第33話 揺れる葛藤
深夜の四畳半に、強烈な泥炭の煙と潮の匂いが漂っていた。
任三郎はコタツ机の前に胡座をかき、分厚いロックグラスを傾けていた。琥珀色の液体が氷の間をすり抜け、重い音を立てる。
スコットランド・アイラ島で作られるシングルモルトウイスキー、ラガヴリン16年。
正露丸にも例えられる強烈なヨード香と、喉の奥を焼くような深いコク。役者として小劇場の暗がりでくすぶり始めた20代の頃、偶然知り合った先輩の役者に一度だけオーセンティックバーで奢られて以来、いつか自分の金でこのボトルを買い、誰の目も気にせずに一人でグラスを傾けてやろうと心に決めていた酒だ。長年手の届かなかったその贅沢な液体は、皮肉なことに、己の顔も名前も完全に隠した「ギャラクシー・ライブ」からの特別報酬によって、ようやくこの隙間風の吹き込むボロアパートに持ち込まれた。部屋の片隅に積み上げられた安酒の空き缶の山とは、まるで住む世界が違うような黒いガラス瓶が、薄暗い蛍光灯の下で鈍く光っている。
一口含み、アルコールの鋭い熱が食道を下っていくのを感じながら、任三郎は首の後ろを太い指で揉みほぐした。
昨日までの連日の配信と収録で、肉体の奥底には神経を紙やすりで削り取られたような、ひどくヒリヒリとした痛みがべったりと張り付いている。モーションキャプチャースーツの不快な締め付けから解放されても、ミリ単位の身体制御を強いられた筋肉の強張りは、強い酒を入れなければ解けないほどに固まりきっていた。
肺の3割だけを満たす浅い呼吸。特定の母音を発する際の、舌と喉のわずかな摩擦のコントロール。歩行時の重心移動のコンマ数秒の遅延。それらの異常な制約は、普段の舞台で己の全存在をかけて空間に感情を叩きつけるのとは全く異なる種類の消耗を強いていた。生身の「平野任三郎」という人間の癖を限界まで殺し、データ上の「天ノ川シリウス」という完璧な器の中で息をする作業。それは文字通り、彼自身の細胞を一つひとつ別の形に組み替えるような行為だった。
足元の座布団では、灰色のスコティッシュフォールドが丸まり、規則的な寝息を立てている。時折、微かに耳をピクピクと動かし、小さな腹が上下するリズムだけが、過熱してこわばった脳を冷やしてくれる唯一の穏やかな時間だった。
コツ、コツ。
薄い玄関のドアから、控えめだが、妙に芯のあるノック音が響いた。
任三郎はグラスをコタツ机に置き、立ち上がる。時計の針は午前0時を回ろうとしていた。こんな深夜に、アポもなしにこの安アパートを訪ねてくる人間など、あの口の悪い女子高生くらいしか思い当たらない。
ドアチェーンをかけたまま、隙間を少しだけ開ける。
「……またお前か、英子」
そう言いかけて、任三郎の言葉は途切れた。
薄暗い外灯の下に立っていたのは、オーバーサイズのパーカーを着た少女ではない。
黒のトレンチコートの襟を立て、目深に被ったつばの広いハットと大ぶりのサングラスで顔の半分を覆い隠した女だった。だが、骨格の完璧なバランス、一切のブレがない立ち姿の重心、そして隙間からでも漏れ伝わってくる圧倒的な「華」は、安物の変装で隠しきれるものではない。
「開けて」
少しハスキーな声が、秋の夜風に乗って鼓膜を震わせる。
任三郎は無言のままドアチェーンを外し、重い鉄の扉を大きく開け放った。
野口まつは無遠慮に上がり込むと、ハットとサングラスを外し、狭い玄関の靴箱の上に無造作に置いた。プラチナブロンドのショートボブが、薄暗い蛍光灯の光を浴びて冷たく光る。
「相変わらず、ひどい部屋ね」
まつはトレンチコートを脱ぎながら、ささくれた畳と、壁際の万年床を一瞥した。テレビで見る華やかな彼女の姿とは裏腹に、その身のこなしには一切の隙がない。彼女が纏っている洗練された香水の匂いが、カビと埃の入り混じったアパートの空気を一瞬で塗り替えていく。安アパートの四畳半という空間が、彼女がそこに立つだけで、まるで映画のワンシーンのセットのように変質してしまう。
「何の用だ」
「旧友の顔を見に来ただけよ」
まつは手持ちの高級そうな紙袋から、黒いガラス瓶と、蝋引きの紙に包まれたいくつかの塊を取り出し、コタツ机の上に並べた。
ボルドー産のヴィンテージ赤ワイン。そして、デパ地下の高級店でしか見かけないような、青い大理石模様の入ったゴルゴンゾーラのブルーチーズと、ハーブとガーリックがたっぷりと練り込まれた分厚いクリームチーズだった。
「グラス、ある?」
「……棚の右だ」
まつは狭い台所に立ち入り、棚から安物のワイングラスを二つ取り出すと、手際よくボルドーのコルクを抜いた。コルクの底から、熟成されたカシスと湿った土の深い香りが弾ける。
彼女はコタツ机の前に胡座をかいて座り、二つのグラスに赤ワインを注いだ。
四畳半の空間に、ラガヴリンのむせ返るようなピート香、ボルドーの芳醇な果実味、ブルーチーズの鋭い青カビの匂い、そしてガーリックの濃厚な脂肪分の香りが入り混じる。それは、このボロアパートには致命的に似つかわしくない、ひどくアンバランスで贅沢な匂いだった。
「飲まないの?」
まつがグラスを差し出す。
任三郎は自分のロックグラスを手に取った。
「俺はこれでいい」
「そう。昔から頑固なところは変わらないわね」
まつは自分のグラスを軽く回し、一口だけ口に含んだ。目を細め、舌の上でワインを転がす仕草一つにすら、計算され尽くした女優としての色気が染み付いている。
「今日の昼間、あなたのプロデューサーに会ってきたわ。エレナとかいう、気の強そうな女」
任三郎のグラスを持つ手が、空中でピタリと止まった。
まつはテーブルの上のブルーチーズを指先で小さく千切り、口に運ぶ。強い塩気と青カビの刺激を、ボルドーの赤で洗い流してから、任三郎の碧眼を真っ直ぐに射抜いた。
「いつまで、あんなアニメの絵を被って、薄っぺらいモニターの向こう側で小手先の芝居をしているつもり?」
「……」
任三郎は何も答えず、ラガヴリンの琥珀色を見つめた。
「息を吸う時の右肺の癖。重心を落とす時の、あのタメ。誤魔化せるわけないでしょ。数年間、ずっと同じ板の上であなたの芝居の圧力を直接受けてきた私が、気づかないはずがない」
「あれが『小手先』に見えたなら、お前の目は節穴だ」
任三郎はラガヴリンを煽り、低く返した。
「見えたわよ。あなたの生身の肉体、汗、その場の空気を直接震わせるあの声。それらを全部ノイズとして切り捨てて、綺麗なだけのプログラムに変換して出力する。そんなもの、ただの自傷行為じゃない。あなたは、自分の本当の武器を自ら捨てて、小さな箱の中に逃げ込んでいるだけよ」
まつは持参した大きめのトートバッグを引き寄せ、中から一冊の分厚い冊子を取り出した。
表紙には、誰もが知る国内最高峰の劇場の名前と、著名な演出家の名が明朝体で印字されている。
「来年の秋。新国立での公演。私の主演・プロデュース作品よ」
まつは、その台本をコタツ机の上、ブルーチーズの横に滑らせた。
「相手役が、ずっと決まらなかった。オーディションで何十人も見たけれど、小綺麗にまとまったアイドル崩れの役者ばかりで、私の芝居の熱量を受け止めきれる人間がいなかった。セリフを綺麗に発声できるだけの操り人形なんて、私の隣にはいらないのよ」
まつの視線が、任三郎の大きな両手、分厚い胸板、そして無精髭の奥の瞳を順番に舐めるように動いた。
「戻ってきなさい。あなたの居場所は、オモチャの箱の中じゃない。私と同じ、血の通った板の上でしょ」
任三郎は、差し出された台本を見下ろした。
質の良い紙の匂い。真新しいインクの匂い。
かつて、どれほど渇望しても手が届かなかった、メジャーな大舞台。パイプ椅子を並べたキャパ50人の小劇場で、汗だくになりながら仲間と熱く語り合っていた頃から、誰もが目指していた場所だ。何千人もの観客の息遣いを直接肌で感じ、生身の肉体一つで空間を支配できる場所。マイクもスピーカーも通さず、自身の喉の震えだけで劇場の空気をビリビリと震わせ、客席の温度すら変えてしまう感覚。それは、役者を志した日から彼がずっと追い求めてきた頂の光景であり、本来なら迷うことなく飛びついているはずの切符だった。
無意識のうちに、任三郎の右手が動き、台本の表紙に触れていた。
指先から伝わる、確かな紙の重みと質感。それを感じた瞬間、彼の脳裏に、全く別の光景が鋭くフラッシュバックした。
――『肺の奥の空気をすべて吐き出し、0.5秒の静寂。そこから喉の奥を鳴らすように発声』
赤いインクで埋め尽くされた、由希子の狂気的なVTuber台本。
――『同接15万! 限界超えてます!』
地下スタジオの冷房の効いた空気。無機質な機材の唸り。
――『歩行周期、約1.2秒。……見事に寄せてる』
英子の冷徹な分析の声。
そして、暗闇の中で輝く巨大なモニターを完全に埋め尽くした、15万人の悪意と、それが反転して生まれた暴風のような熱狂の渦。物理的な距離も国境も超えて、数万人の感情とリアルタイムで殴り合う強烈な熱量。顔も名前も捨てた状態で、ただ純粋な「演技の質量」のみをモニターの向こう側に叩きつける、あの脳髄が焼き切れるような感覚。
「……」
任三郎は、台本に触れていた指を離した。
新国立の舞台。生身の芝居。それは確かに、役者・平野任三郎が目指してきた頂の一つだ。
しかし、あの地下スタジオでヘッドギアを被り、15万人の視線とテキストの奔流をたった一人で受け止めた時の、全身の血が沸騰するような感覚が、まだ指先にべったりと残っている。
「……即答はできない」
任三郎はラガヴリンのグラスを持ち上げ、氷をカラリと鳴らした。
「……そう」
まつは少しだけ目を伏せ、それ以上は踏み込まなかった。
「逃げないでよ、平野」
まつは立ち上がり、トレンチコートを羽織る。
「バーチャルだか何だか知らないけど。あなたが今こだわっているその場所ごと、私が現実に引きずり戻してあげるから」
ハットを目深に被り、彼女は玄関のドアを開けた。
冷たい秋の夜風が吹き込み、彼女の纏っていた香水の匂いと、ブルーチーズの香りを掻き回す。
ドアが静かに閉まり、金属質の足音が遠ざかっていった。
四畳半の部屋に、再び深い静寂が降りた。
任三郎は無言のまま、ガーリック風味のチーズを無造作に指でちぎり、口に放り込む。強烈な匂いと味が舌を覆う。すかさずラガヴリンを喉に流し込んだ。食道を焼きながら胃に落ちていくアルコールの熱が、今の彼にはひどく心地よかった。
コタツ机の上には、まつが置いていった新国立劇場の台本と、由希子が徹底的な制約を書き込んだ『天ノ川シリウス』の赤い台本が、並んで置かれている。
任三郎はグラスの底に残った琥珀色の液体を見つめながら、長く、重い息を吐き出した。




