかかったまま、彼女の呼吸は一定のリズムを保ち続けていた。

 数十秒が経過した。やがて、エレナの指の動きがピタリと止まった。彼女はタブレットの画面をオフにし、ゆっくりと顔を上げる。


「……最高のガワには、最高の絵師が必要です」


 エレナはスマートフォンを取り出し、連絡先の画面を開いた。


「上野真を呼びます。彼女のプライドをへし折って、あなたの要望に合わせた特注の拘束衣を作らせましょう」

「期待しているわ」


 まつは手に持っていたサングラスをサイドテーブルに置き、低く笑った。


★★★★★★★★★★★


 夕方。

 窓の外の空が、くすんだ茜色から深い藍色へと沈んでいく。四畳半の部屋に満ちていた麻婆豆腐の匂いはすっかり消え、代わりに古い畳の匂いと、秋の乾燥した空気が入り込んでいる。

 洗い物を終え、次の配信に向けて由希子の台本を読み込んでいた任三郎のスマートフォンが、短い振動音を立てた。

 画面には、エレナからのメッセージ通知が表示されている。


『外資の件、強力なカードが手に入ったわ』

『近日中に、大型新人をデビューさせる。シリウスの妹分という設定の、実力派よ』


 メッセージの直後に、一つの音声ファイルが添付されてきた。


『テスト収録の音声よ。聞いておいて』


 任三郎はわずかに眉をひそめ、コタツ机の上に置かれた有線イヤホンに手を伸ばした。古びたジャックをスマートフォンに挿し込み、耳に装着してから再生ボタンをタップする。

 数秒のホワイトノイズ。

 続いて、ボイスチェンジャーで高く、可愛らしく加工された少女の声が鼓膜を打った。


『はじめまして。先輩の背中、ずっと見てました』


 アニメキャラクターのような、完全に作られた声。

 だが、任三郎の全身の動きが、その音声を処理した瞬間に完全に停止した。手にした台本のページをめくろうとしていた指先が、空中でピタリと止まる。

 心臓の鼓動が、一瞬だけ不自然なリズムを刻んだ。


 声色ではない。

 言葉を発する直前、喉の奥で極端に空気を圧縮するような、独特の粘り気のある吸気音。語尾を切り落とす寸前に、わずかに下の歯で唇を噛むような微細な摩擦のノイズ。

 そして何より、言葉と言葉の間に落ちる、空間の空気を強制的に自分の間合いへと引きずり込むような沈黙。

 ボイスチェンジャーという分厚いデジタルのフィルターを通しても、その芝居の呼吸は、任三郎の聴覚を直接殴りつけてきた。

 かつて、パイプ椅子を並べただけの埃っぽい小劇場の暗がりで、何百時間と交わしてきた熱と匂い。スポットライトの熱で蒸発する汗。相手の台詞に合わせて瞬時に間合いを詰め、空間の酸素を奪い合うような息苦しいほどの芝居の応酬。

 その記憶が、加工された薄っぺらい音声データの裏側から、ひどく生々しい質量を持って逆流してくる。


 任三郎は無言でイヤホンを引き抜き、画面の割れたスマートフォンをコタツ机の上に伏せた。

 天井の古びた円形蛍光灯を見上げる。ジーという低い羽音が、やけに大きく聞こえた。


「……馬鹿な女だ」


 呆れを含んだ呟きが、静かな四畳半に落ちた。

 任三郎はゆっくりと視線を下げ、机の上の台本に手を伸ばした。ページを握る太い指の関節が、わずかに白くなるほど強く力められている。

 彼の唇の端が、ひどく好戦的な弧を描いて歪んだ。

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