第36話 バーチャルの証明
深夜2時。築40年の木造アパートに、外階段の錆びた鉄を軋ませる重い足音が響いた。
任三郎は立て付けの悪い玄関のドアを力任せに押し開け、底冷えのする四畳半の部屋に足を踏み入れた。11月の冷たい外気とほとんど変わらない室温に、思わず短く息を吐き出す。白い呼気が暗闇の中でうっすらと形を作り、すぐに消え去った。壁の黄ばんだスイッチを押すと、天井の古い円形蛍光灯がジーという低い羽音を立てながら数回またたき、生活感の乏しい無機質な空間を青白く照らし出した。
着古したミリタリージャケットを脱ぎ、壁際のパイプハンガーに掛ける。そのわずかな動作だけで、肩甲骨の裏側にへばりついた鈍い痛みが強烈に主張を始めた。首を回すと、頸椎の奥で乾いた音が鳴る。両手のひらを握り込むと、関節に水分が足りていないような強張りがあった。コンマ数秒単位の身体制御を強いられた長時間の配信の代償は、筋肉の繊維一本一本が微かに痙攣するような、ひどく生々しい消耗となって肉体の奥底にこびりついていた。足の裏から伝わるフローリングの冷たさすら、血の巡りが悪くなった今の彼にはひどく遠い感覚のように思えた。
部屋の中央、ささくれた畳の上に置かれたコタツ机の上には、3つの異質なものが無造作に並んでいた。どれもこの四畳半の生活レベルには全くそぐわない代物だ。
野口まつから渡された、有名演出家の名前が明朝体で印字された分厚い商業演劇の台本。糊付けされた真新しい背表紙と、指を切りそうなほど質の良い分厚い表紙。
その隣には、河野由希子の赤いインクの書き込みによって、文字の周囲が毒々しいほどに染まり上がった『過去編』の台本。何度もめくられたことで角がすり切れ、インクの水分で紙がひどく波打っている。
そして、アマンダ・レインから突きつけられた、プラスチックのように硬く分厚い漆黒の名刺。天井の青白い蛍光灯の光を反射し、冷たい光沢を放っていた。
任三郎は机の前に立ち尽くし、それらを無言で見下ろした。
「みゃあ」
部屋の隅に丸められていた毛布の塊から、布が擦れる微かな音がして、短い鳴き声が上がった。
隙間がもぞもぞと動き、やがて灰色の丸い頭がひょっこりと顔を出す。数日前に連れ帰ったスコティッシュフォールドの子猫だった。
任三郎の足音で目を覚ましたらしい子猫は、短い前足を踏ん張って毛布の山から抜け出すと、冷たい床をペタペタと鳴らして一直線に向かってきた。
任三郎の足元に辿り着くや否や、ジーンズの裾に小さな頭を何度もこすりつけ始める。アンバーの丸い瞳で見上げながら、今度は「みゃん!」と少し高い、急かすような声を上げた。
任三郎が動かないでいると、子猫は短い前足を彼のすねに掛け、細い爪を布地に引っ掛けてよじ登ろうと体重を預けてきた。
「……分かった。今出す」
任三郎は低く掠れた声で呟き、狭い台所へ向かった。
戸棚から子猫用のドライフードの袋を取り出し、アルミのパウチに入ったウェットフードを手にする。
封を切った瞬間、強い魚と肉の匂いが冷たい空気に広がった。人間にとっては顔をしかめたくなるような生臭さだが、子猫にとっては最高の御馳走らしい。
その途端、足元にまとわりついていた子猫の動きが完全に制御を失った。任三郎の足首の周りを8の字を描くように猛烈なスピードで歩き回りながら、絶え間なく鳴き続ける。早くしろと急かすように、時折立ち上がって任三郎のふくらはぎに爪を立てようとする。
陶器の浅い皿にドライフードを薄く広げ、その上にゼリー状のウェットフードをスプーンで軽くほぐしながら乗せてやる。任三郎が皿を床に置くより早く、子猫は顔を突っ込んで勢いよく食べ始めた。
クチャクチャ、カリカリ。
深夜の静まり返ったアパートに、一心不乱に餌を噛み砕き、飲み込む音だけが響き渡る。
任三郎は膝をつき、夢中で食事にかじりつく小さな灰色の背中を見下ろした。呼吸に合わせて規則的に波打つ背中の毛並みと、皿に顔を押し付けるようにして必死に食べる姿を、ただ黙って見つめ続ける。
数分後、皿を綺麗に舐め尽くした子猫は、短く一つゲップをすると、今度は座り込んで丁寧に顔を洗い始めた。前足を舐め、それで耳の後ろまで何度も擦る。腹が満たされたことで、先ほどまでの必死さは嘘のように消え去り、そこにはただ穏やかな日常の時間が流れていた。
やがて任三郎はゆっくりと立ち上がり、再びコタツ机の前に戻った。
机の上に置かれたアマンダの名刺を指先で弾き、端の方へと無造作に追いやる。そして、まつから渡された分厚い商業演劇の台本と、由希子の赤いインクで汚れた台本を交互に一瞥し、深く息を吐き出して目を閉じた。
★★★★★★★★★★★
3日後の午後。
下北沢の路地裏にある、キャパシティ80人程度の小さな劇場。
公演のない日の昼下がり、地下特有の湿気と、何十年も蓄積された床ワックスと埃の匂いが、薄暗い空間に澱んでいる。客席の奥からは、壁の裏を通る水道管の微かな水音が聞こえていた。
ここはかつて、任三郎と野口まつが所属していた劇団のホームグラウンドだった場所だ。軋む木製の舞台、客席と文字通り息のかかるような近さ。どれだけ声を張り上げ、汗を撒き散らしても、一向に売れる気配のなかった泥のような20代の記憶が、劇場の至る所に染み付いている。通気口の黒ずみや、客席後方の剥がれかけた吸音材すら、かつて自分たちが見上げていた景色と同じだった。
客席の中央、パイプ椅子に深く腰を下ろしていたまつは、背後の重い防音扉が開く音にゆっくりと顔を向けた。
プラチナブロンドのショートボブ。黒のレザージャケットにスキニーデニムというラフな装いだが、薄暗い客席にただ座っているだけで、周囲の空気を圧倒する確かな存在感がそこにあった。国民的トップ女優として数々の大舞台や映像作品を経験してきた彼女の放つオーラは、この小さな劇場にはもはや収まりきらないほどに巨大だった。
通路の階段を下りてきたのは、色褪せたミリタリージャケットを着た任三郎だった。
彼は無言のまままつの横まで歩み寄り、手に持っていた茶封筒を、隣の空いたパイプ椅子の上に置いた。
封筒の口からは、先日まつが渡した商業演劇の台本が顔を覗かせている。
「……悪いな。読ませてもらったが、受けられない」
任三郎の低く落ち着いた声が、誰もいない舞台に向かって反響した。
まつは台本を見下ろし、それからゆっくりと任三郎の顔を見上げた。
「プロデューサーには私から話を通してあったわ。顔合わせのスケジュールまで仮押さえして。……あなたが首を縦に振るだけで、何千人という観客の前で、最高の演出家の元で芝居ができたのよ。ずっと私たちが目指していた場所じゃない」
「分かっている」
「じゃあ、どうして」
まつの声のトーンが、一段階低く、鋭く落ちた。
彼女はパイプ椅子から立ち上がり、任三郎を真っ向から見据える。長年、トップ女優として磨き上げられてきた彼女の視線は、それだけで相手を萎縮させるだけの絶対的な圧力を持っていた。
「まさか、あんな二次元のアニメ絵を被る仕事の方が、この板の上よりも大事だなんて言わないわよね」
「……」
「答えて。あのオモチャの箱の、一体何があなたをそこまで縛り付けているの?」
任三郎はまつから視線を外し、照明の落ちた真っ暗な舞台を見た。
何もない板の上。無数の役者たちが絶望と希望を擦り付けた傷だらけの床面。その黒光りする床は、かつて自分が這いつくばり、涙を流した冷たさを今でも鮮明に思い出させた。
「まつ。お前も知っての通り、俺の体はデカすぎる」
任三郎は、ぽつりと言った。
「顔の造作も、声の質も……日本の小劇場の日常芝居の枠の中では、常に『平野任三郎』という肉体がノイズになりすぎた。俺がどれだけ息を潜めて小市民を演じようとしても、観客は俺の無精髭や体のデカさに無意識の違和感を抱く。普通のサラリーマンや、気弱な父親を演じようと肩をすぼめても、客席の視線は俺の骨格の圧迫感に吸い寄せられる。台詞の裏にある繊細な感情よりも先に、『デカくて威圧感のある男』という情報が勝ってしまう。……それを無理やり殺そうとすればするほど、芝居の芯が濁っていくのがわかった。俺は、この肉体を持っている限り、俺自身の芝居を100パーセント客に届けることはできないと、どこかで諦めかけていたんだ」
「だから、この商業演劇のオファーを持ってきたんじゃない! 大きな舞台なら、あなたのその存在感は最大の武器になる。私が保証するわ」
まつの言葉に、任三郎は小さく首を振った。
「……ああ。そうかもしれない。だが、見つけてしまったんだ」
任三郎は視線を戻し、まつの目を真っ直ぐに射抜いた。
その碧眼には、かつて小劇場でくすぶっていた頃の淀みは一切なく、ひどく澄んだ鋭い光が宿っていた。
「あそこでは、俺の肉体のノイズが完全に消える」
「……ノイズ?」
「観客の目に映るのは、綺麗な男のガワだけだ。俺の無精髭も、だらしない服も、生活の垢も、あの絵が全部濾過してくれる」
任三郎は、自身の分厚い胸板に右手を当てた。
「あの完璧なフィルターを通すことで……俺が吐き出した呼吸の深さ、筋肉の軋み、絶望の質量だけが、寸分違わず向こう側に届く。リアルな肉体が介在しないからこそ、俺の芝居の『熱』だけを、直接観客の脳に叩き込めるんだ」
少しの間を置き、任三郎はさらに言葉を継いだ。
「モーションキャプチャースーツを着て、マイクの前に立つ。視覚的な情報はすべてあのアニメ絵に置き換えられるが、呼吸一つ、指先の震え一つに込めた感情の純度は、板の上にいる時よりも遥かに高く抽出される。……初めてだった。俺という人間のガワを一切気にせず、魂の形だけで観客と殴り合えたのは」
薄暗い劇場に、任三郎の重い声が落ちた。埃の匂いと湿気に混じって、二人の荒い呼吸だけが聞こえる。
「……それが、役者の言葉?」
まつは信じられないものを見るような目で、任三郎を見た。
「肉体を捨てて、汗の匂いを消して、モニター越しに安全圏から感情を操作する。……そんなものが、本物の芝居だっていうの?」
「手段はどうでもいい」
任三郎は一歩だけまつに近づき、その圧倒的な体格で見下ろした。
「板の上だろうが、電子の海だろうが、俺が本物だと信じた感情を、ノイズなしで相手に突き刺せる場所が俺の戦場だ。……俺の演技が一番純粋に届くのは、あの場所なんだ」
数秒間、二人の視線が空中で激しくぶつかり合った。
まつはギリッと奥歯を噛み締め、それから、フッと息を吐くように口角を上げた。
「……本当に、イカれてるわね。昔からそうだったけれど」
彼女はパイプ椅子の上の台本を乱暴にひったくると、ヒールを鋭く鳴らして任三郎に背を向けた。コツ、コツという硬質な音が、無人の客席に冷たく響き渡る。
階段を上り、防音扉の重いノブに手をかける。
そこで一度だけ、肩越しに振り返った。
まつの瞳は、一切の熱を帯びていない氷のような冷たさと、奥底で静かに燃え滾るような強烈な光を同時に放っていた。
「絶対に認めない。そんな逃げ場みたいな場所が、あなたの本当の居場所だなんて」
ハスキーな声が、劇場に冷たく響く。
「……後悔させてやるわ。必ずね」
重い扉が閉まり、鈍い音が地下の空気を震わせた。
誰もいなくなった客席で、任三郎はただ一人、深く、長い息を吐き出した。
薄暗い空間にしばらく立ち尽くした後、彼は向きを変えた。
軋む床を踏みしめて歩き出した。




