第2話 裏バイトと敏腕プロデューサー
無機質で磨き上げられたエントランスホールには、仕立ての良いスーツを着こなすビジネスマンや、洗練されたオフィスカジュアルの社員たちが足早に行き交っている。すれ違うたびに、かすかに高価な香水の匂いが漂う。
その中で、ヨレヨレのミリタリージャケットに色褪せたジーンズ、無精髭を生やした189センチの大男は、どう見ても迷い込んだ不審者だった。すれ違う数人が、警戒するような、あるいは怪訝な視線を彼に向けてはすぐにそらしていく。
任三郎は手元のスマートフォンと案内メールの画面を交互に確認し、受付のタブレット端末に不器用な手つきでQRコードをかざした。機械が短く鳴り、吐き出されたペラペラの入館証を首から下げる。静音設計のエレベーターに乗り込むと、鏡張りの壁に映る自分の場違いな姿から目を逸らすように、天井のフロア表示だけを見つめ続けた。
指定された24階で降りる。エントランスの喧騒とは打って変わって、少し照明を落とした静謐な空間が広がっていた。黒を基調とした壁面には発光するLEDのラインが幾何学模様を描き、『GALAXY LIVE』というシャープなロゴが浮かび上がっている。
受付の横にある黒い革張りのソファに腰を下ろした。深く沈み込む感触に妙な落ち着かなさを感じ、浅く座り直して待っていると、フロアの奥から足音が近づいてきた。
規則的で、硬いピンヒールが床を叩く音。
現れたのは、小柄な女性だった。艶やかなダークブラウンのウェーブヘアに、意思の強そうな大きな瞳。健康的な小麦色の肌によく似合う、タイトな黒のパンツスーツを着こなしている。身長は150センチ台半ばといったところか。しかし、彼女の全身から発散されるエネルギッシュなオーラは、実際の体格以上の存在感を持って周囲の空間を支配していた。
女性はソファから立ち上がった任三郎の巨体を下から上へとなぞるように一瞥し、スッとビジネススマイルを作る。
「平野任三郎さんですね。お待たせしました」
流暢で、少し早口な日本語だった。
「ギャラクシー・ライブ、プロデュース部のエレナ・クルスです」
「……平野です。本日はよろしくお願いします」
任三郎が短く頭を下げると、エレナは顎で奥の廊下を示した。
「こちらへ。詳しいお話は中で」
通されたのは、防音設備の整った応接室だった。壁の片面には巨大なモニターが設置され、ガラスのテーブルを挟んで向かい合うように座る。
エレナは手元のタブレット端末をスワイプし、視線を落とした。
「急な呼び出しに応じていただき、ありがとうございます。事前にお送りいただいた経歴は拝見しました。小劇団を中心に、舞台で長く活動されているんですね」
「ええ。ただ、映像や大きな商業演劇の経験はほぼありません」
「存じています」
エレナは顔を上げ、任三郎の目を真っ直ぐに見た。その瞳には、オーディション会場の演出家が見せたような「扱いづらいものへの嫌悪」はなく、純粋な機能性を測るような冷徹な光が宿っている。
「単刀直入に伺います。なぜ、うちに応募したんですか? 募集要項をご覧になったならお分かりかと思いますが、うちは舞台やドラマの制作会社ではありません。あなたのようなアンダーグラウンドの役者が、自分から門を叩くような場所ではないはずです」
「金が必要だったんです」
任三郎は一切の装飾を省いて答えた。
「家賃を2ヶ月滞納しています。このままでは今週末にはアパートを追い出される。今日明日を生き延びる現金が必要で、あの募集の『高額報酬』という文字に飛びつきました」
嘘偽りのない、現実的な理由。取り繕う余裕すらない事実だった。
エレナはわずかに目を細め、それから口角を小さく上げた。
「……なるほど。変な芸術論を語られるよりは好感が持てます。それに、切羽詰まっている人間のほうが、守秘義務契約の重みを理解しやすいですからね」
「守秘義務契約」
「ええ。うちでお願いする仕事は、一切の口外が禁じられます。あなたの『平野任三郎』という名前が表に出ることもありません。徹底的な裏方です。それでも構いませんか?」
「俺の名前で飯が食えるなら、苦労はしていません。金さえ払ってもらえるなら、顔も名前も要りません」
任三郎は短く答えた。
エレナは無言でタブレットを操作し、それから1枚のペーパーをテーブルの上を滑らせて任三郎の前に差し出した。
「あなたの基礎的な技術は、経歴からある程度推測できます。ただ、うちで求めているのは少し特殊なスキルでして」
「特殊なスキル?」
「ええ。少し、あなたの声を……演技を見せてください」
任三郎は渡された紙に視線を落とした。
そこには、数行の短い台詞が印刷されていた。
『皆の衆、ごきげんよう! 星の海から君に会いに来た、天ノ川シリウスだよ。今日も僕と一緒に、最高の夜にしようね。……ん? どうしたの、そんな顔して。僕がずっとそばにいるから、安心して』
任三郎は眉間を寄せ、文字の羅列を見つめた。
「これは、どういった状況の台詞ですか」
「あるタレントの配信用の台本の一部です。設定は、宇宙からやってきた王子様。常にファンを第一に考え、甘く、爽やかで、少しだけミステリアス。……これを、今ここで演じてみてくれませんか」
エレナの顔にふざけた様子は微塵もない。真剣そのものの目で任三郎の反応を窺っている。
舞台であれば、照明があり、衣装があり、相手役がいて、徐々に空気を作っていくことができる。だが、ここは無機質な応接室だ。
それでも、板の上に立つよう指示されたのなら、役者は応じるしかない。
「……少しだけ、時間を」
任三郎は紙を持ったまま、深く目を閉じた。
空調の微かな稼働音を遮断し、呼吸の速度を落とす。頭の中で文字列を分解し、「王子様」という架空の人物の骨格、歩幅、肺活量、思考の癖を急速に組み上げていく。三十代の疲労した肉体を透明な器にし、別の生き物の魂を注ぎ込むための緻密な作業。
十数秒後。
任三郎が再び目を開けた瞬間、エレナは眼球の奥が微かに痺れるような錯覚を覚えた。
目の前に座る巨漢から、先ほどまでの無精髭のむさ苦しさが完全に消え去っている。骨格や服装が変わったわけではない。ただ、背筋のわずかな伸び、口角のミリ単位の角度、そしてモニター越しの無数の群衆を一人残らず愛しげに見つめるような視線の落とし方だけで、そこに全く別の人間が存在しているという錯覚を周囲の空間に強要していた。
「皆の衆、ごきげんよう!」
放たれた声は、エレナの予想を軽々と飛び越えた。
声帯そのものを変えたわけではない。地声の低さを活かしながらも、胸部から頭部へ共鳴させる位置を瞬時に切り替え、息の漏らし方を極限までコントロールすることで、耳の奥を直接撫でるような甘い響きを生み出していた。
「星の海から君に会いに来た、天ノ川シリウスだよ。今日も僕と一緒に、最高の夜にしようね」
言葉と言葉の間に挟まれる、絶妙な余白。かすかに語尾に混じる吐息のような笑い声。それは単なる美声の朗読では決してない。目の前の空間に「天ノ川シリウス」という血の通った人間が確かに呼吸しているという、暴力的なまでの説得力。
任三郎はわずかに首を傾げ、目を細める。
「……ん? どうしたの、そんな顔して。僕がずっとそばにいるから、安心して」
最後の言葉が空気に溶けた後、応接室に重い静寂が降りた。
エレナは無意識のうちに息を止めていた。喉の奥がカラカラに乾いている。プロデューサーとして何百人という志願者の音声データを聞き、現場で演技を見てきたが、声と間合いだけでこれほどまでに空間の温度を書き換えてしまう「演技の質量」には出会ったことがなかった。
一方の任三郎は、台詞を言い終えた姿勢のまま数秒間静止し、やがて深く、重い息を吐き出して目を伏せた。
憑依した役の熱を逃がすように、数度浅い呼吸を繰り返す。極端にアイドル的なキャラクターを自分の中に降ろした反動が、筋肉のわずかな強張りを生んでいた。すぐには言葉が出ない。
「……こんな、感じで」
数秒遅れて、元の低く掠れた声でかろうじてそれだけを口にする。顔を上げた彼の表情は、先ほどまでの「星の海の王子様」から、元の生気のない顔へと戻っていた。
エレナはテーブルの下で強く拳を握り込み、努めて冷静な声を取り繕う。
「……驚きました。今のテストで十分です」
彼女はテーブルの上のリモコンを取り、壁面の大型モニターの電源を入れた。
黒い画面がパッと明るくなり、そこに1枚の緻密なイラストレーションが映し出される。
金髪碧眼。豪奢な白い軍服風の衣装を纏い、不遜ながらも愛らしい笑みを浮かべた、まさに二次元の王子様そのもののキャラクター。
「彼を知っていますか?」
任三郎はモニターを見上げ、首を横に振る。
「いや。アニメのキャラクターですか」
「いいえ。彼は天ノ川シリウス。うちのトップタレントで、100万人のファンを抱えるVTuberです」
「ブイ、チューバー」
言葉自体はニュースか何かで聞いた記憶がある。生身の人間ではなく、イラストやCGのキャラクターをアバターとして被り、動画配信を行う連中のことだ。
「彼の中身……業界用語で『魂』と呼びますが、現在、ある事情で空席になっています。彼という巨大なコンテンツを、これ以上止めておくわけにはいかない」
エレナはモニターから視線を外し、任三郎の顔を真っ直ぐに見据える。
「あなたにお願いしたい仕事は、この『天ノ川シリウス』の二代目です」
「二代目。……つまり、俺にこのキャラクターの声を当てろと?」
「声だけではありません」
エレナは立ち上がりながら、任三郎の横へ歩み寄る。
「動きも、息遣いも、ファンとの会話も、すべてです。あなたには、今日からこの天ノ川シリウスという存在そのものになってもらいます」
「……俺が、これを」
任三郎はモニターの中のきらびやかな王子様と、ガラスに薄く反射している自分の不格好な姿を交互に見比べた。
「ええ」
エレナは手元のタブレットを小脇に抱え、応接室のドアノブに手を掛ける。
「とりあえず、採寸のために地下のスタジオへ行きましょうか。モーションキャプチャースーツのサイズ、あなたのような巨体に合うものが在庫にあるか分からないので」




