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第4話 ママの拒絶

 スタジオのメイン照明が点灯し、無機質な白色光が再び広大な空間を満たした。

 任三郎は大きく息を吐き出しながら、額から伸びるアームごと重たいヘッドギアを取り外した。密閉されていた頭部に地下特有の冷房の効いた空気が触れ、じわりと汗が冷えていく。頭髪はべったりと束になり、黒いモーションキャプチャースーツの首元や脇の下はすでにじっとりと湿り気を帯びていた。

 たかだか数分間、歩いて短い台詞を口にしただけだ。しかし、これまでの人生で染み付いた生活の癖を力技で抑え込み、架空の王子様として骨格の動かし方をゼロから再構築する作業は、想像以上に過酷だった。舞台で何時間も通し稽古をした直後のように、全身の筋肉がかすかに強張り、奥歯の噛み合わせがじんわりと痛む。

 単なる演技ではない。呼吸の深さ、視線の動かし方、指先のわずかな震えに至るまで、自分という人間から発せられる生々しいノイズを殺し、二次元のフィルターを通して出力される「美しさ」へと瞬時に変換しなければならない。それは、自己を削り落として別の器に流し込むような、異常な集中力を要求される作業だった。

 パイプ椅子の上に置かれたスポーツドリンクのペットボトルを手に取り、喉を鳴らして半分ほど流し込む。ぬるくなった甘い液体が、空っぽの胃の腑に落ちていくのを感じた。

 コントロール卓の周辺では、エレナが数人のスタッフたちと足早にデータの確認を行っている。


「右手の指先、トラッキングの追従がわずかに遅いわ。数フレーム詰めて」

「フェイシャルの感度はどうですか。彼の場合、少しの表情筋の動きでもデータに大きく反映されてしまう。ノイズの閾値を上げて」


 モニターに映る数値の羅列を指差し、鋭い声で修正を指示する緊迫した空気が漂う。明日の配信に向けて、わずかな違和感も残さないための徹底した調整が行われているのだろう。

 少しだけ休憩を取ろうと、任三郎が首を回して肩周りの筋肉の張りをほぐし始めた時だった。


 背後にあるスタジオの分厚い金属製の防音扉が、乱暴な音を立てて開け放たれた。

 入室のセキュリティロックを強引に解除したような荒々しい音に、コントロール卓のスタッフたちが一斉に作業の手を止め、振り返る。


「ちょっと、勝手に入られちゃ……」


 機材の陰から制止しようとした若手スタッフの言葉は、侵入者の姿を見た瞬間に中途半端に飲み込まれた。

 コツ、コツ、と硬いヒールの音が静電気防止マットに深く沈みながら近づいてくる。

 現れたのは、ひどく場違いなほどに華やかな若い女だった。

 年齢は20代になったばかりだろうか。丁寧にブリーチされたブロンドヘアが、苛立ったような歩調に合わせて肩口で揺れる。ハイブランドのロゴが控えめに入ったオーバーサイズのパーカーに、露出の多いデニムのショートパンツ。細く長い脚の先には、攻撃的なデザインの分厚いブーツを履いている。意志の強そうな瞳と、不機嫌に歪んだ形の良い唇。

 ケーブルが這い回る薄暗い機材室や、何時間も男たちがこもって作業を続ける汗臭い地下スタジオの空気とは全く無縁の、スポットライトの下だけを歩いてきたような圧倒的な存在感だった。

 だが、その美しく整った顔には、隠しようのない明らかな怒りが張り付いている。

 彼女がずかずかとコントロール卓に向かって直進していくと、周囲のスタッフたちが慌てて左右に道を空けた。


「エレナ。どういうことか説明して」


 女はエレナの前に立ち止まり、パーカーのポケットに両手を突っ込んだまま冷たい声を投げつける。

 エレナは手元のタブレットから視線を上げ、小さくため息をついた。


「真。今日は打ち合わせの予定はなかったはずだけど。エントランスのパス、まだ生きていたのね」

「質問に答えて。シリウスの中身が変わるって、どういうこと? 私に一言の相談もなく、勝手に新しい魂を入れるなんて、契約違反じゃないの」


 上野真。

 SNSで圧倒的なフォロワー数を誇り、天ノ川シリウスというキャラクターのビジュアルをゼロから生み出した天才イラストレーター。業界の慣例に倣い、ファンや関係者からは親しみと敬意を込めて「ママ」と呼ばれている女だ。


「事態が急を要したのよ。あなたに相談している時間すらなかった。それに、ガワの権利はあなたにあっても、キャスティングの決定権はプロデュース部にある」


 エレナの事務的な返答に、真は鼻で笑う。


「時間がないからって、その辺の適当な声優を拾ってきたわけ? ふざけないで。シリウスは私の最高傑作なのよ。完璧なバランス、完璧な表情。あの子の美しさを少しでも損なうような三流の役者を入れるくらいなら、いっそ引退させて伝説のまま終わらせた方がマシよ」


 真の早口なまくし立てを、エレナは表情一つ変えずに正面から受け流す。


「三流かどうかは、あなたの目で判断しなさい。ちょうど今、彼にモーションと声のテストをやってもらっていたところだから」


 エレナが顎でスタジオの中央を示す。

 真は不機嫌な顔のまま、エレナの視線の先を追った。


 そこには、黒いモーションキャプチャースーツを着て、汗まみれの顔をタオルで拭いている、無精髭の大男が立っていた。

 任三郎と真の視線が交差する。

 数秒の、完全な沈黙。

 真の鋭い視線が、任三郎の足元から頭の先までを、まるで汚物でも検分するように冷ややかになぞった。スーツ越しにも分かる大柄で無骨な骨格。手入れされていない無精髭。隠しきれない生活のくたびれと、加齢に伴う泥臭さ。それらすべてが、彼女の神経を逆撫でしているのが分かった。

 真の顔から、怒りよりも先に純粋な嫌悪感が引き出される。


「……エレナ。冗談でしょ?」


 声が微かに震えていた。


「彼が、新しい魂よ。平野任三郎さん。舞台を中心に活動している」

「舞台? そんなのどうでもいいわよ!」


 真は顔を強張らせて声を荒らげ、任三郎に向かって大股で歩み寄った。厚底ブーツの底が床を強く叩き、静かなスタジオに響き渡る。

 任三郎の目の前で立ち止まると、彼を鋭く見上げた。彼女から漂う高級な甘い香水の匂いが、スタジオの埃っぽく汗臭い空気に混じる。


「あんたが、シリウスをやるの?」

「……その契約で、ここに呼ばれた」


 任三郎は首に掛けたタオルを握り、淡々と答えた。若い女の敵意ある視線に晒されるのには慣れている。劇団の稽古場でも、少しでも容姿の優れた若手女優からは、いつもこうした得体の知れない小汚いものを見る目を向けられてきたからだ。


「信じられない。ねえ、鏡見たことある? あんたみたいな薄汚いおっさんが、私のシリウスのガワを被るの? 吐き気がする」


 辛辣な言葉がスタジオに響く。スタッフたちが気まずそうに目を逸らす中、任三郎は眉一つ動かさなかった。


「あのアバターの絵を描いたのは、あんたか」

「そうよ。私の最高傑作なんだから。あんたみたいな、現実の泥水すすってるような汚い男が入る余地なんて、どこにもない」


 真は任三郎の胸元を、爪先で小突くように指差した。


「いい? 私の絵はね、あんたみたいな売れない役者が現実逃避するための都合のいい着ぐるみじゃないのよ。私の絵を、汚すな」


 任三郎は目を伏せ、首にかかったタオルの端を強く握りしめた。

 舞台の脚本家や演出家の中にも、彼女と同じ種類の人間はいる。自分の生み出した完璧な世界観に、生身の役者が持ち込むノイズが混じることを極端に嫌う潔癖な狂気。彼らは皆、自分の作品を愛するがゆえに、他者を平気で傷つけることができる。


「……あんたの言い分はもっともだ」


 任三郎はぽつりとこぼした。


「俺もさっきモニターを見て気味が悪かった。あんな綺麗な絵の裏側で、俺みたいなのが動いてるんだからな。悪趣味だ」

「分かってるなら……!」

「だが、降りられない」


 真の言葉を遮るように、低く太い声が落ちる。


「俺はプロデューサーに雇われた。……あんたの絵がどれだけ高尚かは知らないが、俺には明日の飯がいる。……言われた通りに動かすだけだ」


 少し言葉を淀ませながらも淡々と告げられた事実に、真の表情が怒りで一気に朱に染まる。


「……最低。キャラクターへの愛も何もない、ただの金目当てじゃない。そんな中身スカスカの男に、私のシリウスが演じられるわけない!」

「真、そこまでよ」


 背後から、エレナが静かに、しかし絶対的な冷たさを伴った声で制止した。

 エレナは二人の間に歩み寄り、手元のタブレットを真の胸元へ向ける。


「芸術論を語りたいなら他所でやりなさい。ここはビジネスの現場よ。天ノ川シリウスの復帰配信は、明日の21時に設定したわ。すでに公式アカウントで告知も打っている」

「明日!? ちょっと待って、そんなの聞いてない! こんな得体の知れない男を、いきなり明日の本番に出すつもり!?」

「止めている時間は1秒もないの。文句があるなら、彼の明日の配信を見てからにしなさい」


 エレナの有無を言わさぬ通告に、真はギリッと奥歯を噛み締めた。

 彼女はプロデューサーを睨みつけ、それから再び任三郎へと視線を移す。その瞳には、一切の妥協を許さない冷酷な光が宿っていた。


「……いいわ。見ててあげる」


 真は任三郎から一歩距離を取り、冷たく言い放つ。


「明日の配信、最初から最後まで監視してやる。もし1ミリでも、あんたのその汚い現実の臭いが画面から漏れ出たら、私は即座にSNSで『今のシリウスは偽物だ』って告発する。キャラクターデザインの降板も発表するわ。そうなれば、ファンはこの会社ごとあんたを炎上させて焼き尽くす」

「真!」


 エレナが鋭く名前を呼んだが、真はもう振り返らなかった。


「せいぜい、ボロを出さないように必死に王子様のフリをすることね、おっさん」


 最後にそれだけを吐き捨てると、真は身を翻し、来た時と同じように荒々しい足音を立ててスタジオから出て行った。

 分厚い防音扉が閉まる重い音が響き、スタジオに再び静寂が戻る。

 スタッフたちは居心地悪そうにモニターに向き直り、無言でキーボードを叩き始めた。


 任三郎は首に掛けたタオルで顔の汗を乱暴に拭う。

 明日の21時。

 顔も名前も隠した、得体の知れないバーチャルという空間での初舞台。だが、そこに乗っているプレッシャーは、これまでのどんな小劇場の舞台よりも重く、生々しいものだった。


「……手厳しい嬢ちゃんだ」


 独り言のように呟くと、隣に立つエレナがタブレットを小脇に抱え直した。


「彼女の言う通りよ、平野さん。明日の配信で、もしファンに『中身が変わった』と悟られれば、その瞬間に全てが終わる。彼女の告発を待つまでもなく、大炎上して終わりです」


 エレナは任三郎の目を真っ直ぐに見据える。


「あなたのその泥臭い現実を、絵の具の下に完全に封じ込めることはできますか」


 任三郎は自分の足元へ視線を落とした。黒いスーツに包まれた大きな足が、静電気防止マットの上に不格好に立っている。

 泥臭い現実を完全に消し去ることなど、誰にもできはしない。自分は、引き出しの中にある生の感情と肉体の癖を使ってしか、役を構築できない不器用な役者だ。


「……さあな」


 短く返し、パイプ椅子からミリタリージャケットを引き寄せた。


「だが、やるしかないだろう。もう前金をもらう約束になっちまったからな。降りるという選択肢は、俺の口座残高には用意されていない」


 それだけを言い残し、彼は残りのスポーツドリンクを煽るため、水滴のついたペットボトルへ手を伸ばした。

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