第5話 初配信、絶望の空気
配信開始時刻の15分前。
地下スタジオの空気は、前日までのテスト稼働時とは比べ物にならないほど張り詰めていた。
冷房は限界まで効いているはずだが、機材から発せられる熱気と、人口密度の高さからくる湿度が肌にまとわりつく。足元に這う何本もの太いケーブルを避けながら、スタッフたちがせわしなく駆け回る。コントロール卓の巨大なモニター群には、配信用のプラットフォーム画面、3Dアバターの制御ソフト、音声の波形データ、そして各サーバーの負荷状況を示す無数のグラフがひしめき合っている。数名のスタッフがヘッドセットを装着し、それぞれの画面に噛みつくようにしながら手元のキーボードを絶え間なく叩き続けていた。
「フェイシャルトラッキング、同期正常。レイテンシ規定値内です」
「音声フィルター、最終プロファイル適用済み。出力テスト良好」
「同接の待機人数、現在8万人。9万に届きます。トラフィック監視継続」
無機質な専門用語が飛び交う中、任三郎はスタジオの中央、床にバミリのテープが十字に貼られた位置に一人立っていた。
黒いモーションキャプチャースーツに身を包み、重たいヘッドギアを被っている。額から伸びたアームの先にある小型カメラが、任三郎の微細な表情筋の動きを拾い上げるために冷たいレンズを向けている。肌に密着するスーツの締め付けは相変わらず窮屈で、わずかに身体を動かすだけで化学繊維が擦れる音が耳の奥で響いた。関節部に付いた銀色のマーカーが剥がれないよう、歩き方すら気をつけなければならない。だが、不思議と昨日のような居心地の悪さは薄れている。これは舞台衣装であり、自分の足元にあるテープの印は板の上だ。そう割り切ることで、肉体は徐々に開演前の役者の状態へと移行していく。
視界の先にある巨大なモニターには、すでに「天ノ川シリウス」の3Dモデルが待機状態の姿勢で立っていた。背景は、宇宙空間を航行する豪華客船のラウンジを模したCGだ。窓の外には無数の星が瞬いている。
耳に装着したイヤモニから、かすかなホワイトノイズ混じりにエレナの低く落ち着いた声が聞こえてきた。
『平野さん。音声の最終チェックを行います。台本の冒頭部分を、マイクに通してください』
任三郎はへその下に軽く力を込め、ゆっくりと肺の淀んだ空気を入れ替える。昨日掴んだ感覚を頼りに、自分の骨格の重心を引き上げ、頭の先から足の裏までの神経の通り道を、アバターの骨格へと繋ぎ直していく。
「皆の衆、ごきげんよう。星の海から君に会いに来た、天ノ川シリウスだよ」
調整を重ねたボイスチェンジャーが、任三郎の低く掠れた声を、甘く滑らかなテノールへとリアルタイムで変換し、スタジオのスピーカーから出力した。
『……問題ありません。ピッチもトーンも、データと一致しています』
エレナの声には、わずかな安堵の色が混じっていた。
『配信開始まであと5分。画面の右側にコメント欄が表示されます。基本的には台本通りに進行しつつ、拾いやすいコメントだけを適当に読み上げてください。悪意のある書き込みはモデレーターが随時削除しますので、一切反応しないで』
「了解した」
任三郎は首を軽く回し、ポジションを固定する。手元にはスタンドに立てられた数枚の台本がある。
昨日の今日で、ろくに通し稽古もしていないぶっつけ本番だ。プロの役者としてはあり得ないスケジュールだが、劇団の公演で代役が急病で倒れ、開演数時間前に全く別の役を押し付けられた経験なら何度もある。与えられた台本と設定を瞬時に飲み込み、形にする。それだけの話だ。
スタジオのメイン照明が落とされ、赤外線カメラの放つ赤い光の瞬きだけが暗闇に浮かび上がる。
「配信開始1分前」
ディレクターのカウントダウンが始まった。スタジオ内の空気が一層重くなる。
「30秒前」
「10秒前。……5、4、3、2、1。配信スタート」
モニターの右側に配置されていた黒いウィンドウが、突如として白い滝のような勢いで動き始めた。
『待ってた!』
『シリウスおかえりー!』
『心配したよ』
『ずっと待ってた』
『体調大丈夫?』
『うおおおおおお』
『きたあああああ』
秒速で下から上へとスクロールしていく無数のテキスト。それが、待機していた10万人を超えるファンからの第一声だった。文字の連なりが早すぎて、個々の文章をまともに目で追うことすら難しい。
任三郎は唇の両端をミリ単位で持ち上げ、カメラに向かって優雅に右手を振る。
「皆の衆、ごきげんよう! 星の海から君に会いに来た、天ノ川シリウスだよ」
モニターの中の金髪の王子様が、満面の笑みで同じように手を振った。
コメントの速度がさらに加速する。歓喜の言葉や、拍手、流れ星を意味する絵文字が画面を隙間なく埋め尽くしていく。
滑り出しの反応は悪くない。任三郎は手元の台本に視線を落とし、王子様としてのトーンと姿勢を崩さずに言葉を紡ぐ。
「心配かけてごめんね。ちょっと喉の調子が悪くて、自分の星で少しだけ休ませてもらってたんだ。でも、もう大丈夫。今日は君たちと、いっぱいいろんなお話をしたいな」
胸に手を当て、少しだけ伏せ目がちに微笑む。ファンへの誠実さと、心配をかけたことへの申し訳なさを表現するためのモーション。
だが、その台詞を言い終えた直後だった。
怒涛のように流れる歓喜のコメントの中に、異物が一つ、また一つと混じり始めた。
『あれ?』
『なんか今日、声低くない?』
『マイク変えたのかな』
『シリウス、こんな喋り方だっけ』
『間の取り方が違うような……』
インカム越しに、コントロール卓のスタッフが息を吸い込む気配が伝わってきた。
任三郎も、モニターの右側を流れるその文字列を正確に捉えていた。
声のトーンやピッチは、機械によって前任者と同じ数値に設定されているはずだ。骨格の動かし方も、映像資料を見て模倣した。言葉を発する前の吸気、語尾の消え際の息の抜き方、コンマ数秒のリズム。それらすべてを意識して演じている。
それでも、疑問符は瞬く間に連鎖し、画面の中で急速に増殖していく。
『なんか違和感ある』
『風邪の後だから?』
『いや、声の出し方が根本的に違う気がする』
『絶対声違う』
『なんか怖いんだけど』
任三郎は奥歯を噛み締め、台本の次の行へと進んだ。ここで立ち止まるわけにはいかない。
「休んでいる間、みんなのメッセージ、全部読んでたよ。本当に励みになった。ありがとう」
少しトーンを上げ、明るさを強調する。
その対応が逆に疑念の火に油を注ぐ結果となった。
『今の言い方、完全に別人』
『え、誰これ』
『中の人変わった?』
『嘘でしょ、ありえない』
コメントの流れが、歓喜から疑念へ、そして明確な敵意へと変質していく。
文字の群れが、任三郎の視界を暴力的に埋め尽くす。
舞台の客席からの野次とは全く違う、テキストという冷酷な形を持った悪意。それがリアルタイムで画面の右側に打ち込まれ続ける。
『偽物』
『シリウスを返せ』
『誰だお前』
『ふざけんな』
『運営説明しろ』
「え、エレナさん! 同接が異常なペースで増えてます! どこかの掲示板で配信のURLが貼られたみたいで、野次馬が一気に……!」
「コメントのネガティブ判定、システムで弾ききれません!」
スタッフのパニックに陥った悲鳴に近い声が、インカムから漏れ聞こえる。
『モデレーター、悪質なスパムと暴言は手動でもいいから即座にBANして! NGワードのレベルを最大に引き上げなさい!』
エレナの鋭い指示が飛ぶ。だが、数万人規模にまで膨れ上がった群衆の暴走を、わずかな人数の手作業で止められるはずがなかった。高額な赤いスーパーチャットの帯とともに、画面の中央にデカデカと『偽物降りろ』という文字が表示されては消えていく。
任三郎の足の裏から、じっとりと冷たい汗が湧き出ていた。
スーツの中の背中を、嫌な汗が伝い落ちていく。鼓動が早鐘のように打ち始め、イヤモニのノイズ越しに自分の血流の音がドクドクと聞こえる。
任三郎はスーツの中で拳を強く握り込み、喉の奥の強張りを無理やり飲み込んだ。
「みんな、心配かけちゃってごめん。まだ本調子じゃなくて、声が少し変かもしれないな」
なんとか場を収めようと、台本から外れてフォローの言葉を紡ぐ。
焦りから出たその台詞は、王子様としての軸がわずかにブレていた。語尾の処理、息の抜き方、不自然な間。それらすべてがノイズとなってマイクに乗る。
『キモい』
『おっさん臭いんだけど』
『マジで誰だよお前』
『降りろ』
『最悪』
『詐欺会社』
『シリウスを汚すな』
コメントのスクロール速度がさらに跳ね上がる。文字の残像が白く繋がって見えるほどの濁流。
モニターの中の天ノ川シリウスが、ぎこちなく口角を引きつらせて固まっていた。
「……」
言葉が出ない。
次に何を言うべきか、どう動けばこの空気を覆せるのか。手元のスタンドに置かれた台本の文字が、ただの黒い染みのようにぼやけて見える。
任三郎の口がわずかに開き、そしてそのまま凍りついたように動かなくなる。
インカムからはスタッフの混乱する声と、キーボードを叩く乱暴な音が途切れ途切れに聞こえ続けていた。赤外線カメラの赤い光だけが無機質に点滅する暗闇の中で、彼はただ、容赦のない文字の濁流がアバターを飲み込んでいくモニターを立ち尽くして見つめることしかできなかった。




