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第32話 リアルからの宣戦布告

 底冷えのする風が、ガタつくアルミサッシの隙間から細く、しかし鋭く吹き込んでくる。時刻は午後2時を回ったところだが、厚い雲に覆われた秋の空はどこまでも薄暗く、四畳半の部屋にはどんよりとした影が重く落ちていた。

 任三郎はミリタリージャケットをパイプハンガーに掛け、色褪せたTシャツ姿のまま狭い台所の前に立っていた。足元では、灰色のスコティッシュフォールドの子猫が、任三郎の足の甲を枕にするようにして丸まり、微かな寝息を立てている。冷え切ったフローリングの床の上で、その小さな毛玉から伝わってくる体温だけが、唯一の確かな熱だった。

 昨夜の長時間の配信は、任三郎の肉体に深い爪痕を残していた。自身の生活の癖を根本から殺し、架空のキャラクターの骨格と呼吸をミリ単位で維持し続ける異常な稼働。肩甲骨の裏側には鉛のような鈍い痛みがべったりと張り付き、全身の筋肉は水分を限界まで絞り切られた雑巾のようにひどく強張っている。ただ万年床で休眠するだけでは、この深刻な消耗は回復しない。失われた塩分とカロリーを、細胞の隅々が内側から強烈に欲し、鋭い警鐘を鳴らしていた。


 冷蔵庫の野菜室を開け、濃い緑色の葉が幾重にも重なり合ったターサイを取り出す。根元に固く詰まった泥を冷水で丁寧に洗い流し、ザルに上げて水気をしっかり切ってから、包丁で手早くざく切りにする。古い刃先がまな板を叩くリズミカルな音が、静かな部屋に小気味よく響く。続いて、厚切りのベーコンを短冊状に均等に切り分けた。

 そして、戸棚の奥から小さなガラスの空き瓶を取り出す。中には、赤黒いペースト状の調味料がぎっしりと詰まっている。先日、かつて深夜の清掃バイトで世話になった馴染みの中華レストランの店主を訪ね、「どうしても」と無理を言って分けてもらった特製のXO醤だ。スクリューキャップを開けた瞬間、干し貝柱と干しエビ、金華ハムの熟成された旨味が複雑に絡み合った芳醇な香りが鼻腔を強く突いた。


 使い込まれた重い鉄の中華鍋を強火にかけ、油を十分に馴染ませる。白い煙がうっすらと立ち上ったところで、まずは短冊切りのベーコンを放り込む。ジューッと甲高い音が弾け、豚の脂がじっくりと溶け出して甘い匂いが立ち上った。カリッとした焼き目がついたところに、ターサイを一気に投入する。葉の水分が熱い油と反応し、バチバチと激しい音を立てる。任三郎は顔色一つ変えず、大きな手で中華鍋の柄を握り、手首の鋭いスナップを効かせて炎を絡ませていく。葉が鮮やかな緑色に透き通った瞬間、XO醤を大さじ一杯加え、少量の酒で鍋肌から香りを立たせた。濃厚な海鮮の香ばしさが爆発し、一瞬にして台所の冷たい空気を圧倒的に塗り替える。


 隣の狭いコンロでは、使い込んだ鉄のフライパンで餃子を焼いている。あらかじめ包んでおいた大ぶりの餃子を隙間なく並べ、熱湯を注いでガラス蓋をする。パチパチという水分の弾ける音が、チリチリという乾いた音に変わった絶妙なタイミングで蓋を開け、鍋肌からごま油をさっと回し入れた。香ばしい匂いと共に、餃子の底に美しいきつね色の焼き目がつく。

 小鍋で鰹の出汁を取り、薄切りにした玉ねぎを煮立てる。玉ねぎが完全に透き通り、甘みが十分に引き出されたところで火を止め、味噌を静かに溶き入れる。決して沸騰させない、味噌の繊細な風味を殺さないための完璧な温度管理だ。


 古い折りたたみテーブルの上に、一人分の食事が並べられた。

 ターサイとベーコンのXO醤炒め。パリッと焼き上がった大ぶりの餃子。小皿に盛られた黄色い大根の漬物と、大粒の梅干し。よく練り上げて白っぽく糸を引く納豆。湯気を立てる玉ねぎの味噌汁。そして、炊飯器からよそった熱々の白飯。


「いただきます」


 短く呟き、任三郎は割り箸を割った。

 まずは玉ねぎの味噌汁を啜る。出汁の深い香りと玉ねぎの優しい甘みが、疲弊しきった胃の腑にじんわりと染み渡っていく。

 次に、XO醤炒めを白飯の上に乗せ、一緒にかき込む。ターサイのシャキシャキとした食感とわずかなほろ苦さに、ベーコンの脂、そしてXO醤の奥深い海鮮の旨味とピリッとした辛味が複雑に絡み合う。噛み締めるほどに干しエビと貝柱の風味が口いっぱいに広がり、白飯が際限なく進む。

 合間に大根の漬物をかじり、口の中をリセットする。熱々の餃子を酢醤油につけ、豪快にかぶりつく。カリッとした皮を破ると、豚肉とニラの熱い肉汁が溢れ出す。それを納豆ご飯で一気に追いかけ、最後に酸味の強い梅干しで味覚を引き締める。

 誰に見せるわけでもない。ただひたすらに、己の肉体を維持し、次の芝居のエネルギーを生み出すための切実な行為。口を動かし、カロリーを摂取するたびに、強張っていた筋肉に少しずつ確かな熱が戻っていくのを感じる。

 一滴の味噌汁も残さず平らげると、任三郎は短く息を吐いた。

 急須で淹れた熱い烏龍茶をマグカップに注ぎ、一口飲む。青々とした茶葉の香りと強い渋みが、口の中に残った豚の脂や油分を綺麗に洗い流し、深い余韻だけを残した。


★★★★★★★★★★★


 同じ頃、都心の一等地にあるギャラクシー・ライブのオフィスエントランス。

 黒を基調とした洗練された広大な空間に、カツン、カツンと、硬質なヒールの音が容赦なく響き渡っていた。

 プラチナブロンドのショートボブ。ハイブランドの黒いレザージャケットに、脚のラインを際立たせるスキニーデニム。目元を大きなサングラスで隠しているが、全身から発せられる圧倒的な「華」と隙のないオーラは、すれ違う社員たちの足を強制的に止めさせていた。誰もが息を呑み、その姿を無意識に目で追ってしまうほどの絶対的な存在感。

 野口まつ。国民的トップ女優。

 受付のタブレット端末には目もくれず、彼女はそのままセキュリティゲートの前に立った。


「プロデューサーのエレナ・クルスを呼んで。アポはないけど、野口まつが来たと伝えれば分かるわ」


 少しハスキーで、しかし空間を完全に支配する芯のある声。受付の女性は気圧され、震える手で内線をかけた。


 数分後。最上階の応接室。

 マホガニーの重厚なテーブルを挟み、エレナとまつは対峙していた。

 エレナはタイトなパンツスーツの背筋を伸ばし、運ばれてきたエスプレッソのカップを静かにテーブルに置く。


「突然のご訪問、驚きました。野口まつさんほどのトップ女優が、弊社のようなバーチャルタレントの事務所に何の御用でしょうか」


 まつは革張りのソファに深く腰掛けたまま、サングラスをゆっくりと外した。肉食獣のような鋭い瞳が、真っ直ぐにエレナを射抜く。


「単刀直入に言うわ。天ノ川シリウスの……今の『中の人』、平野任三郎よね?」


 エレナの表情筋は微塵も動かなかった。


「弊社のタレントのプライバシーや、契約事項に関わるご質問にはお答えできません」

「隠さなくていい。あの重心の置き方、間の取り方。セリフを発する直前の、右の肺だけを満たすような不器用な吸気の癖。彼以外にいない」


 まつはテーブルに身を乗り出した。


「数年前、小劇場でずっと一緒に板の上に立っていたの。彼の芝居の癖は、私の細胞が全部覚えてる。客席の空気を重く沈ませる、あの汗の匂いすらね」


 エレナは冷ややかな視線を返す。


「仮にそうだとして。それが何か問題でも?」

「大ありよ」


 まつは低く、明確な怒りを孕んだ声を漏らした。


「彼の才能は、生身の肉体と汗と、その場の空気を直接震わせてこそ真価を発揮する。それなのに、あんな……二次元のアニメ絵を被って、薄っぺらいモニターの向こう側で小手先の芝居をしている。才能の無駄遣いもいいところだわ」


 まつはエレナを真っ向から睨みつけた。


「彼を、あんなオモチャの箱から返して」


 オモチャの箱。

 その言葉を聞いた瞬間、エレナはピタリと動きを止めた。

 タイトなスーツに包まれた小さな肩が、わずかに上下する。テーブルの上に置かれたエスプレッソのカップの横で、彼女の指先がゆっくりと丸まり、拳が作られた。切れ長のブラウンの瞳が、限界まで冷たく細められる。


「……オモチャ、ですか」


 エレナは口角を微かに上げ、ひどく冷徹な声で応じた。


「国民的トップ女優ともあろう方が、随分と底の浅い見方をされるのですね」


 まつがピクリと眉をひそめる。

 エレナは手元のタブレットを操作し、壁面の大型モニターに直近のシリウスの配信データを表示させた。右肩上がりに跳ね上がる同接数のグラフと、画面を完全に埋め尽くすほどの、15万人の視聴者による熱狂的なコメントの奔流。


「この『オモチャの箱』の中で、彼が今、どれだけの観客の魂を揺さぶっているか。あなたはご存知ですか?」


 エレナは立ち上がり、まつを見下ろした。


「彼は今、15万人の感情を同時に支配しています。物理的な劇場のキャパシティを遥かに超えた空間で、声とわずかな身体の連動だけで、何十万という人間に『そこに生きている』と錯覚させている。小手先の芝居? 笑わせないで。彼が自身の肉体を極限まで解体し、再構築した血の滲むような結果よ」

「だからこそよ」


 まつも立ち上がり、一歩も引かずにエレナの視線を受け止めた。


「あんな作り物のガワを通さないと伝わらないなんて、彼の芝居への冒涜だわ。肉体の熱量を、そのまま直接観客にぶつければいい」

「本物かどうかを決めるのは、あなたじゃない。観客よ」


 エレナの言葉が、鋭く応接室の空気を切り裂いた。


「彼は今、間違いなく『天ノ川シリウス』として、最高の板の上に立っている。彼を縛り付けているのは私たちじゃない。彼自身の、役者としての純粋な飢餓感よ」


 まつは反論しようと口を開きかけ――そのまま、言葉を失った。

 先日の配信。画面の中で片膝をつき、絞り出すような声で語りかけてきたシリウスの姿が脳裏を過る。デジタルな空間の空気を自身の生々しい間合いへと強引に引きずり込む、あの底なしの引力。

 まつは奥歯を強く噛み締め、わずかに視線を落とした。応接室に重い沈黙が流れる。

 やがて、彼女はゆっくりと顔を上げ、サングラスをかけ直した。


「……なら、証明してあげるわ」


 まつは振り返り、ドアへ向かって歩き出す。


「彼が一番輝くのは、現実の板の上だってことを。私が、あいつを引きずり出してやる」


 カツン、と硬質なヒールの音を残し、まつは応接室を後にした。

 残されたエレナは、完全に冷め切ったエスプレッソを飲み干し、タブレットの画面に映るシリウスのグラフを静かに見つめ続けていた。

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