第3話 トップVTuberの二代目
静音設計のエレベーターが、かすかな浮遊感を伴って高層ビルを降下していく。
天井のデジタル表示が24階から一桁台へ、そしてマイナスへと切り替わった。任三郎は扉から視線を外し、隣に立つ小柄なプロデューサーを見下ろした。
エレナ・クルスは手元のタブレット端末をスワイプし続けながら、エレベーターの密室という状況を利用して淡々と口を開く。
「先ほどのテストで、あなたの声帯と演技の技術が、こちらの要求を満たしていることは確認できました。次は、身体です」
「身体……さっき、動きもすべて俺がやると言っていましたね」
「ええ。天ノ川シリウスは、ただ雑談を配信するだけのタレントではありません。歌い、踊り、3D空間でファンと交流する。彼の動きは、声以上に重要なコンテンツです」
エレベーターが地下3階で停止し、鈍い電子音とともに扉が開いた。
先ほどのオフィスフロアとは空気が全く違う。カーペットの代わりに黒い静電気防止マットが敷き詰められ、空調の音に混じってサーバーや巨大な冷却ファンの重低音が低く響いている。冷え切った無機質な廊下を、エレナのピンヒールが硬い音を立てて進んでいく。
「それにしても」
任三郎は彼女の背中を追いながら、率直な疑問を口にした。
「看板タレントの中身が突然空席になるなんて、一体何があったんですか。事故か、病気か」
「……理由は言えません。重大な契約違反があったとだけ」
エレナは歩みを止めず、振り返りもせずに答えた。声のトーンが1段下がっている。
「発覚と同時にこちらから契約を解除しました。今は『喉の不調による一時的な休養』とアナウンスして時間を稼いでいますが、この状態が長く続けば取り返しのつかない事態になる。だからこそ、即戦力で彼を完璧に演じ切れる『二代目』が必要だった。事情は分かりましたね?」
「……まあ。よくある話です」
劇団でも、映像の世界でも、表向きの爽やかな顔の裏で致命的なトラブルを起こして消えていく役者は珍しくない。人間の業だ。
「ええ、よくある話です。ですが、会社にとっては笑えない」
エレナは廊下の突き当たりにある分厚い金属製の扉の前で立ち止まった。首から下げた社員証をカードリーダーにかざすと、重々しいラッチの解除音が響く。彼女はノブを引き、重い扉を開け放った。
そこは、黒と緑の太いケーブルが床のあちこちを這う、広大なスタジオだった。
体育館ほどの広さがある空間の四方の壁や天井には、無数の特殊なカメラが等間隔で設置され、中央の何もないスペースに向けて赤い光の瞬きを絶え間なく放っている。部屋の片隅には無数のモニターが並ぶコントロール卓があり、数人のスタッフがヘッドフォンを片耳に当てながらキーボードを叩いていた。舞台の稽古場とは全く異なる、無機質で冷徹なテクノロジーの最前線。
エレナが中に入ると、ディレクターらしき男性が足早に近づいてくる。
「エレナさん。こちらが?」
「ええ、新しい候補よ。大至急、彼に合うモーションキャプチャースーツを出して。身長189、肩幅もあるわ。特大サイズを探してちょうだい」
ディレクターは任三郎の巨体を見上げ、一瞬だけ怪訝な顔をした後、すぐに裏の機材室へ走っていった。
数分後。
控室代わりのパーテーションの裏で、任三郎は渡された「衣装」と格闘していた。
黒い、伸縮性のある特殊な化学繊維でできた全身タイツのようなスーツ。所々に、カメラの赤外線を反射するための銀色の球体——マーカー——がマジックテープで無数に取り付けられている。
ヨレヨレのジーンズとミリタリージャケットを脱ぎ、パイプ椅子に畳んで置く。それから、窮屈なスーツに長い手足を通していく。いくら伸縮性があるとはいえ、特大サイズでも任三郎の骨格には少し小さく、生地が皮膚にぴたりと張り付いて関節の可動域にわずかな抵抗を生む。
頭には、マイクとフェイシャルトラッキング用の小型カメラが突き出たヘッドギアを被る。額の前にカメラのアームが伸びており、視界の端に常に黒い棒がちらついた。
姿見の鏡の前に立ってみた。
全身を黒いタイツに包み、頭から不格好なカメラを突き出させた、無精髭の大男が映っている。
いい年をして、一体何をやっているんだ。
鏡の中の自分に向けた自嘲が脳裏をかすめるが、すぐにパイプ椅子の上に置かれた薄い財布を思い出し、無益な思考を断ち切る。明日の飯代を稼ぐためだ。舞台の衣装だろうと、黒いスーツだろうと、役を演じて金がもらえるならやるしかない。
任三郎は短く息を吐き、スーツのシワを伸ばしてからパーテーションの外へ出た。
スタジオの中央に向かって歩いていく任三郎を見て、コントロール卓のスタッフ数人が、急に忙しそうに視線をモニターに逸らした。
だが、エレナだけは一切表情を崩さず、マイクの前に立って指示を出す。
「その中央のバミリの上に立って、両手を水平に広げてください。いわゆるTポーズです」
指示通りに、床に貼られたテープの目印の上に立ち、両腕を広げる。
オペレーターがキーボードを叩き、「キャリブレーション、行きます」と声を上げた。
任三郎の正面にある巨大なモニターに、無数の緑色のワイヤーフレームが浮かび上がる。それは瞬時に任三郎と同じ189センチの骨格を形成し、次の瞬間、きらびやかなテクスチャが貼り付けられた。
金髪碧眼。豪奢な白い軍服。マントの金の装飾。
先ほど応接室のモニターで見た「天ノ川シリウス」の3Dモデルが、モニターの中で任三郎と全く同じTポーズをとって静止している。
「終わりました。平野さん、少し動いてみてください」
オペレーターの声に従い、任三郎は右手を下ろした。
モニターの中の王子様が、同じタイミングで右手を下ろす。左足を一歩前に出すと、王子様も軍服のマントをわずかに揺らして一歩前に出た。軽く首を振ると、金髪がさらりと揺れる。
遅延はまったく感じられない。自分の肉体が、ガラスの向こうの二次元のキャラクターの肉体と完全にリンクしている。遊園地の着ぐるみに入るのとも違う、自分の身体の動きだけがデータとして抽出され、全く別の美しい器に流し込まれたような、奇妙で薄気味悪い感覚だった。
「歩き回ってみてください」
任三郎はスタジオの中央を数歩歩いた。
モニターの中の王子様が歩く。
しかし、すぐにマイク越しにエレナの冷ややかな声が響いた。
『ストップ。平野さん、その歩き方は何ですか』
「歩き方……。いや、ただ普通に歩いただけのつもりですが」
慣れないスーツの窮屈さと、自分の動きがリアルタイムでモニターに反映される戸惑いから、任三郎の答えは少し歯切れが悪かった。
『モニターを見てください』
任三郎はモニターの中のシリウスに視線を向ける。
そこには、華やかな軍服を着た王子様が立っていた。だが、その立ち姿はひどく重苦しい。肩が落ち、重心は不自然に低く、何かから身を隠すように足を引きずって歩いているように見える。
『あなたは今、家賃を滞納している冴えない舞台俳優じゃありません』
エレナの容赦ない指摘が、スタジオのスピーカーから降り注ぐ。
『天ノ川シリウスは、星の海からやってきた王子様です。ファンを愛している。自信に満ち、軽やかで、一挙手一投足に優雅さがある。先ほど応接室で見せてくれた声の演技を、身体でも表現してください』
言っていることは正論だった。
いくら外見が美しくデザインされていても、中身の動かし方が伴わなければ、途端に不気味な操り人形に成り下がる。周囲を取り囲む最新のテクノロジーは、任三郎の無意識の疲労感や生活の重みすらも、正確にデータとして拾い上げてしまっていた。
任三郎は目を閉じた。
足の裏から静電気防止マットの感触を拾い、骨格のバランスを意識的に組み替えていく。
重心をへそから胸の高さまで引き上げる。落ちていた肩の力を抜き、わずかに胸を張る。首の角度を調整し、顎を引くのではなく、遠くの客席を見渡すように軽く持ち上げる。スーツの張り具合を感じながら、指先までの神経の通り道を整える。
三十数年かけて染み付いた「平野任三郎」という人間の生活の癖を、一つずつ意識的にミュートしていく。舞台上で全く別の人間を生きるための、彼にとって最も慣れ親しんだ作業だった。
目を開く。
再び歩き出す。
先ほどの重苦しい足取りは完全に影を潜めていた。
一歩の歩幅が広がり、つま先から着地するような滑らかで音のない体重移動。腕の振りは計算されたように自然で、軍服のマントが仮想空間の風をはらんで美しく揺れる。
くるりと軽くターンをし、モニターの向こう側にいるはずの見えない客席に向けて、優雅に右手を差し伸べた。
コントロール卓のキーボードを叩く音が、いつの間にか止んでいた。
モニターの中の天ノ川シリウスは、計算高いアイドルの動きとは違う、より内側から溢れ出るような、本物の気品と大人の色気を纏った王子様としてそこに存在していた。
だが、エレナやスタッフの視界には、モニターと同時に現実のスタジオの光景も映っている。黒いスーツを着た無精髭の大男が、真顔で極めて優雅に王子様のターンを決めている光景が。
オペレーターの一人が、咳払いをごまかすように口元を両手で覆って顔を伏せた。
『……素晴らしいです、平野さん』
エレナは、インカムのマイクを手で押さえながら、口元を引き結んでいた。
『では、声のテストも兼ねて。さっきの台詞を、その動きに合わせてやってみてください』
「分かりました」
任三郎はヘッドギアの口元のマイク位置をミリ単位で調整し、姿勢を正した。
王子様としての身体の軸を保ったまま、肺に空気を満たす。
「皆の衆、ごきげんよう!」
甘く、少しだけかすれたテノールがスタジオに響く。
モニターの中の王子様が、満面の笑みで大きく手を振る。
続けていくつか言葉を紡ぎながら、胸に手を当て、少しだけ首を傾ける。フェイシャルトラッキングが任三郎の目の動きを細かく拾い、シリウスの碧眼が伏せ目がちに揺れる。
ただ台詞を言うだけでなく、言葉の間に含まれる微かな吐息や、目線の動かし方が、王子様という架空のキャラクターに確かな生々しさを付与していく。
「……僕がずっとそばにいるから、安心して」
最後は、カメラに向かってそっと手を伸ばし、何かを包み込むような仕草。
声の甘さと、無駄のない優雅な動き。モニターの中の完成度は、確かな説得力を持っていた。
『……完璧です』
エレナの声が、かすかに震えているように聞こえた。それは笑いを堪えているのか、あるいは予想以上の成果に対する純粋な反応なのか、任三郎には判断がつかなかった。
『ただ、視覚情報がひどく邪魔をしますね。オペレーター、申し訳ないけれど、スタジオ内の照明を一番暗くまで落として。彼の動きが見えると、気が散るから』
「はい、落とします」
スタッフの安堵したような声とともに、スタジオのメイン照明が完全に落とされる。
赤外線カメラの赤いLEDの瞬きと、巨大なモニターの光だけが浮かび上がる薄暗闇の中。
任三郎は、ようやく自分の格好が見えなくなったことに少しだけ安堵し、モニターの中の自分——天ノ川シリウスという新しい器——と、静かに視線を交わした。




