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第35話 データのバグ

 六本木にそびえ立つ外資系高級ホテルの最上階。プレジデンシャル・スイートの分厚い防音ガラスの向こうには、東京の夜景が果てのない光の海となって広がっている。高速道路を這う車のテールランプが、巨大な都市の血流のように赤く脈打っていた。

 しかし、現在世界最大の動画プラットフォーム「ストリーム・ノヴァ」のアジア統括チームの臨時拠点として機能しているこの部屋の空気は、その優雅な景観とは完全に断絶されていた。

 広大なリビングの高級絨毯の上には、無骨な巨大サーバーラックと無数の湾曲モニターが所狭しと並べられている。部屋の空調設定は極端に下げられているにもかかわらず、機材群から発せられる熱気と冷却ファンの低い唸り音が空間を重く満たしていた。数名のデータアナリストたちが充血した目で絶え間なくキーボードを叩き続け、エスプレッソの焦げたような苦い匂いと、電子機器特有の微かなオゾンの匂いが混ざり合っている。


 アマンダ・レインは、一切のシワを許さないタイトなテーラードスーツの腕を組み、メインモニターに表示された無数のグラフ群を冷徹なダークアイズで睨みつけていた。

 画面を占拠しているのは、「天ノ川シリウス」の直近の配信から抽出されたトラフィックデータだ。同時接続数の推移、コメントの流速、スーパーチャットの収益額。それらの数値は、ストリーム・ノヴァがグローバルで抱えているトップ層のストリーマーたちの平均値を遥かに凌駕し、異常な角度で天井知らずの伸びを示している。


「……で?」


 アマンダは視線をモニターから外さぬまま、背後に立つチーフ・アナリストのポールに向かって低く促した。


「当社の『感情予測AIモデル』によるシミュレーション結果はどうなったの。彼のデータをベースモデルに流し込んで、最適化を図ったんでしょう?」

「それが……どうにも計算が合いません」


 ポールは手元のタブレットを操作する指を止め、ひどく困惑したように言葉を濁した。彼のこめかみには、じっとりと冷や汗が滲んでいる。


「彼のモーションデータと音声波形を当社のトップストリーマー用の3Dモデルに移植し、AIによるスムージング処理を行いましたが……オーディエンスのエンゲージメント予測値が、ベースラインからマイナス24パーセントまで急落しました」

「低下した? なぜ」


 アマンダの細い眉が、不快げにピクリと動く。


「完璧にトレースしたはずよ。彼のあの独特の重心移動も、発声直前の吸気のラグも。それを当社の最新のアルゴリズムで磨き上げれば、予測値は跳ね上がるのが当然でしょう」

「AIが……彼の動きの根幹を、不規則な『ノイズ』として処理して弾いてしまうんです」


 ポールはタブレットの画面をスワイプし、メインモニターの表示を切り替えた。

 画面上に、シリウスが片膝をつき、崩れ落ちるモーションのボーンデータが、緑色のワイヤーフレームで再生される。その横のターミナルウィンドウには、真っ赤なエラーコードが処理の限界を超える速度で上書きされ、物理的に画面を塗り潰していく。


「広背筋と大腿四頭筋の連動に、コンマ数秒の不合理な遅延が発生しています。デジタルアバターの骨格制御としてはあり得ない、過剰な負荷です。不規則な呼吸の乱れや、重力に逆らうような筋肉のタメ……AIはそれらをすべて『ヒューマンエラー』と判定し、より滑らかで効率的なモーションへと自動的に補正をかけました」

「その結果が、エンゲージメントの暴落だと?」

「はい。ノイズを取り除いた結果、引っ掛かりのないただの『綺麗なアニメーション』になってしまいました。……ならばと、補正を完全に切って生データのままモデルに流し込んだのですが、今度は既存のアバターの関節部分と深刻なクリッピングを起こして演算が停止します」


 ポールはワイヤーフレームの関節部分が赤く点滅している箇所を拡大し、忌々しげに息を吐き出した。


「計算上の理想的な骨格の可動域を、完全に無視しているんです。無理やり生身の筋肉の連動でアバターを制御しているような……異常な数値の羅列です。現在の当社のシステムでは、彼の出力を受け止めきれません」


 スイートルームに、重い沈黙が落ちた。

 サーバーの排熱と冷却ファンの低い唸り音だけが響く中、アマンダは無言でモニターを見つめていた。

 画面いっぱいに表示された、毒々しい赤色のエラーメッセージの群れ。その絶え間ない明滅が、彼女のダークアイズの奥で冷たく反射している。

 ほんの数時間前、彼女はホテルのラウンジであの無精髭の男の顔を見て、「数字は嘘をつかない」と口にした。

 アマンダは無意識のうちに、ルージュを引いた自分の下唇に指先を当てていた。

 視界を埋め尽くすアラートの赤光。無数のデータ群から最適解を導き出すはずのアルゴリズムが、ただ一人の男の肉体の挙動を処理しきれずに演算を停止している。

 整然と並ぶサーバーラックの列から目を逸らし、再びモニターに視線を戻す。ワイヤーフレームの奥に、汗と体温を持った男の視線が張り付いているような錯覚を覚えた。彼女はゆっくりと深く息を吸い込み、ポールを、そしてフロアのアナリストたちを見回した。


「……平野任三郎の過去の舞台映像、歩行データ、音声ログ。ネットの海から拾えるものはすべて拾い集めなさい。アジア・サーバーの計算資源をすべて回しても構わないわ」


 アマンダの声は低く落ち着いていたが、そこには以前の氷のような冷徹さとは違う、未知の領域に対する微熱を帯びた執着が滲んでいた。


「あの男の出す『エラー』の正体を、丸裸にするわ。絶対に、私たちの箱の中で出力させてみせる」


★★★★★★★★★★★


 同じ頃。

 東京都八王子市のはずれにある、築40年の木造アパート。

 ガタつくアルミサッシの隙間から、秋の底冷えのする風が容赦なく吹き込み、四畳半の部屋に古びた埃と古畳の匂いを漂わせていた。遠くを走る私鉄の摩擦音が、薄い壁を抜けて低く響いてくる。

 天井からぶら下がる紐を引っ張ると、円形の蛍光灯が数回チカチカと明滅し、やがて頼りない青白い光が部屋の輪郭を照らし出した。


 任三郎は、ミリタリージャケットを脱ぎ、パイプハンガーに無造作に掛けた。肩を回すと、関節の奥深くで膠が固まったような鈍い軋みが走る。

 コタツ机の上には、野口まつから突きつけられた分厚い商業演劇の台本と、河野由希子の赤い書き込みで真っ黒に染まった『過去編』の台本が、並んで置かれている。そしてその横には、数時間前にアマンダ・レインから手渡された漆黒の重厚な名刺。

 だが、任三郎は名刺を一瞥しただけで短く息を吐き出すと、ゆっくりと首を曲げて凝り固まった頸椎の関節を鳴らした。彼の胸の奥には、驚くほど波風が立っていなかった。


 その時だった。

 部屋の隅に丸めて放り出されていた毛布の山が、不自然な形にポコッと膨らんだ。


「……」


 任三郎が視線を落とすと、微かに布が擦れる音がして、隙間から灰色の丸い顔が覗いた。

 数日前に連れ帰ったばかりの、スコティッシュフォールドの子猫だ。

 任三郎の帰宅の気配で目を覚ましたらしい。子猫はまだ頭のサイズに対してアンバランスに小さな耳をピクピクと動かし、アンバーの丸い瞳で大男を見上げている。やがて大きく口を開けてあくびをし、鋭い犬歯を見せた後、短い足でよちよちとフローリングを歩いてきた。

 そのまま任三郎の足元まで来ると、短い尻尾をピンと立ててすねに身体をこすりつけ、「みゃあ」と短く、甘えた声を出した。


 任三郎はゆっくりと片膝をつき、無骨な右手で、子猫の体を腹の下からそっとすくい上げた。

 男の大きな手のひらに、すっぽりと収まってしまうほどの頼りない質量。

 だが、その柔らかな体毛の下からは、驚くほど速く規則的な心臓の鼓動と、混じり気のない確かな熱が伝わってくる。

 任三郎の指先が首筋をそっと撫でると、子猫は目を細め、喉の奥から「ゴロゴロ」と低いエンジン音のような振動を鳴らし始めた。その微細な振動が、任三郎の強張った腕の筋肉を伝い、極度に張り詰めていた神経を少しずつ解きほぐしていく。


「……腹が減ったか」

「にゃっ」


 返事をするように、子猫のザラザラとした小さな舌が、任三郎の親指の付け根を舐めた。

 任三郎は子猫を片手で抱えたまま台所のシンク前に立ち、アルミのパウチからゼリー状のキャットフードを陶器の浅い皿に絞り出した。匂いに反応した子猫が、腕の中でジタバタと短く身をよじる。

 床に皿を置くと、子猫はすぐに飛びつき、小さな口でクチャクチャと一心不乱に咀嚼し始めた。


 咀嚼音だけが四畳半に響く。任三郎は膝に両肘をつき、しゃがみ込んだ姿勢のまま、その小さな背中が餌を飲み込むために規則的に上下する様をただ静かに見つめていた。

 指先に残る、柔らかな体毛の感触と、小さな鼓動の記憶。

 任三郎は深く、長い息を吐き出した。冷たい空気が肺を満たし、疲労の沈殿した肉体の存在を改めて彼に突きつける。長時間のモーションキャプチャーによる特有のダメージが、大腿四頭筋の奥で重く疼いている。


 やがて子猫が食事を終え、口の周りを前足で器用に洗い始めたのを見届けてから、任三郎は立ち上がった。

 部屋の中央にあるコタツ机に向かい、冷たい座布団の上に胡座をかく。

 彼の手は、アマンダの黒い名刺には見向きもせず、迷うことなく由希子の赤い文字で埋め尽くされた台本を引き寄せていた。表紙をめくると、そこには彼自身の生々しい肉体と呼吸を極限まで縛り付ける、狂気的なト書きの群れが待ち受けている。

 任三郎は疲労で強張る右腕をゆっくりと動かし、傍らに置かれた黒のボールペンを握り直した。

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