第34話 外資の冷徹な眼差し
秋も深まり、築四十年の木造アパートの薄い壁をすり抜けてくる風は日を追うごとに冷たさを増している。ガタつくアルミサッシの隙間から入り込むその底冷えのする空気に抗うように、四畳半の部屋には昆布と鰹節の豊かな出汁の香りが静かに満ちていた。
コタツ机の上には、昨夜の底なしの葛藤の残滓であるラガヴリンのグラスと、野口まつから渡されたメジャーな商業演劇の分厚い台本が置かれたままになっていた。表紙には著名な演出家の名前がデカデカと印字されている。
任三郎はTシャツ姿で狭い台所に立ち、使い込まれた小鍋の前に立っていた。足元では、灰色のスコティッシュフォールドの子猫が、冷たいフローリングを避けるように任三郎の足の甲に乗り、短い尻尾を振りながら小さなあくびをしている。
昨夜のアルコールは完全に抜けているが、肉体の奥底には、骨の髄まで軋むような重い痛みがべったりと張り付いている。息を吸い込むたびに、肺の裏側で細かい砂が擦れ合うような違和感があり、「天ノ川シリウス」としてコンマ数秒単位の身体制御を強いられた代償が、全身の筋肉の繊維一本一本に深く刻み込まれていた。自身の輪郭を曖昧にするその深刻な消耗を振り払うように、任三郎は手を動かした。
まな板の上で、玉ねぎを繊維に逆らって極薄くスライスする。サクッ、サクッという包丁がまな板を叩く一定のリズムが、静かな部屋に響く。小鍋にほんの数滴のごま油を引き、玉ねぎを弱火でじっくりと炒める。縁が透き通り、ツンとした香りが熱を通されて甘い匂いへと完全に変わったところで、前夜から昆布と鰹節で引いておいた一番出汁を注ぎ込んだ。
玉ねぎの甘みが出汁に溶け出し、細かい泡が鍋の縁に浮き上がるのを待ち、沸騰する直前で火を止める。そこに、赤出しと信州味噌を7対3の割合で合わせたものを、小さな網で丁寧に溶き入れる。玉ねぎの自然な甘みと、合わせ味噌の鋭い塩気、そして出汁の深いコクが三位一体となって絡み合う匂いが、冷え切った台所の空気をじんわりと温かく染め上げていった。鼻腔をくすぐるその香りは、空きっ腹の胃袋を強く刺激する。
隣のコンロでは、小さなフライパンを火にかけていた。
市販の削り節を油を引かずに軽く空煎りし、水分を飛ばす。微かに白い煙が立ち、香ばしい匂いが弾けた瞬間に、醤油と数滴のみりんを回し入れた。ジュワッという激しい音とともに、フライパンの底で醤油が焦げる強烈な香ばしさと、みりんの甘い香りが爆発的に立ち上る。菜箸で手早くかき混ぜると、削り節に濃い味がギュッと凝縮されていく。即席の特製おかかだ。
炊飯器を開けると、艶やかに炊き上がった白米から熱い湯気が顔を激しく打った。任三郎はそれを一度木製の飯台に移し、しゃもじで切るように混ぜて余分な水分を飛ばし、米粒を立たせる。
両手を冷水で濡らし、少量の塩を手のひらにすり込む。
炊きたてで手から湯気が上がるほどの白米をすくい取り、中央に窪みを作った。一つ目には、スーパーで買ってきた瓶詰めの赤貝の佃煮をたっぷりと乗せる。濃い飴色に煮詰められた赤貝の照りが、白い米粒にじんわりと染み込んでいく。両手でふんわりと包み込み、米粒の間に空気を含ませるようにしながら、決して崩れない絶妙な力加減で、三手で三角形に整えた。
二つ目は、先ほど作った香ばしいおかか。
最後の一つには、昔ながらの塩と紫蘇だけで漬け込まれた、強烈な酸味を放つ大粒の梅干しを丸ごと忍ばせた。
古い平皿に三つの大きなお握りを並べ、傍らに大根の漬物を添える。イチョウ切りにした大根を塩揉みし、細切りの昆布と柚子の皮で軽く和えただけの浅漬けだ。
コタツ机の上に椀と皿を並べ、任三郎は胡座をかいた。
玉ねぎの味噌汁を一口啜る。熱い液体が食道を下り、空っぽの胃の腑にじわりと落ちていく。玉ねぎのトロトロとした自然な甘みと、合わせ味噌のシャープな塩気が、強張っていた胃の粘膜や筋肉を内側からゆっくりと解きほぐしていくのを感じた。
赤貝の佃煮のお握りに噛み付く。熱い白米の甘みの直後に、赤貝の磯の香りと濃厚な甘辛さが口いっぱいに広がる。弾力のある貝の食感が、咀嚼するたびに確かな満足感を与え、空腹を満たしていく。次に大根の漬物を齧ると、パリッとした軽快な音とともに柚子の爽やかな香りが鼻腔を抜け、口の中の脂を綺麗に洗い流した。
黙々と米を噛み砕き、栄養と熱を身体に取り込んでいく任三郎の視界の端には、まつの台本が横たわっている。
表紙に触れれば、上質な紙の質感と、インクの匂いが蘇るはずだ。マイクを通さず、己の肉体と汗の匂い、そして生身の喉の震えだけで空間を支配する大舞台。かつての自分がすべてを懸けて渇望し、そして届かなかった場所。
任三郎は梅干しのお握りを手に取り、その強烈な酸味でまとわりつく思考を強引に断ち切るように、大きく噛み付いた。
★★★★★★★★★★★
午後2時。
エレナが手配した黒塗りのハイヤーを降り、大理石が敷き詰められたエントランスを抜ける。専用のカードキーでしか止まらない静音エレベーターで一気に上昇し、指定されたのは、外資系高級ホテルの最上階にあるエグゼクティブ・スイートだった。
エントランスの喧騒とは無縁の、分厚く毛足の長い絨毯に足音を完全に吸い取られながら任三郎が部屋に入ると、壁一面を覆う巨大な一枚ガラスの向こうには、秋の澄んだ空の下、東京のコンクリートジャングルがミニチュアのように果てしなく広がっていた。高層階特有の、外界の音が一切届かない無菌室のような静寂がそこにはある。
部屋の中央に置かれた重厚な本革のソファには、二人の女が対峙していた。
一人は、ひどく硬い表情で脚を組み、腕を抱えているエレナ。彼女の視線は鋭く前を見据えているが、その肩口にはいつもの余裕がなく、ピンと張り詰めた糸のような緊張感が漂っている。
そしてもう一人は、漆黒のタイトなテーラードスーツを隙なく着こなした、見知らぬ外国人女性が足を組んで座っていた。艶やかなダークブラウンのストレートロングヘア。知性と気の強さを隠そうともしない、氷のように冷たく鋭いダークアイズ。上質な生地のスーツは座った姿勢でも一切のシワを作らず、完璧に手入れされた指先が、一切の迷いなく手元のタブレットを操作し続けている。
彼女は任三郎が入室しても立ち上がることはなく、画面から視線を外さずに、流暢な日本語で口を開いた。
「予定より3分遅刻。日本の交通インフラの正確性を考慮すれば、あなたのタイムマネジメントの甘さね」
「……俺はマネージャーの送迎で来ているわけじゃないんでな」
任三郎はヨレヨレのミリタリージャケットのポケットから手を出し、エレナの隣のソファに重い腰を下ろした。スプリングが深く沈み込む。
女性はタブレットの画面を指先で弾き、ようやく顔を上げた。任三郎の無精髭や安っぽい服装を一瞥したが、そこに蔑みや驚きの色は一切なかった。ただ、「A4のコピー用紙を認識した」程度の、完全に無機質で事務的な眼差しだった。
「初めまして。『ストリーム・ノヴァ』アジア統括ディレクターのアマンダ・レインよ」
世界最大の動画配信プラットフォーム。その名を出されても、任三郎の表情は全く動かなかった。
アマンダはテーブルの上のエスプレッソのカップを手に取り、一切の感情を交えずに話し始めた。
「単刀直入に言うわ。ギャラクシー・ライブとの契約を破棄して、ストリーム・ノヴァと直接、独占契約を結びなさい」
「……冗談でしょう」
エレナが低く、しかし明確な怒りを孕んだ声で遮った。
「彼はうちの専属契約タレントよ。引き抜きなら、正式なルートを通しなさい。それに、彼は『天ノ川シリウス』というキャラクター込みで成立しているコンテンツだわ。ガワを置いて彼だけを引き抜いて、どうする気?」
「ガワ?」
アマンダはエスプレッソのカップをソーサーに戻し、微かに口角を上げた。それは笑いではなく、計算式の間違いを指摘する教師のような冷たさだった。
「日本特有のガラパゴスなアニメ文化ね。二次元の絵を被って、狭いコミュニティで内輪受けの投げ銭を稼ぐ。確かに一時的な収益性は高いけれど、グローバル市場におけるスケールメリットは皆無よ。そんなもの、私は最初から評価していない」
アマンダはタブレットをテーブルの中央に滑らせた。
画面に表示されていたのは、任三郎が直近で行った配信の、異常なほど細分化されたデータグラフだった。同接数の推移、コメントから抽出されたポジティブ・ネガティブの感情分析、トラフィックの滞在時間、さらには音声波形と連動した視聴者の生体反応の予測モデルまで。それぞれが複雑な曲線を描き、一人の役者の演技を徹底的に数値化して丸裸にしていた。それは、芸術や感情といった曖昧なものを一切許容しない、冷徹な分析の結晶だった。
「私が評価しているのは、この『異常値』よ。同接15万という数字自体は、うちのトップストリーマーと比べれば珍しくもない。問題は、エンゲージメントの質。視聴者の滞在時間が、当社のアルゴリズムが弾き出した予測値を400%も上回っている。離脱率がほぼゼロ。テキストの感情分析も、既存のアイドルコンテンツのパターンと完全に乖離している」
アマンダの鋭い視線が、任三郎の碧眼を真っ直ぐに射抜いた。
「あなたは、ただの音声データやモーションデータの入力装置じゃない。空間そのものの空気を書き換える、未知のアルゴリズムを持っている。……それを、あんな薄っぺらいアニメの絵の下に隠しておくのは、世界の損失だわ」
「だから、うちのシステムを捨てて、あなたたちのプラットフォームで顔出しのストリーマーでもやれと?」
エレナが身を乗り出した。
「そんな泥臭い提案だと思っているの? 私たちは今、フルダイブ型の次世代VR空間を構築中よ。あなたのその細かな重心移動、呼吸のラグ、筋肉の軋み。それらすべてをコンマ1秒の遅延なく反映できる、最高峰のデジタルアバターと環境を用意する。……違約金はすべて私たちが持つわ。ギャラクシー・ライブという箱ごと買収してもいいけれど、上層部のノイズが多すぎてROIが合わないのよ」
アマンダの言葉は、熱を帯びることもなく、ただ淡々と事実だけを並べていく。
エレナは反論の言葉を飲み込み、膝の上で固く拳を握りしめた。
アマンダは腕を組み、背もたれに深く寄りかかりながら任三郎を見据えた。
「どうかしら。日本の狭い檻から出て、世界市場であなたのデータを出力しない?」
沈黙が落ちた。
ホテルの空調の低い唸りだけが響く中、任三郎は深く、長い息を吐いた。
彼はテーブルの上のタブレットに表示された無機質なグラフを一瞥し、それからアマンダの目を見た。
「……随分と、俺のことを高く買ってくれているようだな」
「数字は嘘をつかないから」
「そうだろうな」
任三郎は首の後ろを太い指で揉みほぐしながら、ひどく面倒くさそうに呟いた。
「だが、あんたの言う『異常値』ってやつは、俺一人の力で出たもんじゃない」
アマンダの完璧に整えられた眉が、理解できないバグコードを見つけたエンジニアのように、わずかにピクリと動いた。
「それは、プロデューサーの彼女の手腕だと言いたいの?」
「それもある。だが、それだけじゃない」
任三郎の脳裏に、赤ペンで真っ黒に塗りつぶされた由希子の狂気的な台本が浮かんだ。自分の演技を真正面から受け止め、さらにその限界を押し広げてくる真の描いた「ガワ」の存在。そして、見えないところでネットの悪意やノイズを完全に遮断してくれる英子の冷徹なサポート。
「綺麗なアバターと、遅延のないシステム。……なるほど、居心地は良さそうだ」
任三郎はソファからゆっくりと立ち上がった。189センチの巨体が真っ直ぐに伸びると、広いスイートルームの空気が一気に圧迫される。
「だが、俺が欲しいのは居心地の良さじゃない。血の味がするほどの『摩擦』だ。あんたの用意する無菌室じゃ、俺はただの息の詰まる機械にしかならない」
任三郎はミリタリージャケットの襟を正し、隣で呆気にとられているエレナを見下ろした。
「帰るぞ。猫の餌をやらなきゃならない」
エレナは数秒だけ瞬きを繰り返し、やがて小さく息を吐き出して口角を上げた。彼女はピンヒールを鳴らして立ち上がり、アマンダに向かって軽く会釈をした。
「……非合理の極みね。ただの感情論よ」
背後から、アマンダの氷のような声が飛んだ。
「だろうな」
任三郎は振り返ることなく短く応じ、重い足取りでドアへと向かった。
分厚い扉が閉まり、静寂が戻ったスイートルーム。
アマンダは革張りのソファに一人取り残されたまま、テーブルの上のタブレットを見下ろした。表示されたグラフの曲線は、彼女が構築した論理に決して収まらない「異常値」を示し続けている。
彼女はゆっくりと手を伸ばし、エスプレッソのカップを手に取った。すでに完全に冷めきった黒い液体を無言で飲み干すと、彼女はタブレットの画面を指先で弾き、電源を落とした。液晶の光が消え、暗転したガラス面に、彼女自身の無表情な顔がただ静かに映り込んでいた。




